湖畔の春愁
- 山崎行政書士事務所
- 3月30日
- 読了時間: 58分

第一章
西湖(さいこ)湖畔の根場(ねんば)の里に、春の黎明が静かに訪れようとしていた。夜明け前の空は薄墨色から次第に桜色の気配を帯び、遠く霊峰富士の白い頂(いただき)もやがて朝陽に淡く染まり始めている。湖面にはかすかな霧が立ちのぼり、冷たく澄んだ空気があたりを包んでいた。村はずれの一本桜の梢(こずえ)には、霞のようにほのかな花の蕾(つぼみ)が綻(ほころ)びかけている。静寂を破るように、遠くで一羽の鶯(うぐいす)が長閑(のどか)な声で鳴いた。
根場の集落の一角にひっそりと佇む茅葺(かやぶ)き屋根の古い一軒家で、幹夫(みきお)は朝の気配にゆっくりと目を覚ました。今年七十を優に超える幹夫にとって、夜明けとともに起き出すことは長年変わらぬ習慣である。薄明の室内、敷きっぱなしの布団の中で身を起こすと、畳の床にはまだ夜の冷気が残っていた。傍らの綿入れの半纏(はんてん)を手に取って肩に羽織り、彼は静かに立ち上がる。襖(ふすま)を開けて土間へ下り、木の戸をガラリと引いて外の空気を迎え入れた。
板戸を開け放つと、ひんやりとした朝の大気が流れ込み、幹夫は思わず肩をすくめた。湖からの風に乗って、微かな桜の香と湿った土の匂いが鼻先をかすめる。東の空には薄桃色の光が広がり、遠く富士山の白銀の頂が朝焼けに浮かび上がっているのが見えた。幹夫はしばし戸口に立ったまま、その光景に見入っていた。日毎に目にする当たり前の風景でありながら、今朝の富士もまた新鮮な畏敬をもって彼の胸に迫ってくるものがあった。幹夫はゆっくりと合掌し、「おはよう」と小さくつぶやいて、白く気高い峰に朝の挨拶を送った。
家の脇に立つ一本の桜の古木も、裸の枝先に無数の小さな蕾を膨らませている。幹夫は軒先に出て、その木を見上げた。冬枯れの景色の中にも確かな生命の色が滲み始めていることに、彼の心は静かな弾みを覚えるのだった。足元の枯草には夜露が白く宿り、朝日を受けて小さな滴(しずく)が宝石のように輝いている。春がそこまで来ている。幹夫はそう感じながら、再び家の中へと歩を進めた。
囲炉裏(いろり)の残り火に息を吹きかけ、赤々と火を起こす。鉄瓶を鎖で吊るし、冷たい井戸水で満たしたそれに火にかけた。水が温まるまでの間、幹夫は火の側に胡坐(あぐら)をかいて手をかざし、ゆったりとした息をついた。朝の支度は何十年も繰り返してきた馴染みの作業である。若い頃には忙しなく感じた朝の手順も、今では一つ一つがゆるやかな時の流れの中にあるかのようだった。囲炉裏のパチパチとはぜる音だけが家の中に響き、人の気配は幹夫ひとりだけであった。
やがて鉄瓶の湯がふつふつと沸き立った。幹夫は急須に茶葉を入れ、湯を注ぐと香ばしい茶の香りがあたりに立ちのぼった。小さな土間の隅には簡素な仏壇がある。湯気の立つ急須と湯飲みを盆に載せて持ち上げると、幹夫は仏壇の前に正座した。位牌(いはい)と遺影(いえい)を前に手を合わせ、「今日もいい天気です」と静かに声をかける。湯飲みに淹れたばかりのお茶を少し注ぎ、供えると、幹夫は恭しく一礼した。遺影の中で微笑む妻と目が合ったような気がして、胸が締めつけられる。それでも幹夫は顔を上げ、静かに微笑み返してから盆を下げた。
縁側に腰掛け、自分用の湯飲みにも茶を注ぐ。幹夫は両手で湯飲みを包み、ゆっくりと一口すすった。温かな苦味が舌に広がり、冷えた体の芯をじんわりと潤していく。朝日に照らされた庭先には、柔らかな陰影が落ちていた。見渡せば、ゆるやかな傾斜の上に自分の家を含め茅葺き屋根が幾棟か点在しているのが見える。かつてこの根場の集落は大きな災害で壊滅し、多くの家族が村を去ったと聞く。それでも幹夫の父母たちの代が力を合わせて故郷を再建し、今はわずかな戸数ながら人の暮らしが続いている。朝の光に照らされる茅葺き屋根の景色は美しく穏やかで、その下に自分が今日も生きていることに幹夫は静かな感謝を覚えた。
西湖の湖面は朝の光を受けてきらめき、さざ波がゆるやかに岸辺の石を濡らしていた。湖越しに仰ぐ富士は相変わらず雄大で、その静けさは幹夫の胸に染み入るようである。幹夫は湯飲みを置くと、立ち上がって欄干にもたれながらもう一度富士の方角に目を細めた。長い冬のあいだ幾度も雲に隠れていた山が、今日はくっきりと姿を現している。「今年も会えたな…」心の中でそっと語りかけると、富士の峰は朝空に凛と聳(そび)えて答えた。幹夫は小さく笑みを浮かべ、自分がこの地で迎える何度目かの春に思いを馳せた。
庭先の桜は、あと数日もすれば一斉に花びらをほころばせ、淡紅色の花が枝を埋め尽くすことだろう。幹夫はその桜の古木に目を移した。幹夫が若い頃、父とともに植えた木であった。あの日、鍬(くわ)を振るって硬い地面を掘り起こし、小さな苗木を土へ下ろしたときのことを彼は昨日のように思い出す。春の湿った土の匂い、照りつける日差し、額に滲(にじ)んだ汗。そして、隣で鍬を握る父の大きな手。「慌てるな、根を傷めぬようにな」──夢中で土を掘る若い自分に、父がそう言って笑った声までもが鮮やかに蘇る。父はすでに遠い記憶の中の人となって久しいが、あのとき庭に植えた桜だけは今年も変わらずそこに立ち、蕾を綻ばせようとしている。
幹夫は桜のもとへ歩み寄ると、静かにその幹に手を当てた。ごつごつと苔むした幹から、ひんやりとした生命の鼓動のようなものが伝わってくる。幹夫は目を閉じ、「今年もお前に会えたな」と低く囁(ささや)いた。長い年月を生き抜いてきた古木に、今年も無事に花の季節が巡ってきたことへの愛おしさが込み上げる。桜の木は何も言わない。ただ静かにそこに在り続ける。その沈黙が却って頼もしく思われ、幹夫はそっと手のひらで幹を撫でた。かつて父と交わした約束のように、この桜は命の限り春を謳歌(おうか)し続けるだろう。人の命はいつか土へ還(かえ)るが、木はこうして人を超えて生き続け、記憶を繋いでゆくのだろうか──幹夫の脳裏にふとそんな考えがよぎった。
「来年もこの花を見ることができるだろうか」幹夫は心の中で自問した。歳月の積み重ねは否応なしに自身の終わりを意識させる。いつしか桜の古木と自分と、どちらが先に朽ち果てるのだろうと考えるようになった自分に気づき、幹夫は微苦笑を浮かべた。少しばかり感傷的に過ぎるかもしれない。彼は首を横に振り、まるで打ち消すように「まだ先のことだ」と小さく呟いた。そして足元の大地に視線を落とすと、今日という日の始まりに意識を向け直した。
独りで生きる暮らしに、寂しさがないと言えば嘘になる。枕辺に寄り添うはずの妻の姿は既(もは)や無く、長い夜にふと目覚めたとき、その不在を痛切に感じることもあった。暖かな春の陽ざしの下でさえ、心にぽっかりと穴が空いたような孤独が顔を出す瞬間がある。それでも幹夫は静かに息を吸い、目前の富士や湖、そして桜の木に目をやった。雄大な自然がそばにあれば、たとえ一人きりでも己(おのれ)が支えられていると感じられるのだった。富士の峰はどっしりと大地に根を下ろし、湖水はとうとうと水を湛えている。桜は今まさに蕾から花開こうとしている。そうしたものに比べれば人はなんと小さく儚(はかな)いのか、と幹夫は思う。そして同時に、小さく儚いからこそ、人はこの上なく愛おしい存在なのかもしれないとも思うのだった。
幹夫は感傷を紛らわすように、掃き出し口に置いてあった竹箒(たけぼうき)に手を伸ばした。庭先に散らばった枯葉を掃き集めようと、ゆっくり腰をかがめる。冬の間に落ち積もった茶色い落ち葉を熊手でかき寄せていると、その下から薄緑の小さな草の芽が顔を出しているのに気づいた。幹夫は思わず動きを止め、小さな芽生えに目を凝らす。よく見ると、庭のあちこちで土を押し上げるように新芽が生え始めていた。「お前たちも春を待っていたんだな」幹夫はくくっと喉を鳴らして笑い、独り言のようにつぶやいた。誰に聞かせるでもない言葉が澄んだ空気に溶け、朝の庭に小さな生命の息吹が満ちていく。
そうこうしているうちに、幹夫の腰はじんわりと痛み始めた。少しかがんだだけでも、この頃は骨がきしむようだ。彼は箒を持ったままそっと伸び上がり、固くなった腰に手を当ててゆっくりと背筋を伸ばした。朝の空にはいつの間にか薄雲が広がり始めている。それでも雲間から漏れる光は十分に明るく、柔らかな陽射しが庭いっぱいに降り注いでいた。先ほど鳴いていた鶯が再び近くの林で声を上げ、谷間にその澄んだ音色が響く。幹夫は耳をすませ、春の訪れを告げるその声を静かに聞き入った。
