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浅間さんの縁日、くじ引きで当たるのは気分

 幹夫青年が「浅間さんへ行かう」と思ひ立つたのは、信心の発露といふやうな、立派で便利な理由からではない。 そもそも彼は、立派な理由を胸にしまふと、すぐそれに息が詰まる性分である。立派な理由は、たいてい翌朝には説教に化ける。説教に化けた理由は、こちらの寝起きの顔を平手で打つ。

 だから今夜の幹夫には、ただ一つだけの口実があつた。 ――灯が多い方へ行く。 それだけである。灯の多いところへ行けば、自分の影が薄くなる。影が薄くなれば、胸の内の小さな裁判も、ひと晩ぐらゐは休廷する。

 夕方の静岡の町は、白い灯から黄いろい灯へ、するりと着替へる。 呉服町のアーケードを抜け、七間町の看板の匂ひを横目に見て、青葉の並木の方へ足を向ける。風はまだ冷たくないのに、肌に触れると一寸だけ秋が混じつてゐる。人の歩く速さは相変らずで、速いのに急いでゐない。静岡の町の得なところは、その「速いのに急がない」加減にあると、幹夫は勝手に思つてゐる。

 浅間さんの方角へ近づくにつれ、空気が変つた。 匂ひが増える。焼いた醤油の匂ひ、甘い綿菓子、揚げものの油、そして、どこかに必ずある茶の香。匂ひが増えると、頭の中の言ひ訳が息をしづらくなる。言ひ訳が息をしづらい夜は、幹夫にとつてありがたい夜である。

 石段の下には、提灯が並んでゐた。 赤い紙に黒い字が揺れて、風が通るたびに、灯が一斉に小さく震へる。震へるのに消えない。消えない灯は、見てゐるだけで前向きになる。 「浅間さん」と、地元の人は気軽に言ふ。気軽に言ふから、神様の方も気軽な顔をしてゐるやうに見える。威張らぬ神様ほど、ありがたいものはない。

 境内へ入ると、人の波が柔らかくうねつてゐた。 家族連れ、浴衣の若い者、仕事帰りの一人客――幹夫と同じやうな――が、それぞれの顔で歩いてゐる。皆、楽しさうに見える。楽しさうに見える顔を見て、幹夫はいつもの癖で、斜に構へかけた。 ――楽しさうに見える顔なんて、作れる。 だが、今夜はその斜めを、ひとまず荷物の底へしまつた。斜めはよく切れるが、よく冷える。縁日で冷えるのは野暮だ。

 屋台の列の端で、甘酒の湯気が立つてゐた。 幹夫はその湯気に引つ張られ、先に言つてしまふ。

「こんばんは」

 売り子の女が笑ふ。

「こんばんは。甘酒、温いのと冷たいの、どつち?」

 幹夫は、迷はず温いのを選んだ。迷はず選べる夜は、それだけで上等だ。 紙コップを受け取ると、掌に小さな熱がのる。その熱が、胸の石の角を一寸だけ丸くする。丸くなると、歩ける。

 甘酒をひと口含むと、甘さが舌に広がり、あとから米の匂ひが追ひかけて来た。 うまい。うまいものは、うまいでいい。難しくすると冷める――この町の湯気の人たちは、いつもさう言ふ。

 幹夫が屋台を眺めながら歩いてゐると、派手な声が耳に入つた。

「当たり! 当たり出てるよ! 兄さん、姉さん、運ためしてきな!」

 声の方へ目をやると、「くじ引き」と書いた札が見えた。 景品が高く吊られ、ぬいぐるみだの、小さな扇子だの、光る玩具だのが、提灯の灯を受けて揺れてゐる。 くじ引き――と聞くだけで、幹夫の胸のどこかが、きゆつとする。くじは、当たり外れがはつきりしてゐる。はつきりしてゐるものは、幹夫にとつて怖い。人生の当たり外れは、たいてい曖昧で、その曖昧さの中でこそこそ生きて来た男だからである。

 幹夫は、屋台の前で立ち止まつた。 立ち止まつた瞬間、頭の中の裁判が開廷しかける。

 ――当たらなかつたら、しらける。 ――当たつたら、当たつたで、喜ぶ顔が恥づかしい。 ――そもそも、くじの運などに乗るのは、軽薄ではないか。

 幹夫は、かういふ裁判の書記をやるのが妙に上手い。上手いが、上手いほど不幸である。

 すると、屋台の親方――年配の男――が、幹夫の顔を見て言つた。

「兄さん、悩むなら一回やんな。悩む時間で一本引ける」

 悩む時間で一本引ける。 その言ひ方が、可笑しくて、幹夫は思はず口元が緩んだ。 悩みは、いつも時間を食ふ。時間を食ふくせに腹は満たさぬ。ならば、時間の代りにくじを引くのも、たまには悪くない。

「……一回、お願いします」

 幹夫は小銭を出した。 十円玉と百円玉が、掌の中でかちりと鳴る。鳴ると、妙に腹が据わる。大道芸の帽子で覚えた「音」の稽古が、こんなところでまた効いて来る。

 親方が紙の札を差し出した。

「ほら、引きな。出た番号、読んでやる」

 幹夫は箱の中へ手を入れ、紙の札を一枚引いた。 引いた札は、軽い。軽いのに、胸の中が重くなる気がするのが滑稽だ。幹夫は札を開いて、数字を見せた。

「……七」

 親方は、ぱつと笑つた。

「七、いいねえ。縁起がいい顔してる。――七は、残念賞!」

 残念賞。 「残念」と言はれた瞬間、幹夫の胸の内の裁判が、勝ち誇つて立ち上がりかけた。 ――ほらみろ。 ――やはり自分は当たらない。 ――当たらない男が、当たりの灯の下へ出ると、余計にみじめだ。

