清水の向こう側
- 山崎行政書士事務所
- 1月11日
- 読了時間: 6分

いつのことだったか、ぼくは清水港で働く友人の誘いを受けて、港の近くにあるバーへ足を運んだ。友人は軽い調子で「あそこ、ちょっと変わった場所があるんだよ」と言った。何が「変わってる」のか、そのときはよく分からなかったが、行ってみると確かにただのバーじゃなかった。
バーの名前は「Port Blue」だった。外観はコンクリ壁に小さなドアがあるだけで、店名は青いペンキで雑に書かれている。昼は倉庫街の一角と化している場所だが、夜になると店内はほの暗い照明に包まれ、それなりに人が集まる。都会の派手さとは無縁で、地味めな選曲のジャズが静かに流れ、客は港湾関係者や地元の常連が多い。けれどその店には奇妙な噂があった。「清水の向こう側」と呼ばれる特別な部屋があり、限られた客だけがそこに通されるのだという。
最初にその話を聞いたとき、ぼくは軽く笑い飛ばした。なぜならそのときの友人は、ビールを何杯もひっかけて気分が上がっており、どうにも与太話のように聞こえたからだ。にもかかわらず、彼の表情はやたら真剣だった。「本当にあるんだ。俺はまだ入れないけど、あの扉の奥になんか不思議な空間があるらしい」と。
そのバーに通い始めて、二週間ほど経ったころ。ぼくはいつものようにカウンターでバーボンのロックを飲んでいた。音楽はブルー・ミッチャルのトランペットがやや抑えめの音量で流れ、カウンターにはぼく以外に二人の客が座っていた。バーテンダーはやせた体格で無口な男で、客に必要最低限の会話しか交わさない。その夜、彼がとつぜんぼくにこう言った。
「よかったら“清水の向こう側”を見ていきませんか?」
驚いたが、同時にぼくは思わず頷いていた。友人が言っていた特別な部屋に招かれるのは、よほどの常連か何らかの理由がある者だけだと聞いていた。ぼくが何をしたわけでもないのに、なぜ呼ばれたのか分からない。好奇心だけが先走るように湧きあがって、気づいたらバーテンダーのあとを追っていた。
その部屋は、カウンターの奥の小さな扉の先にあった。扉を抜けると、短い廊下があり、ぼくがそこを歩むと足音が妙に吸い込まれるように響く。奥に古い木のドアがあって、バーテンダーが鍵を開けると「どうぞ」とだけ言った。扉の先にはそこそこの広さの部屋があった。壁は白く塗られていて、一見普通に見えるけれど、正面の大きな窓が異質だった。
窓の外には、清水港が広がっていた。でも、それはどうも普通の風景とちょっと違う。色彩が妙に鮮明というか、夜なのに光がシャープで、港の灯りが水面に映っている様子が、まるで巨大な映像スクリーンに投射されているようでもある。静まりかえった海、点々とした照明、そして微かな行き交いの波。潮の香りさえ、すぐそこまで漂ってくるようだった。ぼくは唾を飲み込んだ。**「これは何だ?」**と問いかけるが、答えは見つからない。
バーテンダーは引き返していった。ぼくは部屋の中央に置かれた椅子に腰を下ろし、窓の向こうの世界を眺める。すると時間の感覚がゆるやかに溶けだしていくようだった。いつもの清水港のはずなのに、ここから見るとどこか別次元に属している気がする。そこには荷揚げを終えたばかりの貨物船が遠くに浮かび、クレーンの動きがゆっくり見える。けれど、音はほとんど聞こえない。視覚と聴覚が微妙にずれている感じがして、奇妙な浮遊感がぼくの胸に広がる。
やがて、気づくとぼくは部屋の椅子でうとうとしていたらしい。目覚めたときには窓が薄く青白んでいて、いつの間に朝が近づいていた。部屋に戻る扉を開けると、廊下には誰もいなくて、バーも当然閉まっていた。ぼくは仕方なく自分で鍵をかけ、店を出た。店の前の通りは静かで、ほんの少し早朝の風が吹き抜けている。まるで何事もなかったかのように、世界は続いていた。「今のはなんだったんだろう?」 そう思っている自分が、どこか現実と夢のあいだを行き来しているような気がする。