ふと遠くから車のエンジン音がかすかに聞こえてきた。山裾を走る街道を行く旅人か、仕事に向かう村外れの人かもしれない。幹夫の暮らすこの集落の外にも、目には見えぬ人々の日常が動いている。そのことを示すようにエンジンの唸(うな)りは一瞬耳朶(じだ)を掠(かす)めたが、すぐにまた静寂が戻ってきた。聞こえるのは風にそよぐ枝葉の音と、小鳥たちの囀(さえず)りだけである。幹夫は改めてあたりに目を配った。朝露に濡れた庭も、古い家も、ひっそりと静まり返っている。だが不思議と心細さはない。彼の中にはいま静かな充足が広がっていた。
集め終えた枯葉を脇に寄せ、幹夫は一息つくと竹箒を軒先に立てかけた。ゆっくりと立ち上がり、丸めていた腰を伸ばす。顔を上げると、雲の合間から洩れる陽の光がまぶしく庭を照らした。幹夫はすぅと息を吸い込む。冷たさの和らいだ空気が肺の奥まで満ち渡り、身体中に生気を送り込むようだった。遠くには富士と青空、足元には大地と若草の芽生え。そして傍らには変わらず桜の古木が立っている。幹夫は朝の光景をもう一度ゆっくりと見渡したあと、静かに歩み出した。今日という一日の始まりを迎えるために、朝露に煙る土を踏みしめて進んでいく。胸の内には、わずかではあるが柔らかな光が差し込み始めているのを幹夫は感じていた。静かな湖畔の春の中へ、彼はひとり歩き出したのである。
第二章
午前も九時を過ぎる頃、幹夫(みきお)は身支度を整えて、いつもより少し足取りを急ぎながら家を出た。昨夜、村の若い衆が巡回に来て、今日の昼過ぎに「いやしの里」へ集まってほしいとの連絡を受けたのだ。訪れる観光客向けに、旧い写真や史料を交えて村の歴史を説明する催しが開かれるという。その準備手伝いを頼まれた幹夫は、古いアルバムや父の残した手記の類(たぐい)を鞄に詰め込んだ。些細(ささい)なことではあるが、誰かに求められ、役に立てるのは悪い気がしない。独り暮らしが長くなると、人に声を掛けられるだけで心が幾分か浮き立つものだった。
外に出ると、朝の透き通る光のなかで、湖畔の道がやわらかな土の色を帯びていた。幹夫は家の脇に佇む桜の古木に一瞥(いちべつ)をくれて、小さく頷(うなず)くようにして歩き出す。蕾は一段とふくらみ、枝先には淡い紅(べに)がさしていた。歩み始めてすぐ、背後でひとひら桜の蕾の鱗片(りんぺん)がほころぶ微かな音がしたように感じ、幹夫はふと足をとめて振り返った。しかし朝の光を受けた桜は相変わらず無言のまま、凛々(りり)しく立っているばかりである。 「気のせいか……」 幹夫は少しばかり照れたように呟(つぶや)き、そのまままた歩を進めた。昨夜の雨の痕(あと)がわずかに残った土の道は柔らかく、靴の裏を軽く湿らせる。あたりには森から吹く冷たい風と、木立(こだち)の彼方で揺れる鳥の声が入り交じり、春浅い山里の朝に特有の、静かで豊かな音楽を紡いでいた。
幹夫の家から「いやしの里」へ向かうには、小さな渓(たに)を越えねばならない。災害で破壊された古い橋の代わりに、いまはコンクリート製の欄干(らんかん)が簡素な形でかかっている。欄干の脇には先の大水の時に折れかけた桜の若木があるが、根をしっかり張ったのか、今年も懸命に蕾をつけていた。幹夫は橋を渡りながら、その木に向かって「よく耐えたな」と心の中で声をかける。周囲に茅葺きの古民家が点在し、人影こそまばらだが所々から湯気が立ちのぼり、朝餉(あさげ)の用意をする気配が感じられた。
やがて「いやしの里」の集落入口に到着すると、顔見知りの渡辺(わたなべ)修が気さくな笑みを浮かべてこちらへ手を振った。渡辺は同じ根場の出身で、幹夫とは少年の頃からの旧友である。かつては別の町に住んでいたが、定年を機に戻ってきて、今は観光客相手の案内人を務めている。
「おう、幹夫。今日も早いな」「朝の空気が澄んでるうちに、歩くのが好きでな。そっちは準備はどうだ?」「こっちはぼちぼちだ。今日の催し、新聞社の人も来るらしいぞ。お前が持ってきた古い写真、見せてやれ。きっと喜ぶぞ」
渡辺はそう言って、幹夫の手にある鞄をさっと指差した。幹夫は鞄の中を改めて持ち直しながら、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「なに、ずいぶん古ぼけたもんだし、新聞社なんて大それたとこが興味を持つかどうか……。ただ、亡くなった父が書き残したものに、当時の村の様子が詳しく書いてあるからな。何かの役には立つかもしれん」「大いに役立つさ。俺なんか父親の残したものなんぞ、もう何も無い。あのときの土石流で全部流されてしまったからな……」
渡辺は遠くの山肌を仰いだ。そこには今も幾筋もの傷跡が走り、崩落した土砂の名残が赤茶けた色を見せている。かつての大惨事を物語る爪痕(つめあと)は、半世紀以上を経ても生々しいままだ。渡辺の瞳は、その山肌を見つめながらかすかに陰りを帯びた。幹夫もまた、あの夜を思い出す。たった一晩で村が土に埋もれ、多くの家族が離散を余儀なくされた。忘れ難い記憶が静かに胸に広がり、幹夫は小さく唇を噛んだ。
「ああ……今でも夢に見ることがある。激しい濁流の音と、家が崩れる悲鳴……」
そう言いかけた幹夫の声が、いつしかかすれていた。渡辺は幹夫の肩を軽く叩き、明るい調子を装って言う。
「ま、今日は暗い話はよそう。俺たちが覚えている昔の風景を、今の世代に伝えるのも大切な役目だ。お前の父上の手記が、それに大いに貢献するだろう」
幹夫は深く頷いて目を伏せた。手記の中には、幹夫が生まれる前の根場の暮らしや風習、そして父が語り継ぎたかった様々な思いが詰まっている。いつか誰かのために役立てたいと、幹夫自身もかねてより思っていたものだった。「よし、やるか」そう胸の内で呟き、幹夫は歩みを進める。渡辺に先導されて通りを抜けると、左手に茅葺きの大きな集会所が見えてきた。
集会所の屋根には昨晩の雨の名残が滴り落ち、軒先には淡い日差しが差し込んでいる。入口には既に数人の関係者らしき人々が立ち働いていた。地元の若者、観光協会の職員ら、そしてどこか洗練された身なりの女性が一人。白いジャケットにスニーカーを合わせた姿が目を惹く。その女性はカメラを提げ、周囲を興味深そうに見回していた。
「あの人は……?」
幹夫が小さな声で尋ねると、渡辺は「ああ、あれは写真家の高梨(たかなし)さんだ」と答える。東京から来たフリーランスのカメラマンで、この根場を取材しようとしているらしい。村の広報担当を通じて取材許可を申し出てきたが、どうやら素朴な日本の原風景をテーマに撮り歩いているという。渡辺は、
「桜の時期に合わせて、富士と茅葺き屋根を撮りたいって言うんだ。この根場にも一週間ほど滞在するそうだよ。まだ若いけれど、案外目が利くらしい。さっきも茅葺き屋根の雪折れ跡を興味深そうに撮影してた。取材熱心で感心するよ」
そう言って、少し羨望(せんぼう)の混じった眼差しで女性を見やる。幹夫もつられて視線をやると、女性はちょうどレンズをこちらに向けかけて、気づいたようにペコリと頭を下げた。そのあどけないような笑顔に、幹夫はどこか不思議な気持ちを抱いた。まるで、遠い昔の自分の娘や──あるいは幼い孫娘がいたとしたら、こんなふうに笑っただろうか、と頭に浮かんだのだった。
集会所へ入ると、ほんのりと畳の匂いが鼻をくすぐる。広い座敷の中央には展示用の長机が並べられ、古い写真のパネルや資料が置かれていた。幹夫は鞄を開け、中にしまっていた父の手記と古ぼけたアルバムを取り出す。父が若い頃に撮ったものや、幹夫自身が子供のころ撮ったスナップ写真。どれも色あせ、端は破れかけていたが、当時の村の様子を伝える貴重な記録だった。まだ生き生きと活気に満ちた家々、子供たちが川辺で遊んでいる様子、秋祭りの神輿(みこし)を担ぐ青年たち……今ではほとんど消え去った情景が、写真の中に封じ込められている。
「幹夫さん、そのアルバム、見せてもらってもいいですか?」
