海の果て、夢のままに
- 山崎行政書士事務所
- 6月14日
- 読了時間: 25分

――第一章「午後の波音」――
潮の満ちる音が、汽笛のように低く、長く、三輪晃司の鼓膜にこだましていた。かつて炭鉱で栄え、今は風力発電と過疎化が同居するこの町、佐世保湾南端の水ノ浦。港の町の風景は、彼の少年期から大きくは変わっていない。だが、変わらぬものはいつも静かに腐ってゆくのだと、晃司は知っていた。
午後三時。役場の一角、風が吹き抜ける待合室。空調は壊れて久しく、海風に任せた涼気だけが町民たちの肌を撫でていた。
「三輪さん、海保からのFAX、来ましたよ」
総務課の若い職員が声をかけた。晃司は無言で立ち上がり、無造作に紙を受け取った。活字は滲みかけていたが、短く、冷たい文言が印字されていた。
【警戒情報】中国人民解放軍空母「山東」及びミサイル駆逐艦各1隻、南鳥島EEZ内に展開中宮古島南方海域にてJ-15戦闘機による低空航過を確認対応中のP-1哨戒機に対し異常接近有り。※各地方自治体における海岸施設の警戒を強化されたし
「いよいよ来たな…」
晃司の口元が、ほとんど笑みにも似た静けさでわずかにゆるんだ。国の上層部が“シビリアン・コントロール”という呪文にすがって眠る間にも、海の向こうからは黒い波が寄せてくる。
湾の入り口にある監視塔から、若き海上自衛官、中尉・鷲尾隆司が、光学望遠を通して水平線を見つめていた。
「艦影、確認。北緯28度34分、東経134度12分。航速、おそらく18ノット。中国海軍所属、空母『山東』、確認」
「随伴艦は?」
「Type 052D型駆逐艦2隻、Type 901型高速補給艦1。艦載機はJ-15、約10機を確認、旋回訓練中です。高度450m。P-3Cに対し進路妨害あり」
副長が頷いた。「ミサイルのハッチは?」
「まだ閉じていますが、054A型のVLS(垂直発射装置)にカバー異常。即応態勢と見られます」
コンソールに詰める防衛大の情報幕僚は、すでに東京・市ヶ谷の統合幕僚監部とリアルタイム通信中だった。
「サウスコマンド(南西方面隊)、即応態勢。哨戒機P-1は与那国島基地へ退避中。護衛艦『こんごう』『むらさめ』は航行中のコンテナ船『第七雲海丸』に随行。護衛行動移行中」
現場の空気が張り詰めていた。砲を撃つのではない。レーダーの向き一つ、通信の間一瞬の沈黙、無人機の動き。それらすべてが、この21世紀の“前哨戦”である。
「ミサイル警報、台湾海峡で発令。中共艦艇よりDF-21Dミサイル、3発が発射確認されました。目標は南東海域、海上封鎖の模擬演習とみられます」
その報に、鷲尾の背筋がピンと伸びた。
「封鎖だ…来たぞ」
町では、テレビの速報テロップが流れ始めていた。《イスラエル、イラン核施設への攻撃を確認――報復の可能性――米国、空母派遣へ》《中国、台湾近海で封鎖演習開始と発表――“断固たる意志”を強調》
そして、小さな町の役場でも、村会議員の一人が震える声で言った。
「海が……封鎖されたら、この町、どうなるんでしょう……?燃料も、食料も……」
晃司は、それを聞きながら思った。この国の“国防”という言葉が、どこか舞台装置のようにしか響かなかった時代は、終わった。目の前で、もう始まっている。
それでも、町は午後の波音に包まれている。子供たちの歓声が、保育園の奥からかすかに聞こえた。この町が燃やされる日を、誰も想像できないままに――。
第二章「旗なき戦場」
夜の海が、墨のように黒く沈んでいた。空には星のひとつも見えず、風だけが、低く唸るように吹き抜けていた。
佐世保港・第五岸壁。そこに一隻の海上保安庁の巡視艇「PLH-03 はやかぜ」が接岸していた。
艦長・**沢渡理一郎(42歳)**は、艦橋で無言のまま状況報告を受けていた。国からの正式命令は、いまだ発出されていない。
「……本省(海上保安庁)からの通達も、“警戒を強化せよ”の一点張りです。哨戒海域の変更、許可されません」
副長が苦々しく吐き捨てる。
「上は、事態を『国際的緊張の一環』と位置づけているらしい」
「違うな。――これは“侵攻”の準備行動だ」
沢渡ははっきり言った。
「情報部からの衛星画像でも確認された。“遼寧”の艦載機が、南鳥島東方のEEZ内に燃料タンク付きミサイルを仮装した機体を展開している。おそらく空対艦ミサイル“YJ-83”の実戦想定配置だ」
