消えた遺言書
- 山崎行政書士事務所
- 5月10日
- 読了時間: 20分

山崎行政書士事務所の看板は、駅前の雑居ビルの三階に控えめに掛かっていた。
派手な広告も、金色の額縁もない。ただ、磨き込まれたガラス扉の向こうに、古い木の机と、整然と並んだ書棚が見える。相続、遺言、許認可、契約書作成――地元では「困った時に最後まで話を聞いてくれる事務所」として知られていた。
その午後、扉の前に立った女は、しばらく呼吸を整えていた。
白髪をきっちり結い上げ、紺の着物に薄鼠色の羽織。姿勢は美しかったが、指先だけが震えている。名刺にはこうあった。
月代旅館 女将 水原佐知子
創業百二十年を超える老舗旅館の女将である。
「亡くなった夫の遺言書を、探していただきたいんです」
山崎は向かいの席で、湯呑みを置いた。
「遺言書がある、という確証はございますか」
「あります」
佐知子は即答した。
「夫は、死ぬ三日前に私へ言いました。『あれがあれば、月代は守れる』と。あの人は几帳面な人でした。旅館の暖簾も、土地も、従業員の暮らしも、子どもたちの性根までも知っていた。遺言を残していないはずがないんです」
「相続人は」
「私と、三人の子どもです」
佐知子の声がかすかに濁った。
「長男の圭一は、旅館を売って金に換えろと言っています。次男の修二は、旅館を継ぐと言いながら、借金を隠している。長女の美咲は、東京から戻ってきて、私を追い出す気でいる」
「かなり揉めておられるようですね」
「揉めているどころではありません」
佐知子は小さく笑った。
それは笑いというより、喉の奥で腐ったものが崩れたような音だった。
「夫の四十九日も済まないうちに、あの子たちは仏間で怒鳴り合いました。誰が印鑑を持つのか、誰が通帳を見るのか、誰がこの土地を担保にするのか。父親の遺影の前で、です」
山崎は黙ってメモを取った。
「遺言書の形式はご存じですか。自筆証書、公正証書、秘密証書などがあります」
「夫は、顧問税理士の武藤先生に相談していたと思います」
「武藤先生に確認は」
佐知子はそこで、初めて目を伏せた。
「できません。武藤先生は、昨日から行方がわかりません」
山崎のペンが止まった。
「失踪、ということですか」
「携帯も繋がりません。事務所も閉まったまま。奥様は『出張です』と言っていましたが、嘘です。あの方は嘘をつく時、必ず右手の指輪を触るんです」
細やかすぎる観察だった。
女将として、何十年も客の顔色を読んできた女の目である。
山崎は名刺入れを閉じた。
「わかりました。まずは事実関係を整理しましょう。遺言書が存在するなら、保管場所、作成に関わった人物、財産目録、過去の送金記録――すべてが手掛かりになります」
「お願いできますか」
「山崎行政書士事務所では、相続や遺言に関する書類調査、関係者への聞き取り、手続きの整理を一つずつ進めます。ただし、誰かを裁くことはできません。できるのは、事実を見つけることです」
「事実なら、もう十分残酷です」
佐知子は顔を上げた。
「それでも、見つけてください。夫が最後に何を守ろうとしたのかを」
その目には、悲しみよりも恐怖があった。
山崎はその時、彼女が遺言書を探しているのではなく、遺言書に暴かれる何かを恐れているのだと感じた。
*
月代旅館は、山あいの温泉街の一番奥にあった。
黒光りする梁、苔むした庭石、廊下に漂う沈香の匂い。古いものには品格がある。だが、古さがすべて美しいわけではない。畳の下に湿気が溜まるように、家の中には長年の恨みが染み込んでいる。
山崎が旅館を訪れた時、玄関先では長男の圭一が従業員に怒鳴っていた。
「だから言ってるだろう! この無駄な庭師代を切れって! 毎月いくら払ってると思ってるんだ!」
