海は拍子を数える
- 山崎行政書士事務所
- 8月20日
- 読了時間: 6分

用宗海岸の昼は、空がひらがなの「へ」をもっと大きくしたみたいに反りあがって、白いパラソルが砂の上に音符の影を落としていました。幹夫はノートと鉛筆と、小さな方位磁針を持って、いちばん端のパラソルの下に座りました。
海はぴかぴかして、沖のほうで小さく折り目をつくり、その折り目が砂の手前までほどけながらやって来ます。耳を澄ますと、波はただ寄せて返すのではなく、かならず「数えて」いるのがわかりました。
幹夫は、表紙に〈静岡市・風と水の地図〉と書いた自作の地図帳をひらき、三つめのページに青鉛筆で線を引きました。
〈海のページ:拍子〉
そこへ、砂の上の影がするすると伸びて、ノートに帽子のつばの形を作りました。
「やあ、幹夫くん」
白いパラソルが、金属の骨をかすかに鳴らして言いました。「きみ、風の地図と森の水の字を集めた子だろう? 今日は海の勉強かい」
「うん。港のクレーンに『波の拍子記号がいる』って言われたから。どうやって数えればいいの?」
「簡単さ。私の影を見てごらん」
パラソルはゆっくり首を振りました。影が丸く歩き、砂の上の細かな皺を、指でなぞるように横切ります。
「午前の駿河湾は四拍子。タン・タン・タン・タン。南の風が一定で、船の腹も気持ちよく揺れる。けれど正午を過ぎると、用宗の防砂堤で反射した波と合わさって、三と二に割れることがある。タン・タタン。それが五拍子だ」
幹夫は砂に棒線を引き、波の来た回数に合わせて短い縦線を刻みました。波が四つ来ると、小さく「I」を一本、五拍子のときは「V」に似た印。
「見ていると、影が指揮棒みたい」
「そうだとも。私たちパラソルは、浜の指揮者。日差しの楽団と波の楽団を、影でまとめる」
沖ではボードに乗った人がひとり、膝をついたまま岸を向いていました。背中が波にそっと押されて、一定の速さで近づいてきます。
幹夫は耳の中の音を、胸へ下ろすようにして聞きました。——タン・タン・タン・タン、タン・タタン、タン・タン・タン・タン。
影の縁がふるえ、砂の粒が微小な鈴のように光ります。
「ねえ、パラソル。波の拍子は、どこで決まるの?」
「海底の傾きと、風の向きと、遠くの船が立てた皺だよ。ほら、清水のほうを見なさい。港の外で貨物船がゆっくり回頭している。あの大きな背のうねりが、ここへ来るまでに、いくつかの拍を抜いてしまう。そうすると浜は三拍子になることがある」
「タン・タン・タン?」
「そう。今日はまだ四と五のあいだだが、午後の雲が厚くなれば、三に寄るだろう」
幹夫はページのすみに〈清水港・回頭/拍の抜け〉とメモを書きました。ポケットの封筒がかすかに鳴ります。駅前で冬を越したひまわりの種が、一粒だけ目を覚ました音でした。
「ぼく、ひまわりにもこの拍子を教えたい」
「いい考えだ。ひまわりは風の地図で立つが、首を回す速さは拍子で決められる。駅前の子は、列車の五拍子をよく知っているはずだよ」
砂のうえでは、子どもたちが小さなスコップで山を作っていました。一人が山を叩くたび、砂はかすかに崩れて、斜面に縞を描きます。
パラソルが言いました。「見えるかい。崩れの縞も拍子の跡だ。三保の松原では、松の根がその跡を覚えている。由比では、桜えびが深いところで七拍子で踊る夜がある」
「七拍子!」
「もちろん、海は気分屋だ。拍子はいつでも変わる。だから地図帳には『きょうの拍子』と『きのうの拍子』を別に書いておくといい」
幹夫はページを二段に分け、上に〈きょう〉、下に〈きのう〉と入れました。鉛筆の芯が軽く折れたので、砂でこすって尖らせます。沖の方で、海の色が一段暗くなりました。
「雲が入るよ」とパラソル。「さ、影の練習をしよう。影が短くなるところに、横線を引いて。波が浜を撫でるたび、その線が新しい拍を教えるから」
幹夫は影の端に平行な線を五本、砂に引きました。タンで一本、タタンで二本続けて。
何度かくり返すと、砂の五線譜の上に、海の音が見えるようになりました。パラソルの支柱は音符の棒、丸い影は符頭。浜全体が大きな楽譜です。
昼すぎ、用宗漁港のほうから、しらす干しの匂いが風に乗ってきました。白い箱の列が小さく光り、作業場の屋根が陽に焼けて、やさしい鈍色をしています。
「港は、拍子の職人だ」とパラソル。「船の出入りを見てごらん。行きは四、帰りは五。荷の重さと潮の高さで、船体の振動がちがうからね」
幹夫はまぶたを細め、遠くの動きをノートへ移しました。〈出港四/入港五〉。その横に、駅北口の三角地のひまわりマークを小さく描いて、〈夕方、三拍子の可能性〉と添えます。
雲が岸の上で丸くつながり、影の輪郭がやわらかくなったころ、海は言葉を落としました。
「幹夫くん」
それは波そのものの声でした。寄せるときは低く、返すときは高く。
「きみの地図帳に、もう一つ書いておくれ。拍子は、安心の形だと。人も町も、拍子があると歩きやすい。信号の待ち方、バスの発車、港の作業。どれも一定の拍を知っている。もし拍がばらばらになったら、私たちはすぐに知らせる。風で、影で、波で」
「うん、書くよ」
幹夫は大きく文字を置きました。〈拍子=安心の形〉。そして、ページの端に細く〈ただし、変化を歓迎する〉と加えます。
午後三時、予告どおり拍子は三に寄りました。タン・タン・タン。
幹夫がその印をもう一つ増やしたとき、パラソルが影をすっとすぼめました。「そろそろ帰る時間だよ。砂はあたたかいけれど、拍子は夕方で一度仕舞う」
「わかった。今日の楽譜はここまでにする」
幹夫は砂の五線譜をそっとならし、ノートにページ番号を打ちました。〈海のページ:3〉。表紙を閉じると、風がやさしく指で弾くみたいに紙を鳴らしました。
浜を離れる前に、幹夫はパラソルの支柱に手を当てました。
「ありがとう。あした、駅前で影の指揮を思い出してみる。列車の風と、ひまわりの首を合わせるんだ」
「それはいい合奏になるよ。三保の松の影も、ときどき参加させておくれ」
「うん。森の水の字とも重ねる」
「きみの地図帳は、もう立派な楽隊長だ」
帰り道、安倍川の橋の上で、幹夫はノートをもう一度ひらきました。
最初のページ——ひまわりの風の地図。
二番目——森の水の字。
三番目——海の拍子。
ページは乾いた指先に軽く抵抗し、駿河の風に合わせて少しだけふくらみます。
橋の下では川が、低い三拍子で石を撫でていました。
幹夫はポケットの封筒を指でたたき、種にそっと話しかけました。
「今度は、影の合図で咲いてみよう。風と水と拍子、三つそろえば、駅前だって浜みたいに呼吸できる」
夕日が用宗の海に傾くころ、白いパラソルの影は細長くのび、砂の上の楽譜を最後の一小節までていねいになぞりました。
——タン・タン・タン。
その小さな終止形は、幹夫のノートの端にも、静岡の夏のページにも、やわらかく刻まれていました。





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