「目的は?」
「制海権のテストと、日本の反応速度の観測だ。――つまり、“守る意志”があるかどうかを見ている」
その言葉に、艦内の空気が凍った。
そのころ、三輪晃司は町の旧小学校に呼ばれていた。かつての校舎は、今では地域の避難指定施設である。すでに町の有志と消防団が集まっていた。
「晃司さん、町の燃料備蓄、あと5日分です。南海フェリーも止まりました。物資は……」
「待て」晃司は、静かに言った。「――国は、非常事態宣言を出したか?」
「……いえ、何も」
「それなら、“自衛的準備”に当たる限り、この町でできることはやる。自衛隊が来るのを待っていても手遅れになる」
地元の消防団長・佐竹が声を上げる。
「俺たちに、何ができるっていうんです?」
晃司は一枚の紙を掲げた。
「この町には、戦時中に作られた地下燃料貯蔵庫がある。いまは封鎖されているが、復旧可能だ。水も濾過システムを使えば飲用に転用できる」
「そんなもの、まだ使えるのか?」
「国が守らなければ、郷土を守るのは、我々の義務だ。」
誰も、反論できなかった。
その夜遅く、鷲尾中尉は哨戒艦「さつま」艦上にいた。海上自衛隊のイージス艦が**“非交戦の最前線”**に張り出している。
「敵艦隊、遼寧から30ノットで東進。護衛艦“紹興”と“鄭州”を伴う」
レーダー士が声を上げた。
「J-15、4機が前進展開。機首方位025、速度マッハ0.9、対艦侵入軌道!」
その瞬間、艦内の全灯が赤に変わった。
「総員、戦闘配置――ロックオン照射、応答用ジャマー、起動!」
ブリッジでは、指揮官の白浜一等海佐が苦渋の判断を迫られていた。
「発砲は……まだだ」
「しかし艦長、我々はレーダー照準されています。撃たれる可能性は――」
「“撃たれる可能性”と“開戦”は違う! 政府の命令がなければ、“撃てない”!」
部下たちは歯噛みした。海は、もはや国家の意思を超えた“無音の戦場”になりつつある。その中で、自衛艦はただ、沈黙のまま“的”としてそこに浮かんでいる。
艦内のスピーカーが鳴った。
『第3航空団より通報。中国無人機“GJ-2”が与那国島南方150kmに進出。機関銃塔を装備。レーダー不感帯に進入中。……』
そして、次の瞬間――
「警報! 中国艦“鄭州”より、レーダー波強化照射確認。これは火器管制用レーダーです!」
艦内に絶叫が走った。
「警告射撃か?」
「……いいえ。敵艦は照準だけしてきている。あくまで挑発行為です……!」
「……くそっ」
白浜艦長は拳を握り締めた。
その時だった。艦橋の片隅で、鷲尾中尉が呟いた。
「これが……“戦わない国家”の現場か」
夜が明けるころ、三輪晃司は丘の上の神社に立っていた。まだ誰もいない社殿で、彼は一礼し、旗を揚げた。日章旗。
しわくちゃの赤と白の布。戦後の町の片隅にしまわれていた旗だった。風に吹かれ、ゆるやかにひるがえるその姿は、どこか寂しく、しかしどこまでも静かだった。
「誰も、振り向かなくてもいい。だが……この町は、まだ“国”であることを、忘れてはいない」
その眼差しには、どこか若き日の松枝清顕のような、青く狂おしいまでの誇りがあった。
第三章「暁の背後には、影」
夜が明けて、世界が何事もなかったように微睡みを取り戻す時、それは最も危険な時間帯である――鷲尾隆司は、かつて防大でそう教わった。そして今、彼はその“暁”の橋の上に立っていた。
空母「遼寧」を伴った中国艦隊は、日本の排他的経済水域(EEZ)内を航行しながら、明らかに実戦的なフォーメーションを組んでいた。円陣を描くように進む駆逐艦の配置、艦載機による高低差を用いた“スプリットS”の繰り返し。まるで、戦わずして制海権を奪う演舞だ。
「電子戦機が出ました。空母“遼寧”よりKJ-600、ELINT機。電波妨害を開始」
P-1哨戒機からのフィードが崩れ始める。
「通信ジャミング範囲、南鳥島から父島にかけて半円形に拡大中」
鷲尾は艦橋の窓から、淡い朝の光に滲む水平線を見た。それは彼の生まれた島――屋久島の方向でもあった。
「彼らの目的は、我々を“通信断絶”させて、国家判断の遅延を誘発することだ」
彼は小声でつぶやいた。