背後から柔らかな声がした。振り向くと、先ほどの女性──高梨絵里が控えめに声をかけていた。思っていたよりも年若く、まだ三十にも届かないほどの雰囲気だ。肩口で切り揃えられた髪が、朝の光を受けてわずかに茶色く透けて見える。カメラを下ろし、両手を揃えて幹夫のアルバムに目をやっていた。彼女の大きな瞳には好奇心とわずかな緊張が混ざった色が浮かんでいる。
「ああ……構わんよ。何しろ古い写真ばかりだ。きれいなものは残っていないが、それでもよければ見てやってくれ」「ありがとうございます。こうした昔の暮らしぶりがわかる写真、私、どうしても見たかったんです」
絵里はアルバムを受け取ると、一枚一枚を丁寧にめくった。焼けたセピア色の写真に、声をひそめて驚きの声をあげる。 「わあ、昔の茅葺きって、こんなに立派だったんですね……。今はだいぶ修復されて観光用になっているけれど、この写真はまさに『生活』がある感じがします」 幹夫は少し照れくさそうに唇を引き結んだまま、その横顔を見守った。若い人がこれほど真剣に古い写真を見つめるさまに、少なからぬ感銘を受けたからである。絵里の指先は写真の端にそっと触れ、彼女の瞳は何かをすがすがしい思いで受け止めようとするかのように輝いていた。
「私は東京の生まれで、今はフリーランスで日本の原風景を撮り歩いています。でもこういう姿は写真集や資料でしか見たことがなくて……。こうして生きた証拠を自分の目で見るのは初めてです」
言葉の端々に熱情が感じられる。幹夫の胸には、むかし教師をしていた頃に出会った生徒たちのことが甦ってきた。若き日は無尽蔵(むじんぞう)の好奇心を持ち、目の前の世界を大きく膨らませていく。その眩しさに接すると、人生の大半を過ぎてしまった自分がどう映るのか、ふと恥ずかしくなりもした。
「これらの写真は、わしの父や村の人たちが撮ったものだよ。実は当時の手記も……」
そう言いかけると、絵里は瞳を輝かせて幹夫を見た。
「手記、ですか?」「ああ。日記のようなものだ。村の暮らしぶりや行事、季節の移ろいなんかを克明に書き残している。あまり字は達者じゃなかったが……それでも大切にしていたようだな。読んでみるかい?」
絵里は一瞬ためらうように視線を落としたが、すぐに「ぜひ」と小さく頷いて笑みを浮かべる。まるで宝物を見つけた子供のような純粋な喜びがそこにはあった。幹夫は鞄から父の手記を取り出した。それは何十年も前の紙に墨で書かれた走り書きで、表紙の和紙もところどころ黄ばんでいる。 「申し訳ないが、もし読んでみたくなったら、その……気の向いたときにでも。あまり人様に見せる代物じゃないかもしれんからな」 幹夫がそう言うと、絵里は慎重な手つきで手記を受け取り、胸元で大事に抱くようにした。 「ありがとうございます。大切に拝見させてください」
そのやり取りを見つめていた渡辺が、「こっちに写真を貼るスペースが空いている」と声をかけた。催しで使う展示パネルの台紙らしく、幹夫の持ってきた写真を貼る場所を示している。幹夫は「おお、わかった」と言って数枚を選び、手際よく糊(のり)を塗って台紙に貼りつけ始めた。写真によっては裏面に簡単な説明文を書き添えてある。絵里はそれを覗き込み、「昔、この場所にこんな商店が……」と驚く声を上げる。 「そうだよ。炭焼きや養蚕(ようさん)ばかりが仕事じゃない。集落の真ん中には共同の道具置き場があり、その隣には簡素な商店があったんだ。小さな置き菓子や味噌、醤油を売っていた。ここには当時の子供たちが集まって、駄菓子を買い食いするのを楽しみにしていたものだ……」 幹夫がそんな話をするたびに、絵里の顔がぱっと明るくなり、「いいですね、そういう話、もっと教えてください」と身を乗り出してくる。彼女の純粋な好奇心にほだされるように、幹夫は次々と記憶の底をさらう。自分でも意外なくらいに饒舌(じょうぜつ)になっているのがわかったが、それはどこか心地よかった。
気づけば、集会所の広い座敷は人の出入りで賑(にぎ)わい始めている。観光協会の担当者が資料を運び込み、村の若者が手分けをして貼り付けたり説明文を整えたりしていた。渡辺は会場全体の段取りを指示しながら、時折幹夫の様子を気にかけて「大丈夫か、腰は痛まないか」と声をかけてくれる。幹夫は笑って首を振った。確かに腰は少々痛むが、それを感じさせないほどに心が弾んでいるのを自覚していた。ひとりの老いた男が、こうして村の歴史を語り伝える役目を果たせるのだ。それはなんと嬉しいことだろう。かつて教師を務めたときの“教壇に立つ感覚”が、どこか懐かしい手触りをもって蘇ってくるようだった。
やがて、外が明るさを増してきた頃に、本番の時刻が近づいた。観光客や地元民、さらには取材の記者らも集まり始め、会場は徐々に活気づいている。ざわざわと人声が高まる中、幹夫は最後の仕上げとばかりに写真パネルを整え、その横に父の手記の一部を書き写した紙を貼り足した。そこには「昭和三十年代 村の春の情景」「彼岸の頃 田に水を引く まだ雪解け水は冷たし」などと走り書きの文字が並ぶ。遠い昔の父の筆跡がありありと思い出され、幹夫の胸に熱いものが込み上げた。幹夫はそれを静かに抑えるように深呼吸し、紙の端をそっと撫でる。
すると、絵里がそばへ寄ってきて、その書き付けられた文字を読んでいた。 「昔の暮らしの息遣いが感じられますね。……なんだか不思議です。今ここにいる私と、この文字の主が見ていた世界は、同じ場所なのにずいぶん違うようでもあり、変わらないようでもあり……」 彼女はそう言って軽く笑った。幹夫は胸の奥で、これまで抱いていた「過去への想い」と「今ここにある現実」とが混じり合う感覚を覚えた。流れる時間はどこか残酷で、取り返しのつかないものを容赦なくさらってゆく。それでも、それを記録し、語り継ぐことができるのだとしたら、人は少しだけ永遠というものに手を伸ばせるのかもしれない。 「ここの春はな、昔からゆっくりやってくる。けれど一度訪れれば、あっという間に桜が咲いて、そして散っていく……」 幹夫はそう呟(つぶや)き、隣で立ちすくむ絵里に向けて優しく微笑んだ。 「この村では、いつだって花の季節を待ちわびている。そして散ったあとの静けさに、また来年を夢見る。そんなふうにして、俺たちはここで生きてきたんだよ」
周囲を見回せば、もう外はすっかり春の陽が差し込み、入口から人々がどやどやと入ってくるところだった。渡辺が手を叩いて「そろそろ始めるぞ」と声を張り上げる。集会所の床は人で埋まり、古い写真や資料を見つめる人たちの目が輝いている。その光景を眺めながら、幹夫はどこか胸の奥に湧き起こる感謝の念を感じていた。──孤独な老いの日々の中にも、こうして人と交わり、語り合い、過去と今を繋げることができるのだ。人の命は儚いが、それでも何かを伝え残すことができるなら、自分がここに生きた意味もまた、霞(かす)むことなく残っていくかもしれない。 「よし……今日も少し、頑張ってみるか」 幹夫は誰にともなく呟き、自分の出番を待つ。そのとき外から風が吹き込み、床近くに貼られた写真パネルをちらりと揺らした。揺れる写真の中には、子供の頃の幹夫と、真新しい桜の苗木、そして父の姿が写っている。まだあどけない幹夫の笑顔の後ろには、燃えるような春の日差しに照らされた古里があった。遠い日の記憶のなかで桜の花びらが揺れ、今にも一斉に咲き誇ろうとしている。 ──外の春は、もうすぐそこまで来ているのだ。幹夫はそう思い、静かに目を閉じる。まぶたの裏には桜の古木が満開に咲き誇る光景がありありと浮かび、そしてその根元には、かつて父とともに掘った土の匂いがまだ息づいているように感じられた。
第三章
催しが終わったのは昼下がりのことだった。暖かな日差しを受けた集会所の畳の上で、幹夫(みきお)たちは並べた資料や写真を片づけはじめる。観光協会の職員や地元の若者たちは、来場者が残していったアンケート用紙を回収して、賑(にぎ)やかに意見を交わしている。老若男女、思い思いの声が飛び交う中、幹夫は今日一日の熱気を胸の中で反芻(はんすう)しながら、静かにアルバムを手に取った。
「皆さん、ありがとうございました。こんなに大勢の方が来てくださるなんて……」 観光協会の責任者である若い男性が、深々と頭を下げる。日に焼けた顔には汗が光り、その声には満足げな安堵(あんど)の調子が含まれていた。 「こちらこそ、えらい賑わったもんだな」 渡辺(わたなべ)修がからりと笑い、幹夫の肩を叩く。幹夫もどこか照れくさそうに微笑み、「いや、大したことは話しておらんよ」と首をすくめた。だが言葉とは裏腹に、その頬にはほんのりとした赤みが差していた。