圭一は四十代半ば。高級時計をつけ、髪を後ろに撫でつけている。だが目の下には酒のむくみがあり、声だけが大きかった。
「お客様に聞こえます」
番頭の高瀬が低く言う。
「客なんかいねえだろうが。父さんが死んでから予約は半分だ。こんな旅館、骨董品と同じだ。眺めるだけで金を食う」
その背後から、次男の修二が現れた。
「兄貴が東京の投資話で失敗した金を埋めるために、売らせるわけにはいかない」
「お前に言われたくないな。女遊びで作った借金を、旅館の経費に紛れ込ませた男が」
修二の顔が変わった。
「誰に聞いた」
「帳簿を見ればわかる」
「帳簿を見る権利は兄貴だけにあるのか」
その時、奥の階段から美咲が降りてきた。
「二人とも醜い。お父さんの葬式では泣いていたくせに」
美咲は黒のワンピース姿で、化粧は薄い。東京で会社員をしていると聞いていたが、その目は兄弟の誰より冷えていた。
「お前だって帰ってきたじゃないか」と圭一が吐き捨てる。
「私は母を守るために戻ったの」
「母さんを? それとも旅館の名義を?」
美咲は答えなかった。
山崎はその三人を見ながら、故人の遺言書が見つからない理由を少し理解した。
この家では、紙一枚が人間の本性をむき出しにする。
*
故人、水原宗一郎の書斎は二階の奥にあった。
窓からは中庭の池が見えた。机の上には万年筆、古い帳面、旅館組合の資料。金庫は開いていた。中には登記簿、保険証券、古い権利書が入っていたが、遺言書はない。
「誰かが先に開けたのですか」
山崎が尋ねると、佐知子は頷いた。
「圭一です。夫が亡くなった夜に」
「鍵は」
「夫の着物の袂に入っていました」
「圭一さんは、なぜ袂を」
「知っていたのでしょう」
その言い方が妙だった。
知っていたのでしょう、ではなく、知っていたはずです、でもない。
まるで、それ以上言えば何かが壊れるとでもいうように。
山崎は机の引き出しを一つずつ確認した。遺言書らしきものはない。ただ、古い封筒の束の中に、銀行の送金控えがあった。
受取人は毎月同じ。
小野寺灯
金額は三十万円。十年以上続いている。
「この方をご存じですか」
山崎が佐知子に見せると、彼女の顔から血の気が引いた。
「知りません」
「本当に?」
「知りません」
答えが早すぎた。
山崎は封筒を戻さず、写真を撮った。
そこへ美咲が入ってきた。
「母さん、その人の名前を見たんですね」
佐知子は振り向いた。
「美咲」
「小野寺灯。私も見つけました。お父さんの古い手帳に」
「あなたには関係ない」
「関係あるわよ。毎月三十万円。十年以上。これ、愛人への手切れ金でしょう?」
佐知子の頬がぴくりと動いた。
「違います」
「違うなら何?」
美咲の声は震えていた。
「お父さんは、私たちには『旅館のために我慢しろ』って言った。大学も奨学金で行け、着物も古いものを直して着ろ、従業員を食わせるのが水原の務めだって。それなのに、どこの女かわからない人間に毎月三十万円?」
「黙りなさい」
「黙らない。父親の善人面の裏を知る権利くらいある」
佐知子は手を振り上げた。
だが、叩かなかった。
手だけが宙で止まり、やがて力なく下りた。
「あなたは何も知らない」
「それはこっちの台詞よ」
美咲は山崎を見た。
「先生。遺言書が見つかったら、全部明らかになるんですよね」
「内容によります」
「なら、見つけてください。父が誰を愛していたのか。誰を裏切っていたのか」
美咲は出ていった。
佐知子はその場に立ち尽くしていた。
その背中は、老舗旅館の女将ではなく、墓穴の前に立つ女のようだった。
*
顧問税理士の武藤の事務所は、温泉街から車で二十分ほどの町中にあった。
シャッターは閉じられ、郵便受けには二日分の新聞が詰まっていた。