「島嶼国家の脳を麻痺させ、外郭から切り取る……“人間の血管”でいえば末端から壊死させる戦法。サラミ・スライス戦術、だ」
副長が振り返る。「……このまま見ているだけですか?」
「見ているのではない。――“記録している”のだ」
その言葉通り、艦載ドローンはフルHDで艦載機の空中機動を記録し続けていた。それはやがて、世界へ向けた**“言葉なき訴状”**となる。
一方その頃、佐世保の郊外。三輪晃司は、自らが立ち上げた“防衛連絡所”の内部で、集まった住民らと図面を囲んでいた。
「旧水ノ浦海軍燃料庫は、昭和20年5月以降使われていませんが、給油ラインはコンクリート管で保存状態は良好でした」
技術者の男がそう報告すると、晃司は頷いた。
「復旧作業を急がせてくれ。次に来るのは“物流遮断”だ。フェリーの次は、衛星回線と電子決済が止まる」
「電気通信が止まったら、役場は?」
「……衛星携帯と短波通信、あとは自衛消防と無線機の分散配置で乗り切る。想定外を想定内に入れるんだ」
晃司は、もはやただの町職員ではなかった。“誰も国を守らぬなら、郷土を国と定義せよ”――その信念が、彼を奇妙なリーダーへと変えていた。
「先生、これ……使ってください」
若者が差し出したのは、自作の“地域防衛アプリ”だった。各家庭の水・電気・避難状況を可視化し、地図上で防衛ラインを可視化する機能を持っていた。
「俺らなりに、やれること考えました。ネットで集めた知識だけど、もう……誰かの命令を待っている暇はないと思って」
晃司は深く、ゆっくりと頷いた。
「お前たちが、この町の“武器”だ」
その日の午後、鷲尾中尉の艦隊は、突如異常を検知した。
「艦載UAVが高度80mで破壊されました! 対空ミサイル、発射された形跡は無し!」
「EMPか?」
「いえ、レーザー砲……いや、反射で焼かれた可能性が――っ!」
同時に、全艦のレーダーに映るはずの中国艦艇のシグネチャが、一斉に“沈黙”した。
「ステルス対応……彼ら、**“演習を終えた”**ってことです」
そして1時間後、北京は国営放送を通じてこう発表した。
「中国人民解放軍は、南東方面において既定の演習任務を完了。同時に、海上交通路に対する**“即応封鎖能力”**の確認を終えた」
つまり、**「いつでも封鎖できる」**ことを、誇示したのである。
夕刻、晃司は町の小高い丘に再び登った。その視界に、遠く水平線に光るものがあった。
レンズでのぞくと、それは**海上自衛隊の護衛艦「いかづち」**だった。船首に掲げられた日章旗が、夕陽にひるがえる。
「来たか――」晃司の声は、誰にも聞こえなかった。
が、その瞳に浮かんだ涙は、静かに風に流された。
祖国は遠く、だが、まだ生きている。
第四章「海に捧ぐ誓い」
午後十七時三十二分。海上自衛隊護衛艦「いかづち」は、佐世保湾外縁を進んでいた。
前方には、漁業組合の小型船が二隻、脇をすり抜けるように航行していく。それは日常の風景のようにも見えたが、艦橋に立つ艦長・花村拓也二等海佐の眼には、別の意味で映っていた。
「海は、すでに“監視”されている」花村はつぶやいた。
部下が不安げに問う。
「中国艦隊は撤収したと報告がありましたが……本当に“引いた”のでしょうか?」
「いや。一歩、外に出ただけだ。そして我々が、“追ってこない”ことを期待している」
航海士が追加する。
「電子戦機も通信妨害をやめました。おそらく、次は“無通信領域”での衝突――つまりブラックアウト下の偶発戦を狙ってきます」
花村は頷きながら、視線を艦内モニターへ移した。そこには、民間から寄せられたデータが映し出されていた。
「……このデータ、本当に町の子供が?」
「はい。三輪晃司という地方職員と、地元の若者たちです。“分散型地域防衛”を想定したセンサーネットワーク構想だそうで……」
花村はゆっくりと呟いた。
「我々が守っている国とは、こういう連中のことなんだな」
三輪晃司は、避難所の体育館にいた。
老人たちが畳の上で横になり、若い母親が泣き止まない幼児をあやす。その傍らでは、手製の発電機がうなりを上げ、保冷庫と通信機にわずかな電力を送っていた。
佐竹団長が言った。
「本省からの通達は、未だ“平常通り”……。何かを“察している”のは、我々だけだ」
晃司は首を振る。
