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清水ドリーム




清水駅の近くに、古びたビルが一棟だけぽつんと残っている。まるで時間からはぐれてしまったような、そのビルの二階でぼく、哲也はレコード店を営んでいる。店の名はありきたりな「SHIMIZU RECORDS」だけど、看板は少し錆びついていて、正直言って目立つとは言い難い。 客層は地元の年配者が大半で、昔の歌謡曲や古いジャズLPを求めてときどき訪れる。観光客が入ってくることもあるが、多くは「ここって何の店ですか?」と驚いた顔をして通り過ぎる程度。 そんなわけで店はいつも空いていて、暇さえあればぼくはジャズを流しながら古本を読んで過ごしている。清水港あたりから吹いてくる微かな潮の香が、レコード棚の埃と交じり合って妙な空気を作っている。

 ある夕暮れ近く、ガラス戸をすっと開けて、一人の若い女性が入ってきた。身なりはごく普通だが、どこか心ここにあらずといった感じのまなざしをしている。 「すみません、ちょっと変なこと言うんですけど……“夢の中”で聴いた曲を探してるんです」 ぼくは一瞬、言葉を失ったが、とりあえず彼女を店の奥のソファに案内した。店内のスピーカーからはマイルス・デイヴィスのトランペットが細く鳴っている。 「どんな曲か、具体的に説明できます?」 彼女は首をかしげ、「断片的なんですけど、こんなメロディだった気がします」と、口ずさもうとする。けれど正確な音程が定まらないらしく、実に曖昧な旋律らしきものが耳に届く。 そのメロディに、ぼくは妙な既視感を覚えた。そう、その旋律は、記憶の深い井戸の底から引っ張り出されるかのように不確かな輪郭でぼくの意識にこびりつく。何だろう、この感じは……。

 彼女の名は**真里(まり)**と言った。清水の外れに住んでいて、港近くのカフェでアルバイトをしているという。なぜこんな不思議な“夢の曲”を探そうとするのか、彼女自身よく分からないらしい。 「ただ、どうしても気になってしまって。たとえばあの『清水ドリーム』っていう幻のジャズアルバムって、知ってますか?」 “清水ドリーム”? 初耳だったが、その名を聞いた瞬間、ぼくは大きなベルが鳴ったような衝撃を感じた。まるで店の外を通る潮風が一瞬止まったかのように、空気が重たく変わる。 「知らないな。そんなアルバム、本当にあるの?」 「分かりません。でも、私の夢のなかで誰かがそう言っていたんです。『清水ドリーム』を探せって」

 その晩、店を閉めてから、ぼくは清水港周辺を少しぶらぶらした。潮臭い風が夜のネオンサインを揺らしている。ふとした拍子に、遠くからトラックの響きが聞こえたり、カモメが低く鳴いたりする。 昔、この港にはたくさんの船と水夫たちが集い、酒場がにぎわったと聞いたが、今は静かなものだ。ぼくは一軒の古いバーに寄って、バーテンダーと世間話をしてみるが、“清水ドリーム”なるアルバムのことは誰も知らない。 ただ、カウンターの隅に座っていたサックス奏者風の男がぼそりと言う。 「噂で聞いたことがあるよ。どうやら、昔、ここで自主制作された幻のジャズLPがあったらしい。数枚しかプレスされなかったとか。真偽は分からないけどね」 男はそう言うと、グラスを手で揺らして微かな苦笑いを浮かべた。まるで、そこに取り憑かれたら抜け出せないよ、とでも言うように。