催しの席上、幹夫は壇上で村の移り変わりを語る役目を担い、昭和の頃の写真を見せながら災害前の根場の暮らしや季節行事について思い出す限りを話した。最初は緊張で声が上ずったものの、会場のあちこちから熱心に頷(うなず)く人々の姿を見るうちに、自然と言葉が溢(あふ)れてきた。どこから湧いてくるのか、自分でもわからぬほどに記憶は活気を帯び、胸に宿っていた故里(ふるさと)への思いが鮮明になっていくのを感じた。とりわけ、古い写真の集合写真に映る祭囃子(まつりばやし)の様子を語ったときなどは、当時の歓声と太鼓の音、鼻をくすぐる焼きとうもろこしの匂いまでが立ちのぼるようで、会場の人々と一緒に幹夫自身も青春の日々を追体験したような気分であった。
「父上の手記を、皆さんと一緒に朗読できたのもよかったですね」 そばを通りがかった高梨絵里(たかなし えり)が、微笑みながら声をかける。彼女の手には小型のカメラがぶら下がっており、先ほどまで熱心に撮影をしていたのがわかる。肩口で切りそろえた髪が、一段と春らしい陽射しを浴びて柔らかく光っていた。
幹夫はアルバムを鞄に仕舞いながら頷いた。 「……ああ。人前で手記の一節を読むなんて、思ってもみなかったがね。おかげで、なんだか父が生きていた頃を思い出してしまったよ」 父の残した文字が大きくスクリーンに投影され、それを幹夫が声を上げて読むと、場内は水を打ったように静かになった。――「昭和三十三年、三月。雪解け水が山あいをくだり、畑を濡らす。まだ風は冷たく、夜は囲炉裏に薪(まき)をくべて暖をとる……」そんな走り書きが、数十年の時を経て今の人々の前に甦(よみがえ)ったのである。読み終えた瞬間、どこからともなく拍手が起こり、その拍手を浴びながら幹夫は不思議と胸が熱くなった。 「俺の父など、字を書くのも不得手(ふえて)だったが、あれでも懸命に日々を綴(つづ)っていたんだな、と改めて感心したよ」 こう言うと、絵里はにこりと笑って答えた。 「きっと、お父様はこの村の息遣いを残したかったんだと思います。だからこそ、こうして現代にまで伝わって、こうして私たちが読み返すことができるんでしょうね」
その言葉に、幹夫は小さく息をついた。そうかもしれない。あの粗末なノートに記された素朴な言葉の数々が、まさか今の世代にまで読み継がれるとは、父自身も想像しなかっただろう。けれど誰かの言葉を通じて、昔あった暮らしは呼び覚まされる。語り継がれる記憶には、不思議な力がある。災害や近代化で大きく変わった村の姿を、ほんの少しだけでも昔の通りに取り戻してくれる。幹夫は改めて、父の手記を読んでくれた人々に感謝の念を抱いた。
「よかったら、次の機会にもう少し詳しく撮影をさせてもらえませんか?」 話の途中、絵里が少し遠慮がちに言葉を継いだ。幹夫はすぐにその意図を察し、「父の手記のことか?」と問う。絵里はこくりと頷(うなず)く。 「手記だけでなく、幹夫さんが撮った写真やお話も、私の取材としてちゃんと記録に残しておきたいんです。この村を撮りに来たのも、実は単なる観光写真を集めるためじゃなくて……。昔と今が交錯する風景を通して、人間の営みや記憶を写したい、そう思っているんです」 その瞳には真剣な光が宿っていた。幹夫は一瞬ためらったものの、絵里の素直な思いを感じ取り、ゆっくり頷く。 「……わかったよ。わしで力になれることなら、協力しよう」
そう言い終わらぬうちに、絵里はほんの少しだけ口元をほころばせた。 「ありがとうございます。お礼と言っては何ですが……これ、お渡ししておきますね」 そう言って、小さな封筒を取り出した。中には先日撮影したばかりという数枚の写真がプリントされている。幹夫が集会所で説明をしている姿、父の手記を朗読している場面、そして幹夫が微かに笑みを湛(たた)えながら古い写真を指し示している横顔……いずれも自然な雰囲気で、本人が驚くほどに清々(すがすが)しい表情で写っていた。 「おお……俺も、まだこんな顔ができるのか」 幹夫は照れ隠しのように鼻の頭を掻(か)き、写真を見つめる。長らく自分の写真など撮ってもらったことはなかったからか、そこに映る自分の姿が少し別人のように思えた。 「姿勢が凛々(りり)しく写っているでしょう。やはり元教師だなって、そう思ったんです」 絵里の言葉に、幹夫はむずがゆい気持ちを感じながら、「そりゃ褒めすぎだ」と首を振った。けれど、教師時代の自分を知っている人が見れば、ああまだ昔の名残りがあるのかもしれない……そう思うと、ほんの少しだけ胸があたたかくなるのだった。
そうこうするうちに、周囲は撤収作業をほぼ終え、皆がどこかに散っていった。集会所に残るのは幹夫と渡辺、そして観光協会の若者二人程度である。受付用の机を畳んで運び出すと、畳の上に射す日差しがいよいよ傾き始めたのがわかる。渡辺が腰に手を当てて周囲を見回し、「よし、ひとまずお疲れさんだな」と溜め息まじりに言った。 「幹夫、この後どうする? 昼飯はまだだろう」 幹夫は腕時計を見て、もうとっくに昼の時刻を回っていることに気づいた。そう言えば空腹感がどこかにあった気がする。周囲を見ると、既におにぎりや弁当を食べている人もいるようだ。しばし考えていると、絵里が「私もご一緒していいですか?」と声をかけてきた。 「取材とか、いろいろ話をお聞きしたいこともあるので……。もし、ご迷惑でなければ」 渡辺はそれを聞いて「いいじゃないか。俺もついていこうかな」とにやりと笑う。幹夫は少し気恥ずかしさを感じつつも、「では、どこかで軽く食事でも」と提案した。集落内には食事処がいくつかあるが、そこは観光客向けのメニューが中心だ。どうせなら静かに話をするのに適した場所がいい。そう思った幹夫は、山沿いにひっそり営む茶屋を思い出した。そこならそれほど観光客も押し寄せず、地元の人間でもゆったりと過ごせる。 「みんなで、あそこの『木洩れ日(こもれび)茶屋』に行かんか? 山の小道を少し上った先だが……」 幹夫の言葉に、絵里は興味深そうに「そんな茶屋があるんですね」と瞳を輝かせ、渡辺は「おう、あそこは川魚の定食なんかも旨い」と嬉しそうに同意した。こうして、三人は少し早めの昼食へ向かうことになった。
茶屋は集会所から歩いて十五分ほどの場所にあった。山肌に沿うように小さな小径(こみち)が延びており、足元には苔むした石が点在している。春の陽が新芽を吹く木立から差し込み、周囲にはせせらぎの音がかすかに響く。幹夫は先に立って、石段をゆっくりと踏みしめながら歩く。 「いつ来ても静かでいいところだな……」 渡辺が呟(つぶや)き、絵里もまた、カメラを片手にきょろきょろと周囲を見回している。「まるで時間がゆっくり流れているみたいです」とその声は弾んでいた。
やがて木洩れ日がこぼれる斜面の奥に、小さな茅葺(かやぶ)きの建物が姿を現した。玄関先ののれんには「木洩れ日茶屋」と手書きの文字があり、淡い湯気が窓のすき間から立ちのぼっているのが見える。戸を開けると、女将(おかみ)が顔を出して、「まあ、いらっしゃい。今日はイベントだったのかい?」と柔和(にゅうわ)な笑みを浮かべた。幹夫と渡辺は常連らしく、「ええ、昼飯がまだでな」と軽い調子で応じる。絵里はぺこりと頭を下げ、「お邪魔します」と挨拶した。
店内はこぢんまりとしており、囲炉裏(いろり)のある小上がりに畳席が数席だけ。テーブルには昔ながらの漆(うるし)の器が並んでいる。時刻も外しているためか、客はほとんどいない。三人は囲炉裏の脇に腰を下ろし、女将から渡されたおしぼりで手を拭きながらほっと一息ついた。 「さて、何を頼むかな。俺はやっぱりお茶屋名物の山菜定食だな」 渡辺はメニューを見るまでもなく決めているようだ。絵里も「私もそれにします」と無邪気に笑う。幹夫も微笑んでうなずき、「じゃあ、俺も同じものを」と女将に告げた。
少し経ってから、笹(ささ)の葉で包んだおにぎりや天ぷら、川魚の塩焼きが並んだ定食が運ばれてくる。ふわりと立ちのぼる香りに、幹夫は思わず息をのんだ。まだ腹は空いていないと思っていたが、実際にこうして見せられると急に食欲が込み上げてくる。皆で「いただきます」と手を合わせ、箸を取った。衣の薄い天ぷらを一口かじれば、山菜のほろ苦さがほんのりと舌に広がり、熱いお茶がそれをやさしく流してくれる。絵里は満足そうに頬を緩め、「んー、美味しいですね。これ、山ウドですか? 苦味が絶妙です」と感激を表す。渡辺は嬉しそうに「そうとも、ここのは春先に掘りたてなんだ」と胸を張っている。