「いや、“察した”者たちは動き始めている」
そして、彼は町の若者――“防衛アプリ”の開発者、赤松俊介の肩を叩いた。
「お前に、任せたいことがある」
「なんでしょう?」
「この町に、“電子の地図”を貼れ。敵の動きを数値にしろ。海の気配、風の向き、魚の群れの移動……この島が感じる“兆し”を、画面に映せ」
俊介は驚いたように目を見開いた。
「それが、武器になるんですか?」
「武器というのは、“撃てるもの”じゃない。“察せるもの”だ」
夜、海保の巡視艇「はやかぜ」が、不審な無人艇を発見した。
ドローン型の推進装置。艦底部には、細く装着されたカプセルがあった。直径7cm、長さ40cm。中身は、ビーコン発信装置と高性能水中マイク。
「海中センサー……それも、我々の通信波長を盗聴する調整が施されている。この水域で、こんなものが使われているのか……」
艦長・沢渡は無言でカプセルを封じ、爆破処理命令を下した。
「――始まってる。もう、“宣戦布告のない戦争”の中にいる」
そして彼は、静かに敬礼した。
「……国はまだ、戦っていない。だが――この海はもう、誇りをかけた“戦場”だ」
明朝、佐世保湾の対岸――自衛隊と合同で行われる**“国民海上防衛訓練”**が、臨時に開始された。
本来、国民保護法に基づく訓練は“有事”とならない限り実施されない。だが花村艦長の進言と、三輪晃司の働きかけにより、形式上は「地域防災演習」として申請された。
艦艇の汽笛、緊急警報、避難誘導、火器の模擬展開。そして、最後に掲げられたのは――
日章旗と町章が並び立つ、小さな掲揚台。
赤松俊介がつぶやいた。
「これが、俺たちの“宣言”なんですね」
三輪晃司は答えた。
「これは、**“国が動かぬなら、我々が国になる”**という誓いだ」
海は静かだった。だが、その静けさの奥には、すでに火薬の匂いがあった。
第五章「黒き潮流の中へ」
六月二十一日、午前三時。南鳥島東方400海里の公海上――
月は出ていなかった。海は油のように滑らかで、闇の中に溶けるように沈黙していた。
その水面を、音もなく横切る黒い影があった。
中国人民解放軍・094型弾道ミサイル原潜「晋級」。そしてその300メートル上空には、米軍P-8A哨戒機が旋回していた。
双方、照準は完了していたが、“撃たない”ことが唯一の任務だった。ミサイルも、爆雷も、使わない。ただ、相手の神経を試すためだけに存在している。
だがこの夜、異変が起こる。
「衛星監視網の東第4セクター、ブラックアウトしました!」「中継衛星“だいち4号”、外部からのレーザー照射で機能停止――」
それは、**先制攻撃のない“空間戦”**の始まりだった。
午前四時一七分。佐世保・役場防衛連絡室。
赤松俊介がタブレットを握り締め、声を震わせて叫んだ。
「来ました……海面上昇警告、推定位置:父島沖、水中爆発による潮位変化です!」
「ミサイルか? 事故か?」
「――いいえ。“潜航体による海底爆雷”の可能性が……!」
三輪晃司は、静かに息を吐いた。
「“誰にも見られない戦争”を始めたのか……」
町の年配者が、テレビに映る地震速報を見て呟いた。
「自然じゃない。これは、海が怒っているのだ……」
その頃、海上自衛隊・護衛艦「むらくも」は、伊豆諸島南方120kmで不審な漁船と遭遇していた。
レーダーに映るその影は、外観上は台湾籍とみられる漁船。だが、艦載ドローンが接近すると、船尾にリチウムイオンバッテリーと放熱口が確認された。
「――無人の潜水母船だ!」
「照射しますか?」
「……いや。我々には、撃てない」
艦長・古賀は歯を噛んだ。
「これが、“交戦権のない戦場”か……」
艦内に沈黙が走る中、若い通信士が言った。
「でも、私たちは見てます。記録してます。この“見えない戦争”を、日本人に伝えなきゃ、負けるんです……!」
午前六時。佐世保湾に小さな報告が届いた。
「東防波堤に設置された民間の簡易音響センサーが、“低周波連続音”を捉えました。間違いなく――潜水艦のスクリュー音です」
報告を受けた三輪晃司は、地図を見つめた。それは、町の水道施設の真下を通るラインだった。
「そこが……この町の動脈だ」
彼は、旧軍時代の図面を思い出した。
――水ノ浦の下には、戦時中の海底トンネルと脱出口がある。
