top of page

清水港のさくらえび電信

 幹夫青年は、けふも静岡の町の中で、胸の底の重たいものをうまく置き場にできないまま、夕方の電線の影を踏んだり、駅のガラスの白いひかりを避けたりしてゐました。

 ひかりはいつも正しくそこにあるのに、幹夫の胸の中は、どうしても「どこか足りない」といふ顔をしてゐるのです。

 ――ぼくは、何を探してゐるんだらう。

 気がつくと幹夫青年は、清水(しみづ)の港の方へ歩いてゐました。

 港へ近づくにつれて、空気の匂ひが変はります。

 魚のうろこの匂ひ、濡れた縄の匂ひ、油と鉄の匂ひ、それからいちばん奥に、塩の針みたいな匂ひが、すうつと刺さるのです。

 桟橋の上には、水のしぶきが乾いて白い粉になり、倉庫の壁は灰色で、クレーンの腕が夜空へゆつくり伸びてゐました。

 遠くの海には、漁の灯(ひ)がいくつも浮かび、まるで水の上に、もうひとつの街ができてゐるやうでした。

 漁の灯は、じつに不思議です。

 あれは星ではありません。

 けれども星みたいに見えます。

 星よりも低いところに、星よりも生々しい光が並んでゐるのです。

 幹夫青年は、防波堤の端まで行き、潮の黒い息の上に、ひかりの列が「ゆらり、ゆらり」と揺れるのを見てゐました。

 すると、胸の中の重たい石が、少しだけ潮のリズムに合わせて動き、ほんの少しだけ軽くなるやうに思へました。

 そのときです。

 足もとの水際で、ちいさなひかりが、ぷつ、と点きました。

 「……?」

 ぷつ。

 ぷつ、ぷつ。

 すう……(長いひかり)。

 ぷつ。

 黒い水の上で、乳いろの点が規則正しく瞬(またた)くのです。

 幹夫青年は身をかがめました。

 点は、波に揺れながらも、たしかに「規則」を持つてゐました。でたらめに光つてゐるのではなく、何かを伝へようとしてゐるのです。

 その光は、さくらえびでした。

 小さな小さな、桜の花びらみたいな海のえびが、腹の下の小さな灯(フォトフォア――そんな言葉が頭をよぎりました)を、

 ぷつ、ぷつ、すう……、ぷつ

 と、電信みたいに点けたり消したりしてゐるのです。

 港の灯よりずつと小さいのに、その「意志」だけは、灯台のやうに確かでした。

 幹夫青年は、思はずポケットから古いメモ帳を出して、砂の上に点と線を書きました。

 短いひかりは点。

 長いひかりは線。

 海の上の「ぷつ」と「すう」が、砂の上で、ひとつの言葉にならうとしました。

 そのとき、波が石に当たつて、

 「しゅ、しゅ」

 と息をし、同時に、さくらえびの灯が少し強くなりました。

 ――チッ、チッ、チー……

 ――チチ、チー……

 音はありません。

 けれども幹夫青年の耳の奥では、たしかにそんな電信の音が鳴りました。

 そして、砂の上の点と線が、ふいに意味を持ちました。

 「ミキオ青年。ウミソコ図書館ヨリ。ヨウジ。」

 幹夫青年は、息をのみました。

 海の底に図書館――そんなのは、ばかばかしい。

 けれども、ばかばかしいものほど、ほんたうの入り口になることがあるのを、幹夫青年はこのごろ知りはじめてゐました。

 さくらえびの灯が、また瞬きました。

 ぷつ、ぷつ。

 すう……。

 ぷつ、ぷつ、ぷつ。

 「ホン、イッサツ。マイゴ。サンバシノシタ。ヒロエ。」

 幹夫青年は、桟橋の下を覗きました。

 桟橋の下は暗く、柱が黒く立ち、潮が「ぐう」と奥へ吸ひ込まれてゐます。

 ときどき水面に油が薄く浮き、虹色が「ぬらり」と揺れました。

 その暗がりの中で、たしかに何かが、白く角を見せてゐました。

 紙のやうなもの。

 あるいはノートの表紙。

 幹夫青年は、岸に落ちてゐた竹竿を拾ひました。

 竹竿の先でそつと水面を探ると、潮が「ひやり」と指を噛みました。

 冷たい。

 けれども冷たさは正確です。

 正確なものは、怖くありません。むしろ、言ひ訳を許さないぶん、心がすこし落ち着きます。

 竹竿の先が、紙の端に触れました。

 「……つる」

 音はしません。けれども紙が水を吸つて重くなり、竹竿の先がわづかに沈みます。

 幹夫青年は慎重に引き上げました。

 すると水面から、ぐつしょり濡れた小さなノートが出て来ました。

 そのとき、桟橋の上の方で、ちいさな声がしました。

 「それ……ぼくの……!」