食事がひと段落し、囲炉裏の火で温められた店内の空気がほどよい倦怠(けんたい)感をもたらす頃、絵里が改まったように切り出した。 「幹夫さん、先ほどお話されていた災害のこと、もっと詳しくお聞きしてもいいでしょうか」 その声音(こわね)はどこか遠慮がちだった。幹夫は一瞬、箸を止めて彼女の目を見やる。過去の大惨事について語ることは、村の人にとって苦しい作業でもある。だが、絵里はそこを承知のうえで、それでも聞きたいと言っているのだろう。彼女の瞳には真摯(しんし)な意志が宿っており、幹夫もまたその熱意に打たれるように、ゆっくりと頷いた。 「いいよ。あまり気持ちのいい話じゃないが、隠すことでもないからな……。俺が十六のときだった。台風が来た夜、信じがたい量の土砂が一気に流れ下りてきたんだ。家々は呑(の)みこまれ、茅葺きの屋根も田畑も、あっという間に泥の中に沈んでしまった」 幹夫は箸を膝の上に置いて、深く息を吸う。あの日の記憶は今も鮮明に脳裏をよぎる。夜闇を裂くような土石流の轟音(ごうおん)、窓や屋根を砕く音、人々の叫び声……そこには人の力ではどうにもならない天災の恐ろしさがあった。 「俺は奇跡的に助かったが、身内の幾人かは……帰らなかった。周りもみんな家や田を失い、村を離れざるを得なくなった。残ったのは幾棟かの壊れた家と、荒れ果てた土地だけだったが……不思議とこの桜の木だけは傾きながらも生き延びていたよ」
絵里は黙って幹夫の言葉を聞き、渡辺もまた微かな溜息をついて頷いている。記録によれば、あの災害で茅葺き屋根四十軒以上が全壊し、多くの人命が失われた。渡辺の家も流され、一家総出で隣県へ移らざるを得なかった。やがて幾十年も経ち、ようやく再建が進められ、観光としての「いやしの里」が再現されたが、そこにかつての暮らしを完全に取り戻すことはできない。それでも残された者たちは、少しずつ集落を守り、復興に力を尽くしてきたのだ。 「今こうして昔話をするくらいには、年月が経ったんだな……」 幹夫は半ば独白するように呟(つぶや)き、囲炉裏の火に視線を移す。火の揺らめきは、幾度も季節を巡ってきた村の時間そのもののように感じられた。 「こういうことを話すのは、やはり辛(つら)いですか?」 絵里は控えめに問いかけたが、幹夫は首を横に振る。 「昔はそうだったな。若い頃は、あの夜の夢を何度も見てうなされた。だけど、歳を重ねるうちに、あの災害を語ることが俺の務めでもあると思うようになったんだ。事実を隠さずに伝え、警鐘とするのは大事なことだからな……」 さらに幹夫は穏やかな表情で続けた。 「それに、災害の夜だけがこの村の全てじゃない。昔はもっと、四季折々の楽しみや行事があった。美しい桜の花の時期、爽やかな夏の湖、紅葉の秋、雪深い冬……そうしたものも皆、一緒にあったんだよ。だからこそ、痛みも悲しみも乗り越えて、ここに戻りたいと思った人もいたわけさ」
渡辺は少し遠い目をしながら、「俺もその一人だな」と苦笑まじりに言った。 「定年まで外の町で働いてたが、結局帰ってきちまった。便利とは程遠いが、この風景の中で暮らすと心が落ち着くんだよ。良いときも悪いときも全部飲みこんでくれた、この土地は俺にとって故郷なんだ」 幹夫も頷く。人は誰しも、自分を生かしてくれた大地を忘れることはできない。災害という災難を経てもなお、ここは自分を育ててくれた土の匂いがする場所だった。
話を聞くうちに、絵里の眼差しはしだいに柔らかな熱を帯びていった。幹夫には、彼女がただの好奇心や職務上の義務として聞いているのではないのが伝わってくる。何か深い部分で、この土地の記憶を自分の中に取り込み、何らかの形で表現しようとしているように思えた。 「いつか、これらの話や写真をまとめて、『西湖・根場の記録』みたいな写真集を作ることができれば、と考えています。変わりゆく風景と、変わらないものを追いかけたいというか……」 茶碗を置いて絵里は小さく息をつき、その瞳を幹夫へ向けた。 「幹夫さんがもしよろしければ、もっといろいろなお話を聞かせてください。幹夫さんだけじゃなく、渡辺さんも含めて、昔を知る方々に。一枚でも多くの写真と、一言でも多くの言葉を、私は写真の中に刻み込みたいんです」
率直な情熱に打たれながら、幹夫は微笑んだ。教師だった頃、好奇心に満ちた生徒の目を見て、こうした喜びを感じたことがある。それは人が何かを学ぼうとするときの純粋な光だった。今またこの歳になって、それを目にする機会があるとは思わなかった。 「いいさ。話せる範囲でよければ、いくらでも話そう。俺は……こうして語り継ぐのも、残された役目のように思っているからな」 幹夫がそう言うと、絵里は嬉しそうに笑顔をほころばせ、渡辺もまた「ああ、俺も協力しよう」と相槌を打つ。囲炉裏の火が、ぱちりとはぜて小さな火の粉が舞い上がる。その一瞬の輝きが、まるで三人の言葉を祝福しているかのようだった。
やがて女将が運んできた香の物と蕎麦がきを皆で少しずつ分け合い、腹もほどよく満たされた。絵里が勘定を申し出ようとしたが、渡辺と幹夫が「若い者に払わせるわけにはいかん」と制して笑い合う。会計を済ませ、店を出ると、外にはまだ夕刻に至らぬ穏やかな陽射しが広がっていた。木洩れ日に照らされた小径を下りながら、絵里は何度もカメラを構え、辺りの風景を切り取っている。そんな彼女の姿に、幹夫は静かな好ましさを感じた。 「あれだけ夢中になれるものがあるというのは、いいものだな」 渡辺が茶化すように言うと、幹夫は「ほんとだな……」と相槌を打ち、小さく鼻で笑った。かつて自分も若い頃には、教師として生徒と向き合うことに熱くなれた日々があった。時が流れ、人生の大半を過ぎてしまった今、そうした情熱はどこかに置いてきてしまったのではないかと感じるときもある。けれどこうして若い人の瞳の輝きを目にすると、不思議と胸の奥に小さな灯がともるような気がした。 「もうじき、桜が咲く頃だな」 ふと渡辺が呟くように言い、森の先を仰ぐ。幹夫の頭に浮かんだのは、自宅の庭先に立つあの一本桜だった。昨日の朝、蕾が膨らむ気配を聞いた気がして、思わず立ち止まった自分。あの古木も今年の春にいくつ目の花をつけるのか。桜の寿命は長いものもあれば短いものもあるというが、あの木は、自分の父が植えたころから今日に至るまで生き延びている。あるいは、自分の余生をも見届けるつもりだろうか、と幹夫は思う。 「……桜が咲けば、絵里さんもいっそう忙しくなるな」 幹夫がそう言うと、前を歩く絵里が振り返り、にっこり笑って頷く。 「そうですね。きっと毎朝早起きして、湖畔や集落を駆け回ると思います。満開の桜と富士山の写真は、どうしても撮りたいんです」 その言葉には、花を待ちわびる人の素直な喜びがあった。満開を迎えた桜を自分の手で捉えたいという願い。幹夫には、その情熱がまぶしくも感じられたが、同時に心の奥に一抹(いちまつ)の寂しさも覚える。散りゆく花びらを見送るとき、人は儚(はかな)さを知る。だが、その儚さこそが桜の魅力を際立たせるのだということも、幹夫は長い人生の中で幾度となく感じてきた。 「ならばそのとき、うちの桜も見に来るといい。あれは古木でな……幾度となく災害も雪折れも乗り越えてきた。見応えがある」 幹夫の一言に、絵里は嬉しそうに瞳を輝かせた。 「ぜひ撮らせてください! どんな姿なのか、今から楽しみです」
そうして話すうちに、三人は「いやしの里」の近くまで戻ってきた。陽射しはすっかり温度を増し、湖畔の草木からは薄い蒸気のようなものが立ちのぼっている。空は青く澄み渡り、富士山の稜線(りょうせん)もくっきりと姿を見せていた。 「そろそろ俺はこの辺で失礼する。幹夫、お前さんも今日はよう動いたろ。あまり無理しないようにな」 渡辺は笑いながら手を振り、別れを告げる。幹夫も「おう、ありがとうな」と応じ、絵里に「この後はどうするんだ?」と訊ねた。絵里は「村の中をもう少し回って、写真を撮ろうと思います。それから宿の方に戻ります」と言い、軽く頭を下げる。 「幹夫さん、今日は本当にありがとうございました。また改めて取材をお願いするかもしれませんが、そのときはどうぞ、よろしくお願いします」 「分かった。いつでも来なさい」 幹夫はそう答え、その背を見送る。絵里が立ち去っていく姿は、小柄でありながらどこか背筋が伸び、カメラを大切そうに抱えるさまが印象的だった。彼女の後ろ姿が集落の角を曲がり消えていくと、幹夫はふうと息をついて、手にした鞄を持ち直す。