彼は言った。
「“敵”は、我々がまだ国であることに気づいている。だから、攻撃するのではなく、“心臓を止めよう”としている。」
午前六時五五分。海上自衛隊・統合幕僚監部は、正式に以下の命令を発出する。
「西太平洋における領域外潜航体に対し、警告・追尾を許可」ただし、交戦規則(ROE)により“射撃は不可”とする。
――戦え、ただし、撃つな。
それが、国の出した唯一の“答え”だった。
その命令が届いた直後、佐世保の海上保安庁「はやかぜ」艦長・沢渡理一郎は、自己判断で民間防衛網に通報を出した。
「不明潜航体が近海に侵入の可能性あり。通信妨害の可能性あり。各町、物理的隔離を準備されたし。」
そして、午前八時。
三輪晃司は、町のスピーカーから住民に向けて、こう告げた。
「この町は、独立国家ではありません。だが、この町には、守りたい人々がいます。この海の底を、誰かが這い回っていても――我々は“生きることを放棄しない”と、ここに誓います。」
町の子供たちが、校庭で手を振っていた。その上空を、護衛艦の艦載ヘリが静かに通り過ぎた。
まだ、戦争は始まっていない。だが、それはすでに終わっていない。
第六章「沈黙する国の、その奥で」
霞ヶ関――午前九時。
総理官邸地下の国家危機管理センターに、閣僚、防衛官僚、内閣安全保障局長らが集まっていた。
巨大なマルチスクリーンには、米インド太平洋軍のサテライト画像、JAXA提供の海面赤外波長データ、そして防衛省統合幕僚監部のリアルタイム海域図が表示されていた。
だが、会議は、進まなかった。
「確認された“音響波形”は爆発物のものではありません。潜航体であっても、現時点で“交戦事実”はない」
「海底ケーブルへの接触も未確認。攻撃とは言えない」
「外交ルートで抗議するのが最優先では――」
誰も、“決断”をしようとしない。
官房副長官が漏らした。
「……“撃った者が歴史を変える”。それが戦後日本の不文律だ」
その間にも、現場では時が刻まれていた。
午前十時二十二分――伊豆諸島東方で、海上保安庁の小型艇が「通信不能」となり、レーダーから消失。搭載されていたAIS信号は強制遮断されていた。
「意図的妨害……おそらく、EMPまたは広域妨害波。レーダーブラインド作戦かと」
「けれど本庁は、“ただの通信機器トラブル”として処理する方針です」
海保の内部連絡に、ある若い隊員が呟いた。
「……沈黙って、国策なんですね」
佐世保・水ノ浦――
三輪晃司は、かつて海軍の倉庫だった石造りの建物の前に立っていた。
その壁の奥には、昭和十九年に築かれた“水上砲台監視室”がある。
赤松俊介が声をかけた。
「おじさん、これ、本当に機能するんですか? 昔のケーブルなんて……」
晃司は頷いた。
「通信じゃない。“意思”を伝える装置だ。火も、旗も、壁に刻んだ印も。この国が“国”と名乗れないなら、我々が“意思”を刻むしかない」
その夜、日没後。
護衛艦「いかづち」は、長崎沖で一つの“信号”を受信した。
一瞬だけ海面を照らす、モールス信号の閃光。手旗信号の代替として用意された、旧海軍式の光通信。
「From:Sasebo W-03 内容:潜航体通過確認、拠点間無線保持、地域維持中」
艦長・花村は、無言で敬礼した。
“この国が国として沈黙するなら、我々が語る”――
再び、東京。
午前零時。内閣官房長官・黒沢政信は、暗い部屋で独り、報告書を見つめていた。
その表紙には、こう記されていた。
『報告書第1738号:南西諸島及び民間防衛体制の自律的再構成』発信者:地方自治体・水ノ浦支所長代理 三輪晃司
彼は思わず、苦笑した。
「……国家を支える者が、国家の“代替”を始めたか」
部屋の窓から見えるのは、永田町の沈黙だった。
その翌朝、佐世保の町で、海が一瞬だけ光った。
それは太陽の反射ではなかった。
海中に放たれた、ひとつの音波信号。古いケーブルが導いたその振動は、沈黙を超えて、**“我々はここに在り、抗っている”**という、ただひとつの言葉だった。
第七章「風に揺れるもの」
六月二十五日、午後一時過ぎ――
佐世保の小学校で、児童たちは校庭で避難訓練を終え、水を飲んでいた。その横で、校長の**日下部妙子(五十六)**は、何度目かの通信回線チェックを行っていた。