 翌日、真里が店を訪れ、「あの曲の夢をまた見たんです」と言う。しかも今回は少しだけはっきりした旋律が思い出せるらしく、それを口ずさむ。 ——ボンヤリしたコード進行の合間に、切なく持続するメロディがある。まるで人の心の奥底を掻き立てるような、不思議なトーン。 ぼくは棚からいくつかLPを引っ張り出して針を落としてみるが、いずれもそんな曲ではない。 「ヘンな感じすんな、この曲、なんか知ってる気がするだけど、音楽としては聴いたことないみたい」とぼくは首をひねる。真里も似たように困惑しながら、「たしかに聴き覚えはないんだけど、なぜか懐かしい……」とささやく。 その瞬間、頭の中に名前が浮かぶ——“清水ドリーム”。もしやあの幻のアルバムにこの曲が収録されていたのか? そう考えると妙にしっくりくる。

 ぼくたちは、港近くのいくつかの古物市やジャズバーなどを回り、誰かがその謎のアルバムの消息を知っていないか探してみた。けれど、どこへ行っても「うーん、聞いたことないね」か「そんなもの存在するの?」という反応。 ただ、一人だけ年配の元ミュージシャンが「昔、一度だけ聴いたかも」とぼんやり言った。が、それ以上は何も思い出せないそうだ。まるで街全体がそのアルバムを意図的に忘れようとしているかのように感じる。 夜になると、真里と二人で清水港の埠頭に腰を下ろし、海を見つめながら話す。船のシルエットが遠くに浮かび、ぼんやりとした街の灯りが海面に伸びている。 「あなたはどうしてこの店をやってるの?」と彼女が訊く。 「分からない。ただ、僕はここでレコードを聴いてるときだけ、世界が静かに回っている気がするんだ」 そんなやりとりをするうち、ぼくは彼女が何か抱えていると感じる。彼女の瞳には言葉にできない悲しみのようなものが宿っているけど、その正体が見えない。

 やがて時が過ぎ、風の香りが少し秋の気配を帯び始めるころ、ぼくはどうにかして“清水ドリーム”を見つける方法がないか、頭を悩ませる。 ある晩、深夜のレコード店で棚を整理していたとき、突然電気が一瞬消えて真っ暗になる。手探りでブレーカーを確認するが、何の異常もない。再び電気が戻ったとき、テーブルの上に見慣れないジャケットが置いてあった。 「こんなジャケット、今までなかったはずだ」 そこに書かれたタイトルは、かすれた文字で**「SHIMIZU DREAM」**と読めるような気がした。でも紙はかなり朽ちて、文字が半分消えている。背筋に冷たいものが走る。なんだこれ? いつの間に……

 ぼくは真里にすぐ電話をかけ、一緒にそのジャケットを見る。中身のレコードはなく、空っぽのジャケットだけ。だがデザインを見る限り、ジャズアルバムのようだ。「どうやってこれが?」 互いに言葉に詰まる。 その夜、二人でジャケットを見ながらコーヒーを飲んでいると、真里がぽつりと呟く。「もしかしたら、私たちの探してる曲はこのアルバムの何処かにあるんじゃないかな……でも、レコードがない」 そして、彼女は溜息をつく。「きっと見つからないんだよね。夢みたいなもんだし……」

 終わりというのはいつも曖昧にやってくる。ぼくはその後、いくら探しても“清水ドリーム”の実物を手にすることはできなかった。灯台の暗がりで見つかった扉もないし、時間の止まった部屋もない。 ただ、ある夜更けに、あのカジノバーのマスターが、珍しく古いジャズLPをかけながら、「これ、何のアルバムか分かる?」と訊いてきた。曲は深いベースが響き、サックスが切なく鳴っている。 ぼくが首を振ると、マスターは微笑んで、「さあ、謎だね」と答えた。そして一曲終わったところで一瞬の無音に、何故か真里の口ずさんだ旋律を思い出す。「それって、まさか……」と頭をよぎるが、結局確かめようがない。 朝方、店を出ると潮風がぼくの背中に回り込み、「清水ドリームは幻かもしれないけど、僕らはこうして生きてる」と耳元で囁いているようだった。 そんなふうに、ぼくは日々、古いレコードをかけ続けている。いつか本当に“清水ドリーム”が現れるのではないか、と根拠もなく思いながら。

 
 
 

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