もう一度、遠くにそびえる富士の白雪を仰ぎ見た。晴れ渡った空の下で、その荘厳な峰はひっそりと澄んだ稜線を浮かび上がらせている。かつて幹夫が暗い悲しみの底に沈んだとき、この山の変わらぬ姿に救われるような思いを抱いたことがある。人の世は災害や変遷で姿を変えていくが、富士山は季節の折々で微妙に装いを変えながらも、根本的には揺るぎなくそこに在り続ける。まるで人の営みを黙して見守る大いなる存在のようであった。 「さあ、俺も帰るか……」 幹夫はぽつりと呟(つぶや)き、背筋を伸ばす。思えば今日は朝から催しの準備や語り部役を務め、さらに茶屋で話し込んだのだから、いつになく疲れを感じる。しかし心地よい疲れだった。誰かの役に立ち、昔のことを語り、人と笑い合う――そんな日常を、この先自分はあとどれほど享受できるのだろうか、とふと考える。 足元の道は緩やかな傾斜を描き、湖畔へと下っている。家路へ向かいながら、幹夫の頭には春の兆しとともに芽生えた、不思議な高揚感がわだかまっていた。十六で災害をくぐり抜け、幾度もの季節を重ね、妻を看取り、子を都会へ送り出し、自分の余生をこの根場に定めた。静かに終わりを待つだけだと思っていた日々が、こうしてまた新たな縁(えにし)を運んでくる。――若い写真家との出会い、古い記憶を紐解(ひもと)く機会、そして桜が満開となる日への期待……。 辺りを見れば、山の端に白い雲が浮かび、先ほどまでの晴天にわずかな翳(かげ)りをもたらしている。遠くには木々がざわめき、春の風がまだ少し冷たさを帯びて肌を撫(な)でていった。 「そう遠くないうちに、桜も咲くだろう……」 自宅の庭にある、あの古木の姿を思い浮かべながら、幹夫は歩を進める。今日の出来事を糧に、次に会うときにはまた何か語りたいことが増えているかもしれない。そう思うと、不思議なほど胸が弾んだ。
湖畔の道へ差し掛かる頃、風に乗って柔らかな空気が頬をかすめる。どこかで春先の蕾がほころぶ音が、かすかに聴こえたような気がした。幹夫は足を止めずに、その音を耳の奥で反芻する。災害を越え、幾重の季節を越え、それでもなお咲かんとする桜の木。その花びらが空に舞うとき、人は己の儚さと、同時に生の輝きをまざまざと感じる。花が咲くまであとどれほどの日数か、そのことを数えるのは本来気短(きみじか)な性に合わぬはずだったが、今はどこか待ち遠しくて仕方がない。 「あの子(こ)にも、見せてやらにゃな……」 幹夫は誰にともなく呟き、ゆっくりと息を吸い込む。湿った土と、微かな緑の息吹、そして湖面に立ちのぼる春の香りが、鼻腔(びこう)をくすぐった。 夕刻へ向かう空の下で、富士山はなおも厳かに、けれど優しい光を湛えていた。幹夫の足音は静かに、しかし確かに前を目指して進んでいく。季節はめぐり、根場の桜が花開く日も近い。幹夫はそれを思い、心のうちで小さく合掌するように、今日までの人生とこれからの時を見つめ直していた。
第四章
曇りがちの空の下、幹夫(みきお)は縁側に腰をおろし、庭先に立つ桜の古木をじっと見つめていた。灰色の雲が山あいを覆い、富士山の稜線(りょうせん)もかすんで見えない。昨日までは晴天が続いていたが、天気は移ろいやすい。気温はさほど低くはないが、風が含む湿気が微かな肌寒さをもたらしていた。 「もう咲きかけているな……」 独り言のように呟(つぶや)きながら、幹夫は桜の蕾(つぼみ)を目で追った。淡い紅(べに)が覗(のぞ)く蕾が、枝先ごとにまとまって膨(ふく)らみ、今にも一斉に開きそうな気配を漂わせている。朝のうちに小雨が降ったのか、蕾の先端には透明な滴(しずく)が溜(た)まっていた。それがわずかに揺れて、光を受けてきらりと瞬(またた)く。曇り空の下でも、それは春の兆(きざ)しを指し示すかのような輝きだった。
幹夫は縁側に置いていた急須(きゅうす)を手に取り、小皿に載せた茶葉を少量すくって湯を注ぐ。シュンシュンと煮立つわけではないが、囲炉裏(いろり)の炭火で温めた湯はそこそこ熱く、茶の香りが湯気とともに立ち上がった。 「あいつ……来るだろうか」 ふと思い浮かぶのは、あの若い写真家・高梨絵里(たかなし えり)のことだ。先日、「桜の咲く頃にはぜひ幹夫さんのお宅を訪ねたい」と言い残してから、まだ顔を見せていない。彼女が予告通りやって来るとすれば、ちょうどこの蕾が開きかける頃合いかもしれない。幹夫は少し気が急(せ)いたような気持ちになり、「いや、別にあの子を待っているわけじゃない」と自分に言い聞かせて、茶をすすった。けれど心のうちでは、桜が咲く姿をぜひとも彼女に見せてやりたいという思いがこぼれ落ちそうになっている。 「もう少し……天気が安定すれば、明日あたり一気に開くかもしれんな」 呟きを噛(か)みしめながら、幹夫はかすかに胸が弾むのを覚えた。
そんなとき、不意に家の中の電話が鳴った。今では固定電話をかけてくる人も少ないから、幹夫は少し驚き、慌てて縁側から上がり、受話器を取る。 「もしもし……石塚です」 受話器越しから聞こえてきたのは、息子の誠(まこと)の声だった。都内で銀行勤めをしている誠と連絡を取り合うのは、年に数度ほど。幹夫は思わず息を呑(の)んだが、とりあえず平静を装って声を返す。 「ああ、誠か。……どうした? 急に」 電話の向こうで、誠は少しためらうようにして言った。 「父さん、元気か? ……いや、大した用事じゃないけれど、そろそろ桜の時期だなと思ってな。そっちは咲き始めたか?」 幹夫はわずかに眉をひそめた。誠が桜の話題で電話をかけてくるなど珍しい。 「ま、もう少しで咲くところだ。今年は例年より早いのかもな。……で、それがどうした?」 口調がつい素っ気なくなる。父子のあいだには長い隔たりがあった。都会へ出たきり、誠は帰省することも少なく、幹夫は心のどこかで自分が彼を遠ざけたのではないかという後悔を抱きながらも、素直に言葉をかけられずにいた。 誠は少し息をのませたのち、言いにくそうに本題を切り出した。 「いや……実は、母さんの命日がもうすぐだろう? 妻(つま)と一緒に手を合わせたいと思ってさ。来週、少し休みが取れそうだから、そっちへ顔を出そうと思っている」 幹夫は受話器を握る手にかすかな力を込めた。そうだ、妻の芳枝(よしえ)が亡くなってから、もう十年になる。この時期になると、幹夫はいつも心が沈んでしまうのだが、誠が覚えていてくれたことは嬉しくもあり、同時にどこか落ち着かない気持ちにもなる。 「そうか……なら、好きにすればいい。わしはここにいる。桜が咲くころ、墓へも行こうと思っていたしな」 思わず突き放すような言い方になってしまう自分を、幹夫はもどかしく感じた。誠はやわらかな口調で「わかった。そっちへ行く日は、また連絡する」と告げると、そのまま電話は切れた。
受話器を置いたあと、幹夫は縁側へ戻る気も失せて、そのまま仏間(ぶつま)へ足を運んだ。ふすまを開けると、簡素な仏壇があり、妻の位牌(いはい)と遺影(いえい)が鎮座している。亡き妻が写真の中で微笑む姿を見つめると、幹夫の胸に痛いほどの後悔が渦巻く。誠とぎくしゃくしたまま時が過ぎ、妻も遠い世界へ旅立ってしまった。もしもっと違う言葉をかけられる父親だったなら、あるいは誠は都会へ行くことをためらい、家族の形も変わっていたかもしれない――そんな想いが、今さらながら幹夫の頭をよぎった。 「芳枝(よしえ)……誠が来ると言うんだ。お前も、待ってやってくれよ」 低くそう囁(ささや)き、幹夫はそっと手を合わせた。
