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消印の星座

 十月の朝の蒲原は、空気が薄い硝子みたいに澄んでいて、息を吸うと胸の奥まで、すうっと白い道が一本通る気がします。田んぼは刈りあとで、短い切り株が並び、その影の間を風が通ると、さら……さら……と、見えない紙をめくるような音がしました。駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光り、薩埵峠の影はまだ夜の名残りを少しだけ背負って、町の端を静かに撫でています。

 幹夫は八つ。縁側で、朝の手ぬぐいを膝に置いたまま、窓辺を見ていました。

 青いガラスの星。 割れた貝の星座。 空の蛍瓶。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪。

 どれも、きょうも「ここにいる顔」で並んでいるのに、幹夫の胸の奥は、どこかそわそわしていました。そわそわは、風でも腹でもなく、待っている音です。

 ――新米、届いたかな。 ――届いて、父さんの手に触れたかな。

 送った小包はもう自分の手を離れたのに、離れたものほど、胸の中で重くなるときがあります。重いと、足は動くのに、胸だけが座ってしまう。

 そのとき、表の道で――

 ちゃりん。

 郵便屋の鈴が鳴りました。

 秋の鈴は、夏の鈴より澄んで聞こえます。澄んだ音はうれしいはずなのに、幹夫の胸はいつも一度、こわがりました。来るものは、いつも「来ないかもしれない」を連れて来るからです。

 祖母が戸口へ出て、赤い帽子の郵便屋から封筒を受け取りました。封筒は一枚。紙が少し厚くて、角がきちんと立っている。角が立っている封筒は、何か“遠い場所”の匂いを持っている気がしました。

 祖母が、振り向いて言いました。

「幹。父さんだよ」

 幹夫は「うん」と言ったつもりなのに、声が出たかどうか分かりませんでした。喉の奥が紙みたいに乾いて、言葉の端が引っかかってしまうのです。うれしいのに怖い。怖いのにうれしい。二つが同じ皿に乗ると、息が少しだけ苦しくなります。

 幹夫は封筒を受け取って、まず、裏を見ました。

 そこに、小さな黒い丸が押してありました。 丸の中に字があって、日付と、地名らしいものが入っています。

 消印。

 黒い丸は、ただの印なのに、幹夫には小さな月みたいに見えました。月は遠いのに、夜になると来る。消印も遠いのに、紙の上に来ている。来た、という事実の印。

 幹夫は指の腹で、その黒い丸をそっと撫でました。 撫でると、紙の肌が少しざらりとして、インクのところだけ、わずかに硬い。硬さは「そこに触れた手」があった証拠みたいで、幹夫の胸の奥が、こつん、と鳴りました。

 祖母が言いました。

「開けるかい。焦らなくていいよ。封筒は逃げない」

 逃げない。 その言葉が、幹夫の胸の中の糸を少しだけゆるめました。幹夫は封筒の口に指を入れて、ゆっくり裂きました。紙が、しゃっ、と鳴ります。しゃっ、は短いのに、胸には長く響きました。

 中から、便箋と、もう一つ、薄い紙に包まれた何かが出てきました。

 包みを開けると、そこには――麻ひもが、短く切られたものが入っていました。あの小包を結んだ麻ひもでした。結び目がひとつ残っていて、その結び目が、ちいさな瘤みたいに指先に当たります。

 幹夫は、その結び目を見た瞬間、胸がふっと熱くなりました。

 ――父さんが、触った。

 触ったかどうか分からない。分からないのに、結び目の硬さが、父の指の硬さに似ている気がして、喉の奥がじん、としました。涙になる前の熱。熱いのに、痛くない。胸の中で何かが“ほどける”熱でした。

 祖母が便箋を広げて、声に出して読みました。

「……『みきお。米、届いた。箱を開けたら、蒲原の匂いがした。炊くと白い湯気が立って、朝の縁側みたいだった』……」

 白い湯気。朝の縁側。 幹夫の胸の中に、新米の湯気がふっと立ちました。立った湯気は、鼻の奥まで届いて、胸の奥の空洞を少しだけ温めました。

 祖母は続けました。

「……『一度、仲間と分けた。うまいと言っていた。俺も、うまかった。ありがとう』……」

 分けた。 その言葉が、幹夫の胸に、ぽちゃん、と落ちました。父の口だけではなく、父の周りの人の口にも、家の米が入った。入ったなら、父の町に、蒲原の白い星が少し散ったことになる。

 祖母はさらに読みました。

「……『同封の麻ひもは、おまえが結んだやつだな。結び目がいい。銀の輪を吊るす紐が傷んだら、これで結び直せ。結び目は、切れないように守るためのものだ』……」

 幹夫は、麻ひもの結び目を見つめました。 結び目は、元の一本とは違う形です。歪んでいて、盛り上がっていて、そこだけ“余計なもの”みたいに見える。けれど、その余計なところがあるから、糸は繋がる。繋がるから、声も、匂いも、待つ心も、落ちないで済む。