山崎が近隣に聞き込みをすると、武藤は失踪前日の夜、月代旅館の近くで目撃されていた。しかも一人ではない。
「若い女と一緒でしたよ」
酒屋の主人が言った。
「若い女?」
「二十代かな。いや、三十手前か。綺麗というより、疲れた顔の子でした。武藤先生、ずいぶん慌てていてね。『ここに来るなと言っただろう』って怒鳴ってた」
「その女性の名前は」
「さあ。でも、旅館の裏口から出てきたように見えました」
山崎は旅館へ戻り、従業員名簿を確認した。
そこに一人、気になる名前があった。
小野寺灯
年齢二十八歳。客室係。勤務開始は三か月前。
送金先と同じ名前だった。
山崎は従業員寮の裏で、灯を見つけた。
彼女は洗濯物を取り込んでいた。痩せた肩、爪の先まで荒れた手。美人というより、どこか人に謝りながら生きてきたような顔だった。
「小野寺灯さんですね」
灯は振り向いた瞬間、籠を落とした。
「山崎行政書士事務所の山崎です。水原宗一郎さんの件でお話を」
「知りません」
「まだ何も聞いていません」
「私は何も知りません」
灯は逃げようとした。
山崎は声を荒げなかった。
「あなたの口座に、宗一郎さんから毎月三十万円が送られていました」
灯の足が止まった。
「十年以上です。あなたが十八歳の頃からですね」
「……それは、私のお金じゃありません」
「では、誰の」
灯は唇を噛んだ。
やがて、かすれた声で言った。
「母の薬代です」
「お母様は」
「死にました。去年」
「それでも送金は続いていた」
「私が受け取りました。返せと言うなら返します。でも、私は盗んでません」
「宗一郎さんとはどういう関係ですか」
灯は山崎を見た。
その目に、恨みがあった。だがそれは宗一郎への恨みではない。もっと深く、もっと古い、血の奥に沈んだ恨みだった。
「父です」
山崎は沈黙した。
「水原宗一郎は、私の父です」
その言葉は、山の湿った空気の中に落ちた。
灯は笑った。
「でも、認知はされていません。戸籍にも載っていません。母は昔、この旅館で仲居をしていました。宗一郎さんと関係を持って、私を産んだ。女将さんに追い出されて、遠い町で私を育てた」
「宗一郎さんはあなたを知っていた」
「知っていました。高校を出る頃に会いに来ました。『すまなかった』って。私はその時、父親なんか欲しくなかった。お金だけは受け取れと母に言われたから、受け取った」
「なぜ旅館に来たのですか」
「遺言書があると聞いたから」
「誰から」
灯は答えなかった。
「武藤先生ですね」
灯の肩が震えた。
「武藤先生はどこにいますか」
「知りません」
「失踪前夜、あなたと会っていた」
「会いました。でも、その後は本当に知りません。先生は怯えていました。『遺言書を見つけたら全員が終わる』って」
「全員?」
「水原の家の人たちも、女将さんも、私も」
「なぜあなたも」
灯は顔を伏せた。
「宗一郎さんが、私に旅館を譲ると書いていたからです」
*
その夜、月代旅館の大広間に相続人たちが集められた。
山崎の求めに応じて、佐知子、圭一、修二、美咲が座った。番頭の高瀬も隅に控えている。灯の存在は伏せていたが、空気はすでに張り詰めていた。
「小野寺灯という女性をご存じですね」
山崎が切り出すと、圭一が舌打ちした。
「誰だそれ」
修二は目をそらした。
美咲は母を見た。
佐知子だけが、静かに言った。
「知っています」
広間の空気が重くなった。
「母さん?」
圭一が声を上げる。
「知ってるって、どういうことだよ」
「あなたたちの父親が外で作った子です」
佐知子は淡々と言った。
あまりに淡々としていたので、かえって残酷だった。
「ふざけんな」
圭一が立ち上がった。
「じゃあ何か。親父は愛人に金を流して、その娘にまで旅館を渡すつもりだったってことか」