それからしばらくして、幹夫は居間へ戻り、囲炉裏の前でぼんやりと腰を下ろした。湯飲みには先ほどの冷めかけた茶が残っている。啜(すす)ってみると、苦味が際立ち、少し舌に渋みが残った。 「あいつも、母さんの命日を忘れちゃいないんだな……」 呟きながら、幹夫はかすかに安堵する自分を自覚した。しかし同時に、息子とどう言葉を交わしてよいかわからないまま年月を費やしてきたことが、胸にわだかまって離れない。いまさら修復できるだろうか……そんな不安もないではない。だが、人が生きている限り可能性はあるのだと、どこかで信じたい気持ちもあった。 「誠が来る前に、庭の桜が咲けばいいんだが……」 それはあたかも、息子とのぎこちない距離を覆い隠すかのような願いだった。もしあの古木が見事に花開けば、その美しさに素直な感動が生まれ、父子の間の張り詰めた空気もほんの少しは和らぐかもしれない。幹夫はそう思い、気づけば庭のほうへ視線を移していた。
そのとき、表から人の気配がした。誰か来客らしい。ほとんど訪ねてくる者もいない家なので、幹夫は少なからず驚き、急いで立ち上がる。玄関の戸を開けると、そこに立っていたのは――写真家の高梨絵里だった。 「幹夫さん、急に押しかけてすみません」 彼女は申し訳なさそうに微笑(ほほえ)む。白いシャツに黒いジャケット、ジーンズ姿で、肩からはいつものカメラが下がっている。少し頬が紅潮(こうちょう)しているように見えるのは、急ぎ足で坂を上ってきたからかもしれない。 「いや、どうぞ。ちょうど縁側でお茶を飲んでいたところだ。……桜を見に来たのか?」 幹夫がそう言って家の中へ促(うなが)すと、絵里は遠慮がちに靴を脱いで上がり、微かに息を弾ませた。 「はい。昨日、根場の他の場所を見て回ったんですが、ちらほら咲き始めている枝もあって。もしや幹夫さんのお庭の桜も……と思ったんです。でもお留守だったらどうしようと思いながら来まして」 幹夫は「大丈夫だ。大抵は家にいるからな」と笑い、縁側へ案内した。絵里が外へ目を向けると、一本桜のまだ固いつぼみが群れなしているのが見える。 「あ……ずいぶん膨らんでいますね! もうすぐ咲きそうだ」 絵里は目を輝かせ、窓辺へ身を寄せる。昨日の雨の水気がまだ幹に残っているせいで、幹全体がしっとりとして艶(つや)を帯びていた。その足元には小さな若草が芽吹き、ほのかに春の匂いが漂っている。 「今はこんな具合だが……たぶん、晴れ間が続けば一気に咲く。天気次第だな」 幹夫はそう言って微笑む。絵里の瞳は桜の古木をじっと見つめ、今にもシャッターを押しそうだ。 「咲き始めの姿も撮っておきたいんです。花が満開になるだけが桜の魅力じゃないですから。こうして、蕾がほどけていく過程がたまらなく好きなんです」 その口調には熱意がこもっていた。幹夫は少し感心しながら、「たしかにな……」と相槌(あいづち)を打つ。若い頃は満開の華やかさばかりを追いかけていたかもしれないが、こうして歳を重ねると、花開く前の蕾の瑞々(みずみず)しさや、散りゆく花の儚(はかな)さにも美を感じるようになる。絵里の言葉には、そんな深い感受性が溶け込んでいるように思えた。
「もしよかったら、中からも撮らせてもらっていいですか? 縁側越しにこの桜を眺める構図がいいなと思って……」 絵里がカメラに手をかけながら問いかける。幹夫はもちろん快諾(かいだく)し、少しだけ縁側を整理した。絵里はそこで腕を構え、畳と縁側、その先に立ち上がる桜の古木をファインダーに収めようとする。 「いいですね……ここから見ると、幹夫さんの生活空間と桜が一続きになっているみたい」 シャッター音が静かに響き、幹夫は何とも言えない心地よい緊張を感じた。撮られているのは桜だが、その背後には暮らしがあり、そこに自分が生きている。何十年も共に歩んできた桜が、こうして写真の中に在り続けることで、幹夫の記憶もまた保存されるのだろう。 「今年の花、綺麗に咲いてくれるといいんだがな」 幹夫は独り言のように呟く。絵里がレンズを下ろし、少しはにかんだ笑みを浮かべた。 「きっと咲きますよ。こんなに丁寧に手入れをされているんですから。……あ、そうだ。もしよかったら、咲いたときにまた来てもいいでしょうか。今度は外から朝日の当たる姿を撮りたいんです」 幹夫は少し照れつつ、「ああ、いつでも来い」と頷く。そこには確かな温もりがあった。自分が長く守ってきた桜が、若い人の目に留まり、こうして写真に収められる。それだけで幹夫は、不思議な充足感を得ていた。
ふとそのとき、絵里が一枚の写真を幹夫に手渡した。紙焼きされたカラー写真で、先日のイベントの日、集会所で幹夫が父の手記を朗読している場面が切り取られている。幹夫の横顔と、その向こうに映るスクリーンには、昭和三十年代の村の様子が投影されていた。 「この間撮った中で、個人的に一番好きなカットなんです。幹夫さんがすごく真剣な目をされていて……何か、昔と今が溶け合っている感じがして」 絵里は少し照れくさそうにそう言う。幹夫は写真を見つめ、その情景を思い出した。確かにあの日は、人前で父の手記を読みながら、自分の心が過去へ戻っていくような不思議な感覚を覚えたのだ。 「ありがとうな。こうして見ると、わしもまだまだ捨てたもんじゃない顔をしているな」 幹夫は冗談めかして言い、写真をそっと撫(な)でる。そこには、懸命に言葉を紡ぎ出す自分の姿と、スクリーンに映る遠い日の古里が重なっていた。まるで時間の層(そう)が何枚も折り重なり、今ここに集約されているかのようだ。
「そうだ、もしよければこの写真を……幹夫さんに差し上げます。私もデータは残してますので、現物は記念に受け取ってもらえたら嬉しいです」 絵里が遠慮がちに申し出る。幹夫は「いや、これは……有難く頂くよ」と素直に感謝の意を伝え、写真を丁寧に机の上に置いた。 「実は、息子が近々帰ってくるんだ。母さんの命日に合わせてな……。一緒にこの写真を見ようと思う」 不意に口をついて出た言葉に、幹夫自身が少し戸惑った。息子のことを他人に話すのはどこか気恥ずかしいが、なぜだか絵里には自然と伝えてしまった。 「そうなんですね。……きっと、お母様もお喜びですね。ご家族でこの写真をご覧になれば、いろいろな思い出話ができるんじゃないでしょうか」 絵里は柔らかい表情で言う。その瞳にはどこかあたたかな光が宿っていた。人は写真を通じて過去と対話する。それが家族の絆(きずな)を取り戻すきっかけにもなるかもしれない、と絵里は思っているのかもしれなかった。 幹夫は小さく頷(うなず)き、桜の蕾を見やった。もし誠が来る頃に花が咲き誇っていれば、その景色を一緒に眺められるかもしれない。そこには、かつて幼い誠を連れて眺めた桜の思い出もある。おそらく誠はほとんど憶えていないだろうが、それでもあの頃の父子の時間が、ほんの一片(ひとひら)でもよみがえってくれるなら……。 「桜は……散るからこそ美しい、と言うが、咲きかけも良いものだな」 幹夫はそう言いながら、縁側をそっと指で叩(たた)く。曇り空の下でも、蕾の先端からはほのかな紅色が透けていて、まるで開花を待ちきれない子どものような可愛らしさがあった。絵里はファインダーを覗(のぞ)き、「そうですね……ほんの一瞬の緩やかな時間が、桜にはある気がします」とかすかに微笑む。
やがて、日が傾きはじめたころ、絵里は「今日は撮影したものを整理したいので、そろそろ失礼します」と腰を上げた。幹夫は出口まで見送り、「またいつでも来なさい」と声をかける。絵里はうなずいて外に出ると、坂道を下りかけたところで振り返った。 「幹夫さん、桜が咲きそうになったら、教えてくださいね。私もできるかぎり駆けつけたいので……」 その言葉に、幹夫は「わかった」とうなずき、小さく手を振る。背を向けてゆく絵里の姿を見送ると、彼女の存在がこの古い家や庭に一瞬だけ新鮮な空気をもたらしてくれたことを実感し、静かな感謝の念が込み上げた。
空を見上げると、雲がいくらか薄れて、淡い夕焼け色が西の端ににじみ始めている。もし明日が晴れれば、桜の蕾はさらにほころび、花びらが顔を覗かせるだろう。息子が来る日までには、きっと見事に開くだろうか――幹夫は胸のうちにそう願いつつ、縁側に戻って腰をおろした。まだ温もりの残る急須から、最後の一口の茶を啜(すす)る。苦みの中にほのかな甘みを感じながら、そっと目を閉じた。
耳を澄ませば、遠くの小川のせせらぎが聴こえ、風が庭先の木々を揺らす音が微かに響いてくる。そうしているうちに、畳の上に差し込む夕暮れの光がじんわりと朱色(あかねいろ)を帯び、幹夫の斜(はす)に伸びた影が桜の古木の根元に寄り添うように重なった。幹夫は静かに息をつき、遠い昔の父や妻の姿を思い浮かべる。人の世は絶えず変化してゆくが、この桜は幹夫の生の証(あかし)を、幹(みき)に刻んでいるかのようだった。