電波は、弱く波打っていた。朝からずっと、不安定な高周波障害が町全体を包んでいた。
「海から……来てるわ」
彼女は小声でつぶやいた。
教員である前に、日下部は元・陸上自衛隊情報科の士官だった。定年退官後、静かな暮らしを求めてこの町に来た。だが今、再び“戦場”が教壇の後ろに忍び寄っていた。
役場の仮設会議室では、三輪晃司と、消防団、自衛消防、そして数人の自衛隊OBが集まっていた。
赤松俊介が、ドローンによる空撮映像を差し出した。
「港の南側――海中に、複数の“銀色の物体”が見えます。船体に接触してませんが、海流に逆らうように静止してる。磁力か、水中アンカー……いずれにせよ、固定式の監視装置だと思われます」
「誰が、いつ?」
「恐らく、昨日深夜から今朝未明の間です。潮流から逆算して、夜間の無人艇が音響回避で投下した可能性が高いです」
三輪は頷いた。
「……つまり、“我々がどこまで動くか”を測られている」
彼は、しばらく無言だった後、ゆっくり言った。
「“国家”が、この町に届かないなら――せめて、“この町は生きている”という証を、こちらから放とう」
午後三時――町の神社の丘に、一本の柱が建てられた。
古い御神木の伐根を再利用したそれは、三輪が高校生だった頃、戦没者遺族から受け継いだ記録にあった“戦時海監柱”を模したものだった。
その頂には、日章旗と町章、そして手縫いの白旗が交差して掲げられた。
「これは降伏の印じゃない。“警告の白”だ。この旗が揺れている限り――この町は“無力なままではいない”という合図だ」
日下部妙子が呟いた。
「でも……それが、誰に届くのかしら」
晃司は言った。
「敵にも、味方にも。そして何より、“国家という虚構”に依存しきったこの国民自身に、届けばいい」
その頃、東京・永田町。
ある政治家が、静かにメモを破っていた。
それは、**“地方独自の防衛権に関する違憲性の検討”**と記された、官僚の起案だった。
彼は、紙片をゴミ箱に入れると、秘書に向き直った。
「放っておけ。地方がやる分には、政府の“責任範囲外”で済む。あの町が潰れても、“勝手にやった”で済む。」
「……そのうち、国そのものも“勝手に潰れる”のでは?」
秘書の皮肉に、男は答えなかった。
夕刻。
風が強まっていた。佐世保の港では、旗がはためいていた。
日章旗。町章旗。そして、白旗――
三枚の布が、均等に揺れていた。
そしてそれを、洋上のどこかで、レーダーに映している者たちがいた。
それは、米軍の偵察艦か。中国の潜航艦か。それとも――
誰かが、小さな町の誇りと覚悟に、微かな関心を抱いていた。
海は、何も語らない。だが、風は旗を揺らす。
それは、たった一町村の意志が、国家の沈黙より重いときもあるということの、証だった。
第八章「誓いは燃え、やがて灰へ」
七月一日。台風の余波による風が町を撫でていた。
だが、それは気象によるものではなかった。海の彼方で、何かが動き出していた。
午前二時三十分――南鳥島沖にて、米軍の早期警戒衛星が**“熱反応信号”を検知**。高度3メートル以下、速度20ノット、全長15m級の高速無人潜航体が西進。
分析官が声をあげた。
「ステルス塗装、外部通信なし、進路は“佐世保湾”へ一直線」
「これは試験か、攻撃か?」
「おそらく――“観測される前提の攻撃”です。日本側の反応速度と意思決定プロセスを、測っています」
“ゲーム”は、加速し始めた。
佐世保市・水ノ浦町。
三輪晃司は、避難所の窓際でその“音”を聞いていた。
地鳴りにも似た、重低音。
「……来たな」
赤松俊介が走り込んでくる。
「海底監視装置、断線しました!加圧センサー反応アリ、港湾深部に“突入”しています!」
自衛消防の佐竹が叫ぶ。
「これ、何なんだよ!? 魚雷か? 潜水艦か?」
晃司は、ただ短く答えた。
「“境界を超える意志”そのものだ。そして今、この町は、国家に代わって“一線”を引かれている。」
午前三時。
護衛艦「むらくも」は、町からの通報を受け、洋上で展開中だった。
「海中ドローン“UMS-04”、港湾直下で熱源捕捉。進路変更なし、衝突5分前」
艦橋に緊張が走る。
「……このままでは、物理的接触が起きる。現地住民の避難も完了していない」
艦長・古賀は、口を閉ざしたまま、統幕からの指令電文を見つめていた。