 幹夫青年が見上げると、港の作業着を着た男の子が一人、目を丸くして立つてゐました。

 男の子の頬は潮風で赤く、鼻の先がきらりと光つてゐます。

 「落としたのかい」

 幹夫青年が言ふと、男の子はこくんとうなづきました。

 「おとうちゃんの……潮の手帳……。なくしたら、怒られる……」

 男の子の声は、泣き声になる寸前のところで、ぷるぷる震へてゐました。

 幹夫青年はノートを両手で持ち、そつと桟橋の上へ上がり、男の子へ渡しました。

 男の子はノートを受け取ると、ぱつと顔が明るくなり、胸に抱へました。

 濡れたノートから、海の匂ひが立ちのぼりました。

 海の匂ひは、どこか鉱物の匂ひでもあります。塩の結晶の匂ひです。

 「ありがとう。ありがとう」

 男の子は何度も言ひました。

 言ひながら、ノートを開いてみました。

 ページは波でふやけ、字が少し滲んでゐます。けれども、まだ読めます。

 そこには潮時(しおどき)の表が書いてありました。

 干潮、満潮、潮の速さ。

 それから、端の方に、鉛筆で小さく、こんな走り書きがありました。

 > きょうは かぜが つよい。

 > ひかりのふねは ぎんがみたいだ。

 > おとうちゃん きをつけて。

 幹夫青年は、その字のやさしさに、胸の底がきゅうとしました。

 潮の表は、海の文法です。

 けれども、この小さな走り書きは、海の上の人の文法でした。

 それは数字ではなく、祈りの形をしてゐました。

 男の子はノートを閉ぢ、急いで走り出しました。

 「おとうちゃんに みせる!」

 足音が「たたた」と遠ざかり、港の機械の音や、縄の擦れる音の中へ消えてゆきました。

 幹夫青年は、また水面へ目を落としました。

 さくらえびの灯が、まだそこにゐました。

 小さな点々が、潮に揺れながら、ぷつ、ぷつ、と瞬いてゐます。

 幹夫青年は、さつきの電信を思ひ出しました。

 「ホン、イッサツ。マイゴ。」

 あの本は、たしかに迷子でした。

 けれども、いま、元の持ち主へ戻りました。

 それでよいのだらうか。

 海底図書館は、それでも満足するのだらうか。

 さくらえびの灯が、また瞬きました。

 今度は少しゆつくりでした。

 ぷつ。

 すう……。

 ぷつ、ぷつ。

 すう……。

 幹夫青年の胸の中で、電信がふたたび読めました。

 「ウケトッタ。ホンハ、カミデハナイ。」

 「イチページ。イマノシゴト。ソレ、トドイタ。」

 幹夫青年は、ぼんやり立ち尽くしました。

 本は紙ではない。

 一ページ――いまの仕事。

 そのとき海の上の漁火が、風に揺れて一斉に「ゆらり」と歪みました。

 歪んだ灯は、まるで大きな電信の点と線になつて、駿河湾の暗い板の上へ、何かを書いてゐるやうに見えました。

 幹夫青年は、ふと気づきました。

 さつき、男の子へノートを返したとき、胸の底の石が少しだけ軽くなつた。

 軽くなつたのは、何かを手放したからではない。

 重さが「役に立つ重さ」に変はつたからです。

 道具箱の重さ。

 誰かのために運べる重さ。

 さくらえびの灯は、ぷつぷつと、やがて普通の波のきらめきに紛れてゆきました。

 けれども幹夫青年の耳の奥では、まだ電信の音が小さく鳴つてゐました。

 ――ぷつ。

 ――すう……。

 ――ぷつ。

 幹夫青年は港を出て、静岡の町の方へ歩きました。

 背中の後ろで、海の匂ひが少しずつ薄れ、かわりに街の匂ひが戻つて来ます。

 けれども幹夫青年は、もうさつきほど街の光がうるさくはありませんでした。

 ひかりは遠くから来る。

 海の底から来ることもある。

 星から来ることもある。

 けれども使ふのは、いつも、手の届く近いところだ。

 幹夫青年は、胸の中で小さく言ひました。

 「……あしたも、近いところの一ページを、拾つてみよう」

 港の方角で、波が石に当たつて、

 「しゅ、しゅ」

 と息をしました。

 それは返事でも、ただの物理でも、どちらでもよいと幹夫青年は思ひました。

 電信はもう見えません。

 けれども、幹夫青年の歩幅の中には、ぷつぷつと、たしかに何かが点滅してゐました。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page