「お父さんは、灯さんの母親を捨てた。その罪を償おうとしていただけです」
「償い? 俺たちは何だったんだよ!」
圭一の怒鳴り声に、襖が震えた。
修二が笑った。
「兄貴、そんなに怒るなよ。売却益が減るから困るだけだろ」
「黙れ。お前こそ、父さんの保険金を担保にしようとしてたくせに」
「僕は旅館を残すためだ」
「借金取りから逃げるためだろうが!」
美咲が二人を遮った。
「母さん。お母さんは、その遺言書の内容を知っていたの?」
「知りません」
「嘘」
美咲の声は低かった。
「お母さんはずっと知っていた。だから遺言書を探してるふりをして、本当は先に見つけて処分したかったんじゃないの?」
佐知子の眉がわずかに動いた。
「そんなことはしていません」
「じゃあ、なぜ灯さんを追い出したの」
佐知子は黙った。
「私、昔聞いたの。お父さんとお母さんが喧嘩している声。『あの子だけはこの家に入れない』って。あの子って誰かと思ってた。灯さんだったのね」
「美咲」
「でも、三か月前に灯さんが客室係として来た。誰が雇ったの? お母さんよね。どうして? 罪滅ぼし? それとも監視?」
佐知子は俯いた。
圭一が吐き捨てる。
「母さん、あんたも結局、旅館を守るためなら何でもする人間だったんだな」
その瞬間、佐知子は初めて感情を露わにした。
「何でもしたわよ!」
声が広間に裂けた。
「この家に嫁いで四十年、何でもした! 姑に土下座して、客に笑って、従業員の給料を払うために自分の着物を売って、あなたたちの学費を工面して、宗一郎さんの女の始末までした!」
誰も言葉を失った。
「あの人は優しかった。だから残酷だった。困っている女を放っておけない。泣いている従業員を抱きしめる。借金を頼まれれば貸す。子どもができれば金を送る。私は正妻なのに、いつも後始末ばかりだった」
佐知子は笑った。
「でも、私は旅館を守った。水原の名を守った。あなたたちを守った。それの何が悪いの?」
「守った?」
美咲が震える声で言った。
「私たち、守られてたの? 母さんの顔色を見ながら、父さんの沈黙に怯えながら、この家でずっと息を殺してたのに?」
修二が畳を見つめたまま呟いた。
「僕が借金したのは、家を出たかったからだ。帰る場所を壊したかったからだ」
圭一は笑い出した。
「いい話だな。全員被害者ってわけだ。だったら金で精算しようぜ。旅館を売って、全部終わりにしよう」
「売らせません」
佐知子が言った。
「遺言書が見つかれば、あなたにそんな権利はないかもしれません」
圭一の目がぎらついた。
「見つかれば、だろ」
その時、廊下の向こうで物音がした。
山崎が振り返ると、灯が立っていた。
誰もが息を呑んだ。
灯は広間に入り、深く頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません」
圭一が立ち上がった。
「出ていけ」
「私も、そうしたかったです。でも、宗一郎さんに呼ばれました」
「嘘をつくな」
「亡くなる一週間前、手紙をもらいました。『月代に来てほしい。お前に渡すものがある』と」
「遺言書か」
灯は首を横に振った。
「違います」
彼女は懐から、小さな桐箱を出した。
「これです」
箱の中には、古いかんざしが入っていた。
佐知子が凍りついた。
「それは……」
「母のものだそうです。宗一郎さんは、ずっと持っていたと」
「返しなさい」
佐知子の声が低くなった。
「それはこの家のものよ」
「母の形見です」
「違う!」
佐知子は立ち上がり、灯に近づいた。
「そのかんざしは、私が結納の時にもらうはずだったものよ。なのに、あの女が盗んだ」
「母は盗んでいません」
「盗んだのよ! 宗一郎さんの心も、そのかんざしも、全部!」
佐知子の顔は歪んでいた。