そこには、無慈悲な一文があった。
『実弾使用、依然不可。追尾のみを許可。』
彼は立ち上がった。
「よし。撃つな、だが止めろ。“撃たずに止める”が、今のこの国の戦争だ――やってやろう」
港湾上空。
自衛消防隊が配備した小型ドローンの映像に、黒い魚雷型の影が浮かぶ。
町の中心部まで、距離わずか1.8キロ。その下には、町の飲料水供給管と防災無線中継局。
止めなければ、町が沈黙する。
ドローン操縦席で、赤松俊介が歯を食いしばる。
「やれること、全部やる……!」
そして彼は、操縦中のドローンを“突入軌道”に変更した。
「自爆コード、入力完了。距離300、200、100……っ!」
画面が、白く弾けた。
――港湾深部。静けさの中に、**“ひとつの破裂音”**が走った。
続いて現場に展開していた海保の船が、熱源の消失と構造物の軽微な破損を確認。無人潜航体は“破壊された”と認定された。
「被害、最小限。水道管、無事。通信系、維持」
誰かが、小さく呟いた。
「……町が、国より先に、国を守ったんだな」
明け方。
三輪晃司は、破片の落ちた海辺で、白く焦げた旗を拾い上げていた。それは、丘に掲げた**“警告の白”**だった。
「焼けたか」
日下部妙子が隣で言った。
「でも、風はまだ吹いてる」
晃司は頷いた。
「なら……次の旗を、揚げるまでだ」
旗は燃えた。だが、誓いはまだ、灰になっていない。
第九章「記録という戦い」
七月五日。佐世保・水ノ浦町、旧公会堂の地下室――そこに、町の若者と自衛隊OB、民間技術者が持ち寄った一台の古いサーバーラックがあった。
外界から切り離されたオフライン環境。だが中には、過去一か月分のすべての記録が蓄積されていた。
ドローン映像、海底音響、無人艇の侵入軌跡、地方から発された光信号、政府が沈黙する中で町が行ったすべての行動。
そして、そこには赤松俊介が一人、モニターに向き合っていた。
「この町の“戦い”を、誰かが残さなきゃ、無かったことになる……」
彼は、三輪晃司が書き残した言葉を、ゆっくりと読み上げた。
“この町は、いかなる国家の名の下でも、無抵抗ではいなかった。我々は武器を持たず、命令を受けず、それでも『守る』ということの意味を、生きて証明した。”
俊介の指が、キーボードを叩く。
一つ、また一つ。記録が編まれていく。
それは戦場ではなく、**“忘却との戦い”**だった。
一方、東京――防衛省の地下にある資料保全部門。
一人の技官が、机上に広げられた報告書を見ていた。
「水ノ浦町、独自に構築された防衛システム、旧軍施設の再利用、海上監視網、暗号通信……どこにも“国の命令”が存在しない。なのに、彼らは“戦っていた”。」
彼は同僚に囁く。
「これは、日本の防衛体系における“例外”ではない。“新しい主権の兆し”かもしれない」
同僚が苦笑する。
「国はその記録を、残すのか? それとも……消すのか?」
男は静かに、保存命令書に署名した。
『文書分類:特定防衛事象/準機密保全対象(五十年)』備考:政治的影響を考慮し、公開予定なし
その夜、三輪晃司は丘の上にいた。
白旗は再び掲げられ、海は凪いでいた。
だが、彼の足元には、誰にも知られぬ“記録媒体”が一つ、埋められていた。
中には、町の通信記録、衛星画像、手旗のログ、子供たちの描いた避難マップ、そして最後に録音された晃司自身の声が入っていた。
“国とは何か。それは、我々が『ここに在る』と語ること。沈黙に耐えることではなく、沈黙を越えて伝えることだ。”
その瞬間、夜空をひとすじの流れ星が横切った。
晃司は、誰に語るでもなく、呟いた。
「語られなかった戦争が、記録されない命が、この国には、いくつ埋まっているだろうな……」
そして、明朝。
一通の封筒が、防衛大臣のデスクに置かれた。
差出人の欄にはこう記されていた。
『発信:水ノ浦町―“沈黙の町”より件名:記録の提出、および“国家再構成”の提案について』
国は、まだ答えていなかった。だが、その日――初めて、“記録”が国家の扉を叩いたのだった。
第十章「海の果て、夢のままに」
〈第1節 冬の朝のような国〉
七月十五日。東京・永田町。国会議事堂の裏手――官邸文書課の地下保管庫。
