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港の風を聴く

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月11日
  • 読了時間: 4分


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ぼくの小さな古本屋は、静岡県の清水港から歩いて十五分ほどの、ちょっと見つけにくい路地の奥にある。通りに面した看板は簡素な木の板に店の名前が書いてあるだけ。おそらく、地元の人でも気に留めないようなところだろう。 店内はいつも静かだ。午前中はほとんど客が来ないし、午後も二、三人がふらっと立ち寄ればいいほう。そんな閑散とした古本屋で、ぼくは淡々と時間をやり過ごしていた。 名前は田辺、三十代の半ばを越えたくらい。父はぼくがまだ幼いころに亡くなり(事故だったのか病だったのか、大人たちがぼくに明確に語ってくれた記憶はない)、それ以来、母と二人でささやかに暮らしてきた。父の思い出は断片的にしかない。彼がなぜ清水港にこだわっていたのかも知らないまま、日常はまるで潮の満ち引きのように淡々と過ぎていく。

 ある日の午後、いつものようにカウンターに座って雑誌をめくっていると、店のドアが開いた。年配の男性が、セーターのポケットにぎゅっと詰め込んだ文庫本を取り出し、「引き取ってくれないか」と言う。 ぼくは何気なくその本をめくってみた。すると、最後のページに手書きのメモらしきものが挟まっている。文字はこぢんまりと書かれていて、ある種の暗号めいた符号が並んでいた。 「何だろう、これ……」とつぶやいたぼくに、男性は「さあ、知らないよ。引き出しから出てきたんだ」と言い、さっさと店を出てしまう。メモの紙はもう黄ばんでいて、そこに書かれた筆跡はどこか見覚えがあった。確信はないが、父の筆跡かもしれない。

 その夜、ぼくは家に帰ってからもメモをじっと眺めた。内容を推測すると、「港の風」「青い船」「十九八三年」なんて単語が見て取れる。その隙間を埋めるように暗号のような記号が散りばめられている。 ぼくの父はどんな男だったのか? 母は具体的に語らず、「海が好きな人だった」という曖昧な言葉しかぼくの記憶にない。あるいは、このメモが父の過去を解き明かす鍵となるのかもしれない。そう思うと、なぜか胸がざわつく感覚に囚われる。

 翌日、ぼくはメモに書かれた「青い船」を頼りに、清水港近くのバーや小さなカフェを訪ね歩き始めた。夜のバーは年季の入ったカウンターに陽気さと陰りが同居し、マスターはぼくの話を半分聞いたふりでウイスキーのグラスを磨く。 一方、昼間のカフェでは古い船乗りの話を聞く機会があった。「昔、青い船が清水に停泊していた」とか、「船上で奇妙な風が吹いていた」「船内で幽霊を見た」という伝説めいた噂が浮上する。 **「港の風」と呼ばれる現象があると、誰かが言った。それは普通の風と違って、まるで海と陸の境を自在に行き来し、人の心に入り込むような不思議な流れをもたらすものなのだという。ぼくはその意味をよく掴みきれないまま、まるで虚ろなパズルのピースを拾い集めるような気分で話を聞き続けた。

 そうしてあちこち話を聞いていくうちに、現実と非現実の境が曖昧に感じられる瞬間が訪れる。例えば、夜の港を歩いているとき、潮の湿った匂いのなかで父の声を聞いたような気がする。あるいは昔の青い船が幻影のように目の端をかすめた。 「港の風に耳を澄ませば、失われたものの声が聞こえるかもしれない」――メモの暗号を解読するにつれ、そんな錯覚を起こすようになったぼくは、もはや自分が何を探しているのかすらはっきり自覚できなくなりそうだった。

 けれども、ぼくは止まらない。父の痕跡を追うごとに、どこか奇妙な既視感が募り、「自分が昔からこの港を知っていたかのような」感覚が目を覚ましてくる。 「港の風」とは何だったのか。父はそこに何を見て、何を託そうとしたのか。 ぼくは静岡の淡い朝焼けのなかで、遠くに佇む富士山を一瞬見つめる。富士山が雲に溶けるようにして、何も語らない。それでも確かに、そこにある。それが妙に現実離れした、けれど容赦なく確かな存在感を放っているのだ。

 ぼくがこの旅の終着点で何を見つけるのかは分からない。父の隠された秘密か、それともただの幻想か。港の風がぼくの耳元でささやく言葉は、あるときには優しく、あるときには冷ややかだ。 ただ、ぼくはこの静かな古本屋をあとにして、新しい航海へ出る用意をしているのかもしれない。 それがどんな航海かは、まだおぼろげなままだが、港の風が背中を押すように吹いているのを、ぼくは確かに感じている――。

 
 
 

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