長年、女将という仮面の下に閉じ込めてきた女の嫉妬が、ついに剥き出しになった。
灯は静かに言った。
「母は、宗一郎さんを愛していませんでした」
佐知子の動きが止まった。
「母は、別の人を愛していました。でも、宗一郎さんに助けを求めた。お腹の子を産むために」
「何を言っているの」
「私は、宗一郎さんの子ではありません」
広間に、奇妙な静けさが落ちた。
圭一も、修二も、美咲も、佐知子も、言葉を失った。
山崎だけが、灯の顔を見つめていた。
「では、なぜ宗一郎さんはあなたに送金を」
「罪滅ぼしです」
「何の罪ですか」
灯は目を閉じた。
「母を追い詰めた罪です」
その言葉の直後、番頭の高瀬が立ち上がった。
「もうやめなさい」
声は震えていた。
佐知子が高瀬を見た。
「あなた……」
高瀬は灯の前に進み出た。
「山崎先生。私が話します」
高瀬はこの旅館に三十五年勤める番頭だった。無口で、忠実で、誰よりも水原家に尽くしてきた男。客の荷物を運び、庭を掃き、台風の日には屋根に上り、葬式では誰より先に棺を担いだ。
その男が、灯を見た。
「灯は、私の娘です」
誰かが息を漏らした。
「昔、仲居だった小夜子と私は愛し合っていました。けれど私は貧しく、彼女を守れなかった。小夜子が妊娠した時、宗一郎さんは私たちを助けようとした。だが奥様は誤解した。小夜子は宗一郎さんの子を身ごもったのだと」
「誤解?」
佐知子が掠れた声を出した。
「誤解です」
「あなたは、なぜ黙っていたの」
高瀬は深く頭を下げた。
「小夜子に頼まれました。水原の家を壊したくないと。宗一郎さんにも言われました。『灯が大きくなるまで、金だけは送る。お前は旅館に残れ。いつか真実を話す日が来る』と」
「では、武藤先生は」
山崎が尋ねた。
「遺言書の作成に関わっていました。そして真実を知っていた」
「どこにいますか」
高瀬は答えなかった。
代わりに、襖の向こうから声がした。
「ここです」
武藤税理士が現れた。
顔色は悪く、無精髭が伸びていた。
彼は旅館の離れに隠れていたのだ。
「申し訳ありません。私は失踪したのではありません。身を隠していました」
「誰から」
武藤は圭一を見た。
「圭一さんからです」
圭一の顔が強張った。
「何を言っている」
「あなたは私に、遺言書を処分しろと迫った。断ると、帳簿の不正を私の責任にすると脅した」
「証拠は」
「あります」
武藤は懐から録音機を出した。
圭一の顔が土色になった。
「ふざけるな。俺だけじゃない。修二だって金を抜いていた。美咲だって母さんを施設に入れて名義を移そうとしていた。母さんだって灯を監視してた。みんな同じだ!」
「同じではありません」
山崎が静かに言った。
「欲に負けることと、人を脅して遺言書を消そうとすることは違います」
圭一は笑った。
「行政書士が偉そうに。紙切れを探すだけの仕事だろ」
「紙切れではありません」
山崎は机の上に一枚の写真を置いた。
それは、宗一郎の書斎の床の間を写したものだった。
「私は最初に書斎を見た時、不自然だと思いました。床の間の掛け軸だけ、日焼けの跡と幅が合わなかった。掛け軸は最近替えられていた。そして宗一郎さんの古い帳面には、こう書かれていました。『遺言は、月の裏に置く』」
「月の裏……?」
美咲が呟く。
「月代旅館の家紋は、欠け月です。書斎の床の間に掛けられていた古い月の掛け軸。その裏に、封筒を隠す場所がありました」
山崎は鞄から、白い封筒を取り出した。
全員の目がそこに集まった。
「これは本物なのか」
修二が言った。
「自筆証書遺言です。日付、署名、押印があります。家庭裁判所での検認が必要ですが、内容は確認しました」
佐知子は震える手を膝の上で握りしめた。
「読んでください」