かつてこの国で生まれた**数えきれぬ“提案”と“誓い”と“警告”**の文書が、今は埃をかぶって並んでいた。
その中に、一通だけ、開封された痕跡のない封筒があった。薄いベージュ色の角形。宛先は「防衛大臣秘書官」。
差出人:水ノ浦町 三輪晃司。
裏面にこうあった。
“この国が忘れてもいい。だが、この国を信じた町があったことだけは、忘れないでくれ。”
それは開封されることなく、施錠されたスチールラックに収められた。――この国が“自らの痛み”を見たくなかったように。
外は陽が昇りかけていた。それは、冬の朝のように、冷えた光だった。
〈第2節 最果ての町、祈る者たち〉
同じ朝。佐世保・水ノ浦。
町の港では、かつて攻撃の標的とされた水道施設に、新たな柵が築かれていた。フェンスには、町の子どもたちが描いた青い絵が並んでいた。
魚、太陽、旗、そして“しらない船”。
赤松俊介は、通信室でコードを記録していた。
「町内全域のセンサー稼働率、98%。電波網は不安定だけど、物理層の防御はもう民間で維持できる」
消防団の佐竹が隣で言った。
「……なあ。俺たち、どこまでやれば“国”に戻れるんだ?」
俊介は笑った。
「“国”ってのは、帰る場所じゃない。つくる場所だろ。俺たちは“待つ”のをやめた。あとは、“祈る”だけじゃない、“築く”んだ」
彼の背後の壁には、三輪晃司の一枚の写真が貼られていた。その下に貼られた手書きの文――
「国家不在、行動優先。命令なくても、立つ町であれ。」
神社の丘。
日下部妙子は、子供たちとともに、三枚の旗を揚げていた。
赤白青。日章旗、町章旗、そして、あの白い“警告の布”。
風が吹いた。
妙子は子どもたちに静かに語った。
「風がある限り、旗は揺れる。たとえ誰も見ていなくても――それは“信号”になる。誰かに届くかもしれない。あるいは、あなた自身が受け取る日が来る。」
少年が訊いた。
「戦争、終わったの?」
妙子は首を振った。
「“始まらないまま、終わらない戦い”は、ずっとあるの。だけどね、話せる人がいれば、それは“記憶”になるの。記憶は、国より強いことがあるのよ」
〈第3節 記録の海、記憶の国〉
数週間後。アメリカ・ワシントンD.C.国防総省の下部組織、NRO(国家偵察局)の一室。
一人の分析官が、映像を再生していた。
それは、旗が揺れる小さな町の、1分23秒のドローン映像。周囲に軍艦の影はなく、海は穏やかで、住民たちが静かに日常を営んでいた。
しかし、音声データに隠されたモールス信号が組み込まれていた。
M-S-W-K:Message from Sasebo W-03, Kenzoku.
(「佐世保水ノ浦より、同胞へ」)
分析官は、フロアの主任にこう言った。
「Sir、彼らは“交戦”していません。だが、明確に“領域を守った”という記録がある。……この小さな町が“国”でなかったと、誰が言えますか?」
主任は静かにファイルを閉じた。
「忘れるな、少尉。歴史とは、語られなかった者の上に積み重なる。だが、記録された瞬間、未来がひとつ変わる。」
彼らの中で、水ノ浦の名は**「非正規戦における自治体統制事例第一号」**として記録されることになる。
だが、それはまだ、“この国”では誰にも知られていなかった。
〈第4節 夢のままに、海の果て〉
真夏の夜。再び、神社の丘。風が止み、海が静まっていた。
晃司の遺した音声が、地下のサーバーから再生されていた。
“私は、国家の名を名乗ることなく、この町を守った。それは罪か? それとも、この国の『記憶』か?”
赤松俊介は、録音を聞きながら、画面に映る海を見ていた。
その海の先には、まだ何もなかった。
けれども、そこには確かに――この国の“起点”があった。
俊介がつぶやいた。
「この町がなかったら、“日本”はどこから始まるんだろうな」
誰も答えなかった。
だが、風が再び吹いた。
旗が、ゆっくりと揺れ始めた。
それは、もう“誰かに見せるため”ではなかった。それは、生きていた証であり、この町が、国の沈黙より先に立ち上がった証だった。
“海の果てに、夢のままに。”
そう名づけられたドキュメントが、地下のサーバーにひとつ残されていた。





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