 ところが親方は、こちらの裁判など知らぬ顔で、棚の下から小さな包みを出した。

「残念賞は、飴。うまい飴だ。外れた口に甘いの入れときな」

 外れた口に甘いの。 その言ひ方が、妙に優しい。 幹夫は受け取つて、包みの軽さを指で感じた。軽い。軽いものは、責任を残さぬ。責任を残さぬ甘さは、縁日に似合ふ。

「……ありがとうございます」

 幹夫が言ふと、親方は、扇子で自分の額をぱたぱたしながら言つた。

「礼なんか要らねえよ。兄さん、くじはな、景品が当たりじゃねえ。気分が当たりだ。気分が当たれば勝ち」

 気分が当たり。 幹夫は、その言葉を胸の中で転がした。 景品が当たりではない――そんなことを言へるのは、景品で食つてゐる人間の口から出るから面白い。皮肉でも説教でもなく、ただ商ひの知恵みたいに聞こえる。

 幹夫が屋台の端へ寄つて、包みを開けようとすると、隣で小さな女の子が、親方の前で泣きさうな顔をしてゐた。 母親が困つたやうに笑つてゐる。

「ほら、残念賞だつたね。今日はこれで……」

「やだ。あれがいい」

 女の子が指さしたのは、上の方に吊られた、少し大きなぬいぐるみだつた。 欲しいものを欲しいと言へるのは、子どもの特権である。大人は欲しいものを欲しいと言へないくせに、欲しくないふりをする。幹夫はその点で、ずいぶん大人になりすぎた。

 親方が、女の子に言つた。

「姉ちゃん、ぬいぐるみはな、当たり引かなきゃ来ねえ。けど、泣く顔は当たりじゃねえぞ」

 女の子は唇を尖らせた。 母親が「ね、また今度」と言ふ。 「また今度」といふ言葉は、時々とても残酷である。今が欲しいときに、今度を出されると、今が空つぽになるからだ。

 幹夫は、包みの飴を手の中で転がした。 飴は、残念賞だ。 だが、気分が当たりなら、残念賞にも当たりが混じる。 混ぜるのは、こちらの勝手である。勝手がちやうどいい――浅間さんの縁日は、さつきからさういふ顔をしてゐる。

 幹夫は、母親に向つて、先に言つた。

「こんばんは。……よかつたら、これ」

 母親が目を丸くする。

「えっ、そんな、いいです」

 幹夫は、逃げの「いえ」を言ひかけて、やめた。 やめて、代りに、親方の言葉を借りてしまつた。

「残念賞なんですけど……外れた口に甘いの、って言はれたんで。姉ちゃんの口の方が似合ひます」

 自分で言つて、少し照れた。 だが女の子は、泣きさうな顔のまま、飴を見て、ふつと息を止めた。 止めた息の次に、口元が少しだけ上がつた。上がつたのが分かつた瞬間、幹夫の胸の奥が、すとん、と落ち着いた。 人の顔が明るくなると、こちらの裁判が閉廷する。

「……ありがと」

 女の子が小さく言つた。 母親が深く頭を下げる。 幹夫は、重たい感謝が苦手で、だから、挨拶に逃げた。

「こんばんは。……いい縁日ですね」

 母親が笑つた。

「ほんと。浅間さんは、毎年助かります」

 助かる。 縁日で助かる。 湯気でも、十円玉の音でも、拍手でもなく、飴ひとつで助かる。人間の前向きは、案外この程度で出来てゐる。

 親方が、横からにやりと笑つた。

「ほらね、兄さん。気分が当たったろ」

 幹夫は、思はず笑つた。 笑ひは声にならぬ程度だが、胸の中ではちゃんと鳴つた。ちん、と。十円玉の音に似た、軽い音である。

 幹夫はそのまま、境内を少し歩いた。 射的の音がして、輪投げの輪が飛び、焼きとうもろこしの焦げが風に混じる。社殿の朱は、夜の灯りに照らされて、昼とは違ふ艶を持つ。 幹夫は、立派な祈りをしなかつた。代りに、ただ、社の前で一度だけ深く息を吸つた。息を吸ふと、甘酒の香と、屋台の油と、杉の匂ひが一緒に入つて来る。混ざつた匂ひは、なぜだか明るい。

 帰り際、幹夫は石段の下で、もう一度だけ振り返つた。 提灯が揺れ、人の声が揺れ、浅間さんの夜は、まだもう少し続くらしい。続くらしい、といふ曖昧さがよい。終りが決まると、楽しいものは急に寂しくなる。終りが曖昧なら、楽しいものはそのまま胸に残る。

 幹夫は歩きながら、スマホを取り出した。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。今夜は飴ひとつの夜だ。短くて、甘いだけでいい。

 ――「浅間さんの縁日でくじ引いた。景品は残念賞だったけど、気分は当たりだった。今度話す。」

 送信してしまふと、画面が静かに戻つた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、今夜の幹夫は、それで十分だと思へた。気分が当たつた、といふだけで、帰り道が少し軽い。

 くじ引きで当たるのは、景品だけではない。 むしろ当たりやすいのは、気分の方だ。 幹夫青年は浅間さんの縁日で、その当たり方をひとつ覚えた。 大当たりではない。だが、小当たりは長持ちする。

 
 
 

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