山崎は封筒から紙を取り出した。
そこには、宗一郎の几帳面な筆跡があった。
山崎は読み上げた。
「私は、月代旅館の土地建物および事業に関する権利を――」
圭一が唾を飲んだ。
修二が拳を握った。
美咲が母を見た。
灯は高瀬の隣で固まっていた。
山崎は続けた。
「――水原家の相続人ではなく、番頭である高瀬誠一に遺贈する」
広間が凍りついた。
最初に声を出したのは圭一だった。
「は?」
修二が立ち上がる。
「冗談だろ」
美咲は呆然と高瀬を見た。
佐知子だけが、ゆっくり首を横に振った。
「そんな……」
山崎は読み続けた。
「高瀬誠一は、長年この旅館を支え、私よりも深く月代を愛した。妻子を名乗る権利を奪われた小野寺小夜子と、その娘灯に対し、私は償いきれない負い目がある。高瀬に旅館を託し、灯が望むならば、月代で働き、暮らす場所を与えてほしい」
灯の目から涙が落ちた。
「佐知子には、私が生涯かけて傷つけたことを詫びる。子どもたちには、それぞれ法定相続分に配慮した預貯金を残す。しかし旅館だけは、血ではなく、守る者に渡す」
圭一が山崎に掴みかかろうとした。
「無効だ! こんなもの無効に決まってる!」
高瀬が静かに前へ出た。
「圭一さん」
「黙れ、使用人が!」
その一言で、高瀬の表情が変わった。
「そうです。私は使用人でした。あなたが幼い頃、熱を出せば夜通し背負って病院へ連れて行った。修二さんが家出した時、探し回った。美咲さんが泣いて帰ってきた時、何も聞かず茶を出した。奥様が倒れた時、厨房も帳場も一人で回した」
高瀬の声は低かった。
「私はずっと使用人でした。だからこそ、この旅館が誰の手に渡れば壊れるか、よく知っています」
圭一は言葉を失った。
修二は膝から崩れた。
美咲は泣いていた。悔しさなのか、安堵なのか、自分でもわからない涙だった。
佐知子は畳の上の遺言書を見つめていた。
「宗一郎さんは……私ではなく、高瀬を選んだのね」
「旅館を選んだのです」
山崎が言った。
「残酷な言い方ですが」
佐知子は笑った。
「いいえ、残酷なのはあの人です。死んでからも、私に負けを認めさせる」
彼女は立ち上がった。
誰も止めなかった。
佐知子は床の間の前に歩み寄り、そこに掛けられた新しい掛け軸を見上げた。
「私は、ずっとこの家の女将でした。でも、誰の妻にもなれなかったのかもしれません」
その声は、ようやく年老いた女の声だった。
*
後日、遺言書は正式な手続きに回された。
圭一は録音の件で武藤から告訴を示唆され、旅館から姿を消した。修二は借金整理の相談に入り、ようやく自分の名で人生をやり直すと言った。美咲は東京へ戻らず、しばらく旅館に残って母の世話をすることになった。
灯は、客室係として働き続けた。
高瀬は遺贈を受けるか迷ったが、最後には受け入れた。暖簾を守るためではない。灯が、逃げずに生きられる場所を作るためだった。
佐知子は女将を退いた。
最後の日、彼女は山崎行政書士事務所を訪れた。
「先生」
「はい」
「遺言書を見つけてくださって、ありがとうございました」
「お役に立てたなら」
「いいえ。役に立ったかどうかは、まだわかりません。あれで家族は壊れました」
山崎は静かに言った。
「もともと壊れていたものが、見える形になっただけかもしれません」
佐知子は少しだけ笑った。
「先生は、優しいことを言わないのね」
「書類は、ときどき人より正直ですから」
「だから、ここに来てよかった」
佐知子は鞄から一通の封筒を出した。
「これは?」
「私の遺言書です」
山崎は封筒を見つめた。
「作成のご相談ですか」
「いいえ。もう書きました。ただ、先生に見ていただきたい。間違いがないか」
山崎は封筒を受け取り、慎重に中を確認した。
数行読んだところで、目が止まった。