その日から、ぼくはときどきあのバーを訪れ、バーテンダーの気まぐれで「清水の向こう側」の部屋に通される。部屋に入るといつもあの窓があり、そこには清水港の違った表情が映し出されている。あるときは夜の船影、またあるときは夕陽がきらめく海面。季節や時間がばらばらで、実際の時刻とは無関係に変化しているように見える。まるでその窓だけが独自の時空間を持っているようだ。視界が鮮やかに開けると同時に、自分の中の“現実”が大きく揺らぐ感覚に襲われる。
ぼくはいつしか、そこに通うことが習慣になっていった。昼間の仕事中にも、あの窓のことを思い出し、早く夜が来ないかと待ちわびる。ふと考える。「ぼくはこんな港という場所で、何を望んでいるんだろう? 本当にここで生きていていいのか?」 この問いは、大人になってから初めて強く意識する自分の“停滞”を浮かび上がらせた。
ある夜、部屋に行くと、そこにはもう一人、バーの客が座っていた。淡い光のなかで、お互い面識はないが小さく会釈した。その人も静かに窓の外を見つめている。会話はない。まるでそこが**“清水の向こう側”**という名の別世界で、他者と話すことすら余計な行為のように感じられた。 ただ、港の光景は時間とともに幻影めいた色彩に変化し、それを眺めるぼくらは自分自身の存在が薄れていく感覚を覚える。ぼくは何度かその部屋で“眠り”に落ちてしまい、気がついたら深夜を過ぎているということが続いた。
そんなある日、バーテンダーがぽつりと呟く。「あの部屋には行きすぎないほうがいいですよ。行き来が増えすぎると、戻ってこれなくなる場合があるんでね」 それを聞いてぼくは少し鳥肌が立った。まるで、この部屋は港の風景を通じて別次元と繋がっているんじゃないか。それを多用しすぎると、現実のこちら側の存在がぼんやりとしてしまうのかもしれない。
しかし、ぼくはそれでも部屋に通った。そうしなければ自分が何か大切なものを失うような気がしたからだ。**「清水の向こう側」**の窓を通して見る港は、まるで自分の心の奥底を映す鏡みたいに思えた。そこには過去の記憶や未来の不確定さが奇妙に入り混じり、現実が少しずつ剥がれ落ちる音が聞こえるようにすら感じる。
物語に結末があるとすれば、それはぼくがあの部屋から本当に帰ってこられなくなるときかもしれない。ある夜、窓の向こうに、鮮やかな朝焼けの清水港が映り、波止場に一艘の船が静かに寄港するのが見えた。まるで招かれるように、ぼくは窓に手を伸ばし、もう一方の世界へ入り込もうとする。 その瞬間、誰かが背後でぼくを呼んだ気がして振り向いたが、そこには誰もいなかった。振り向くとまた窓の光景も変わっていて、いつもの夜の港に戻っていた。深い息をつき、ぼくは椅子から立ち上がる。 バーテンダーは黙ってカウンターを拭いている。何も言わず、ただちょっと肩をすくめるだけだ。**「また今度だね」**と言われたようにも感じる。
こうして、ぼくは“清水の向こう側”に行ききれずにいる。いや、行ききることが本当に幸せなのかも分からない。もしかすると、そこにはぼくの知らない世界があって、そこに留まれば二度とこちらに帰ってこれなくなるのかもしれない。 でも、清水の港は今日も変わらぬリズムでコンテナ船を出迎え、埠頭では働く人々の声が響く。現実はたしかにここにある。それは親しみと退屈を同時に孕んだものであり、ぼくは当分この世界に留まってもいいのかもしれない。 また、いつか気が向けば、あの部屋を訪れ、窓の外に広がるもう一つの港をそっと覗くのだろう。そう考えると、背中にひやりとした快感が走る。 だから今夜も、ぼくはバーのカウンターでバーボンのロックを頼み、しばし音楽に耳を傾けるのだ。**「清水の向こう側」**は、たぶんどこへも逃げはしない。





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