 ――父さんは、ちゃんと見てる。 ――ぼくの結び目を。

 幹夫は、胸の奥でそっと言いました。 言うと、胸の空洞が、冷たい穴ではなく、息の通る筒になりました。

 学校へ行く道、踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと薩埵峠の影へ入っていきました。今日は、いつもの音が、少しだけ違って聞こえました。音が“運ぶ”音に聞こえたのです。郵便も、汽車も、風も、同じ仕事をしているみたいに。

 教室で、幹夫はずっとポケットの麻ひもを確かめていました。指先で結び目を触ると、硬い瘤がちゃんとそこにある。そこにあるだけで、胸の中の“さっきまでの怖さ”が、少しずつ小さくなっていきました。

 休み時間、こういちが近づいてきました。袖をまくった手首が秋の光で白く、でも目はいつもどおり慎重でした。

「幹夫、来た?」「……うん」と幹夫は言って、封筒の黒い丸の話をしたくなりました。話したいのに、話すと熱がこぼれそうで、少しだけ躊躇しました。でも、躊躇のまま黙ると、胸の中の糸が絡まるのも知っています。

「消印がね……月みたいだった」と幹夫は言いました。 自分でも少し変な言い方だと思ったのに、こういちは笑いませんでした。

「月みたい、分かる」とこういちは言いました。「遠いのに、紙に来る」

 その言葉が、幹夫の胸にすとんと入りました。分かってもらえると、胸の重さが半分になることがあります。半分になると、歩ける。

「麻ひもも入ってた。ぼくが結んだやつ」「返ってきたんだね」 こういちが言いました。「行って、また戻ってくるもの、あるんだね」

 行って戻ってくる。 その言葉は、幹夫の胸にとって、虹の切符よりずっと現実の形でした。現実の形は、触れるから、怖いけれど、支えにもなる。

 夕方、家に帰ると、窓辺の青い星が、風でかすかに揺れていました。銀の輪は、まだ鳴りません。鳴らないのに、今日は鳴らないことが怖くありませんでした。返事はもう、紙の上に来ているからです。黒い丸の月と、麻ひもの結び目で。

 祖母が言いました。

「麻ひもで、銀の輪を結び直すかい」「……うん」

 幹夫は、銀の輪を手に取りました。金属は冷たい。冷たいのに、父の町の匂いが、まだほんの少し残っている気がします。匂いは言葉より先に胸を叩き、胸の奥の空洞を、あたたかい筒にしてくれる。

 幹夫は、父から返ってきた麻ひもを結びました。結び目が固くて、指先が少し震えました。震えは失敗の震えではなく、大事なものを落とさないための震えでした。

 結び終わると、銀の輪は、少しだけ誇らしそうに窓辺に掛かりました。掛かった姿が、どこか“帰ってきた”みたいに見えて、幹夫の胸がふっと軽くなりました。

 そのとき、薩埵峠のほうから、秋の風がひとすじ降りてきました。

 青いガラスの星が、からり。 少し遅れて、銀の輪が、きん。

 からり、きん。 短い会話。

 けれど今日のきんは、いつもより少し“はっきり”聞こえました。音が大きいからではありません。結び目が、父の手に触れた“戻った跡”だからです。戻った跡があると、音はただの音ではなく、道の音になります。

 幹夫は、窓辺の並びを見ました。割れた貝の星座も、空の蛍瓶も、虹の海硝子も、短冊も、みんな黙っている。でも、黙っているものがあるから、鳴るものが鳴る。鳴るものが鳴るから、黙っているものも“いる”と言える。

 幹夫は机に向かって、父へ短い手紙を書きました。

 「とうさん」 「てがみ きました」 「しょういんが まるい つき みたいでした」 「まひも かえってきました」 「ぎんのわを それで むすびました」 「きん が いつもより ちかく きこえました」 「こっちの かぜは いねの においが します」

 書き終えると、喉の奥のざらつきが少し減っていました。減ったぶん、胸の中の空洞の縁が柔らかくなって、息が通りました。

 布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、またざあ、と返しました。虫の声が、りん……りん……と夜の布を細い糸で縫っていました。

 窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。

 幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと思いました。

 ――返事は、音だけじゃない。 ――紙の黒い丸でも、結び目でも、匂いでも来る。 ――来たものは、ちゃんと胸に置ける。

 眠りは、稲の匂いみたいに静かに近づいてきて、幹夫の胸の筒を、今夜は冷たくしませんでした。

 
 
 

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