佐知子は微笑んでいた。
「驚きました?」
遺言書には、こう記されていた。
私、水原佐知子は、私名義の預貯金および有価証券のすべてを、小野寺灯に遺贈する。
山崎は顔を上げた。
「なぜ灯さんに」
「憎かったからです」
佐知子は穏やかに答えた。
「憎くて、憎くて、あの子を見るたびに、自分が捨てられた女のような気がした。でも、違いました。あの子もまた、私たちの嘘に人生を奪われた子だった」
「それだけですか」
佐知子は黙った。
やがて、ぽつりと言った。
「私には、娘が二人いたのかもしれません」
山崎は何も言わなかった。
佐知子は立ち上がり、深く頭を下げた。
「先生。人の最後の言葉を整えるお仕事は、大変ですね」
「最後の言葉とは限りません」
「え?」
「遺言書を書くことで、生きている間に向き合えることもあります」
佐知子はしばらく山崎を見ていた。
「そう。もっと早く、ここに来ればよかった」
それが、山崎行政書士事務所で彼女が残した最後の言葉になった。
*
三か月後。
月代旅館に、一通の古い封筒が届いた。
差出人はない。
宛名は、山崎行政書士事務所。
中には、古びた写真が一枚入っていた。
若い頃の佐知子、宗一郎、高瀬、そして仲居姿の小夜子。
四人は中庭で笑っていた。
写真の裏に、細い字で一文だけ書かれていた。
灯は、宗一郎の子ではない。けれど、佐知子の子である。
山崎は写真を握ったまま、しばらく動けなかった。
後日、古い産院の記録を辿ると、信じがたい事実が浮かび上がった。
二十八年前、佐知子は死産したとされていた。
だが、その夜、産院ではもう一人の女が子を産んでいた。小野寺小夜子。未婚で、貧しく、身寄りもなかった。
佐知子の姑は、水原の跡取りを守るため、女将の心を守るため、そして旅館の醜聞を避けるため、赤子をすり替えた。
佐知子の産んだ娘は、小夜子の娘として外へ出された。
小夜子の産んだ子は、死産として処理された。
宗一郎は後に真実を知った。だから灯へ金を送り続けた。だから高瀬に旅館を遺した。だから佐知子に真実を告げられなかった。
灯は、愛人の娘ではなかった。
番頭の娘でもなかった。
水原佐知子が、自分の手で追い出し、憎み、監視し、最後に全財産を残した女。
それは、彼女自身が産んだ娘だった。
*
その事実を知った日、月代旅館には雪が降っていた。
灯は中庭に立ち、白く染まる池を見つめていた。
山崎が静かに告げると、彼女は泣かなかった。
ただ、長い沈黙のあとで言った。
「じゃあ、私はずっと、母に嫌われていたんですね」
「佐知子さんは、知らなかった可能性が高いです」
「知らなかったら、許されるんですか」
山崎は答えられなかった。
灯は雪の中で笑った。
「でも、最後に私へ遺したんですね」
「はい」
「旅館ではなく、お金を」
「ええ」
「それが母らしい気がします」
灯は写真を受け取った。
若い佐知子の笑顔に、指先で触れた。
「この人、私に少し似ていますね」
雪は音もなく降り続けた。
月代旅館の暖簾は、高瀬の手で守られた。灯はそこで働きながら、いつか女将になるのではないかと噂された。圭一は二度と戻らず、修二は年に一度だけ手紙を寄越し、美咲は灯とぎこちない姉妹のように茶を飲むようになった。
佐知子の墓には、灯が毎月花を供えた。
名乗ることのなかった母へ。
憎まれたまま愛された娘として。
そして山崎行政書士事務所の書棚には、月代旅館の古い宿帳が一冊、感謝の品として置かれている。
その見返しには、灯の字でこう書かれていた。
遺言書は、死者のためのものではありません。 生き残った者が、真実に耐えるためのものです。







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