「咲けば……あいつも見直してくれるだろうか。誠も……母さんも……」 声にならないほどの小さな呟きが、薄い夕闇の中へ溶けていく。庭先では、もう静かに夜の帳(とばり)が降りはじめ、しかし桜の蕾には、いよいよ膨らみゆく生命の鼓動が宿っている。幹夫はそれを感じながら、手元にある写真――自分が朗読する姿が写った一枚――に目を落とした。 明日には、また何かが少しずつ変わるだろう。あの桜の枝先のように、一つひとつの蕾が内に秘めた花を解き放つように、幹夫の中にこそ、今まで閉じ込めていた何かが芽吹こうとしている。外は淡い夕闇に包まれつつあるが、幹夫の胸には、小さな光が灯ったままである。 明日が晴れるなら――その光に後押しされるように、幹夫はそっと唇を噛(か)み、願った。
最終章
あたりはすっかり暖(あたた)かくなり、朝の風にも優しい香(かお)りが混じり始めた。幹夫(みきお)の庭先に立つ桜の古木は、いよいよ満開の時を迎えようとしている。つい数日前まで固く閉じていた蕾(つぼみ)は、すでに薄紅(うすべに)の花びらを大きく開き、枝々を桃色の霞(かすみ)で覆いつくしていた。幹夫は縁側に腰掛け、まるで夢のような桜の風景をひとり眺めていた。
「ついに咲いたな……」 幹夫は静かに呟(つぶや)く。しんとした朝の空気が、満開の花の匂いを含んで肺の奥へと溶け込んだ。毎年この季節には胸騒ぎのようなものを覚えるが、今年は格別である。息子の誠(まこと)がまもなく来ると言っていた。十年来ほとんど顔を合わせてこなかった息子と、こうして同じ桜を見上げる日がもう一度訪れるなど、幹夫自身、想像していなかった。 「……母さん、あいつ、ちゃんと来るかな」 仏間(ぶつま)の妻・芳枝(よしえ)の遺影(いえい)に向かってそう囁(ささや)いてから、幹夫は縁側へ戻ってきたところだ。芳枝の命日はあと数日に迫り、幹夫は今日にも誠がやってくると思い、落ち着かぬ気持ちを抑えている。桜の花びらが時折ひらりと舞い落ちては、畳の縁(へり)をかすめて足元へと散り、早くも儚(はかな)げな美しさを湛(たた)えていた。
朝のうちは雲一つない青空が広がっていたが、やがて少しずつ霞がかり始め、富士山の稜線(りょうせん)も霞の向こうへ溶けて見えづらくなった。そんな淡い空の下に桜の色彩(いろどり)がかえって鮮やかに映え、幹夫はしばし見惚(みと)れる。すると、表のほうから車のエンジン音が聞こえた。アスファルトを踏みしめる靴の音が近づき、間もなく玄関の戸が控えめに叩(たた)かれる。幹夫は胸を高鳴らせながら、そっと立ち上がった。
「父さん、誠だ。……遅くなって悪い」 玄関を開けると、誠の姿があった。その背後には誠の妻らしき女性も見える。幹夫は言葉を探し、戸惑いを誤魔化(ごまか)すように微かに咳払いをした。 「……よく来たな。大したもてなしはないが、上がれ」 それだけ言い、ぎこちなく身体を横へずらす。誠の妻がはにかみながら頭を下げるのを見て、幹夫もまた「わしは幹夫という。遠路ご苦労だったな」と挨拶した。嫁の名は亜紀(あき)と言うのだろうか、確か誠の手紙にそう書いてあった気がする。彼女は礼儀正しく会釈(えしゃく)し、「お父様、はじめまして」と柔らかな声で微笑(ほほえ)んだ。
幹夫にとっては初対面も同然の嫁だったが、不思議と悪い印象は持たなかった。どこか控えめな雰囲気に、東京育ちの息子にはない素朴さが垣間見える。それに、苦手意識しか抱いていなかった誠の横で、うまく緩衝(かんしょう)の役をしてくれるのかもしれない。 縁側へ案内すると、庭いっぱいの桜の花が三人を出迎えた。亜紀は「わあ……綺麗」と小さく声を上げ、誠も思わず息をのむ。 「昔、父さんと一緒に見た桜とは、ずいぶん印象が違うな」 誠がぽつりと呟く。その目には過去への追憶(ついおく)の色がわずかに宿っている。幹夫は桜の木をそっと見上げ、「あれから相当の歳月が流れた」と言葉少なに答えた。災害で傾きかけたこの古木は、今もこうして尚(なお)命を繋いできた。誠が幼かった頃には、まだ若々しい姿で枝を広げていたはずだが、今では老木の風格を漂わせている。それでも、その凛(りん)と咲く花には衰えを感じさせないほどの圧倒的な美があった。
「ほう、満開じゃないか」 と、聞き慣れた声がした。裏手のほうから渡辺(わたなべ)修がひょいと顔を出したのだ。手にはコンビニの袋を提げている。 「この間、幹夫に頼まれてた買い物を届けに来たんだが、どうやら賑やかだな。ああ、お前が誠くんか。……久しぶりだな。昔はちょくちょく顔見せてたが、もう大人になって!」 渡辺は懐かしそうに誠の顔をのぞき込み、にこにこと笑う。誠は当惑しながらも、「渡辺さん……いえ、おじさんですね」と頭を下げた。
縁側に腰を下ろしたまま、幹夫は桜の枝先を見やりながら、「おまえもお茶でも飲んでいけ」と渡辺を促す。誠夫妻は急に現れた渡辺という男に少し驚いているが、渡辺の人懐こい笑顔と飄々(ひょうひょう)とした口調に、すぐ打ち解けた様子を見せた。幹夫は内心ほっとする。この雰囲気なら、誠と話をするのにもさほど堅苦しい空気は生まれないかもしれない。
そうしてしばらく桜を眺めながら雑談を交わしていると、またしても屋敷の表で物音がする。今度は絵里(えり)の声が「すみません、こんにちは」と戸の向こうから聴こえた。渡辺が「ああ、あの写真家の子だな」とひと言漏らす。幹夫は「ああ、入って来なさい」と答え、内心で「今日はやけに人が集まるな」と不思議な思いに駆られた。 戸を開け、絵里が姿を見せると、彼女は「遅かったでしょうか、桜が満開になったと伺って……」と小走りで縁側へやってきた。既に人がいるのを見て、少し驚いたようにまばたきする。 「おや、賑やかでいいじゃないか。絵里ちゃんも座っていきなさいな」 渡辺が笑い、絵里は気恥ずかしそうに会釈する。幹夫はあえて改まった紹介はせず、「こいつは、村の写真を撮ってるんだ」とだけ息子夫婦に伝えた。絵里もそれを聞いて「どうもはじめまして。高梨と申します」と礼儀正しく挨拶する。亜紀や誠も感じよく応じ、縁側は急に人の声で華やぐ。 桜の花の下、老いた幹夫、幼い頃の幹夫を知る渡辺、都会から訪れた誠夫妻、そして若い写真家の絵里。まったく異なる世界に生きていた人々が、一瞬同じ空間に集まった。まるで桜が呼び寄せた縁(えにし)のように思えて、幹夫は静かに胸を揺さぶられる。
少し落ち着くと、渡辺が即席の花見でもしようじゃないかと提案した。といっても、幹夫の家に大した用意はない。渡辺が買ってきたという総菜や、缶ビール、炭火で温めるための軽い干物(ひもの)くらいである。それでも縁側に並べられた食べ物と飲み物を、みなが自然に手に取り、和気あいあいと桜を見上げながら口にする。 誠は最初こそぎこちない様子だったが、絵里の撮る写真の話や、渡辺が語る昔話に耳を傾けるうちに、少しずつ表情が解(ほぐ)れていった。やがて、父とどう会話をすればよいのか緊張していた気配もほとんど失せ、隣で微笑む亜紀も肩の力を抜いて辺りを見回す。 「ほんとに綺麗ですね、この桜……。よくこれだけ大きく育ったものだわ」 亜紀が息を呑(の)むようにして花を仰ぐ。その言葉に幹夫は、ほのかな誇りを感じながら「父と一緒に植えたんだ。もう何十年も昔のことだよ」と静かに答えた。そうすると、誠が不意にちらりと幹夫のほうを見て、「子どもの頃に花見をしたこと、なんとなく思い出すな……」と小さく呟く。 「母さんが弁当を作ってくれて、縁側に敷いた座布団に座って……」 その言葉に、幹夫は少し胸が詰まった。誠が覚えてくれていたことが嬉しかったのだ。自分たち三人で桜の下に座り、芳枝が手製のおにぎりを渡してくれた光景が脳裏に鮮明に浮かぶ。かつてあった何気ない幸せの一場面が、時を経てこうして呼び戻されるとは思わなかった。 「……おまえがそんなことを覚えてるなんて、意外だな」 幹夫は声を震わせまいと注意しながら、笑みを作る。誠は目を伏せて、苦笑するように首を振った。 「大した記憶じゃないけれど……時々、夢に見ることがあってさ。そこに父さんと母さんがいるんだ。でも気恥ずかしくて、今まであまり言い出せなかった」
そのやりとりを聞いていた絵里は、そっとカメラを持ち上げた。遠慮がちにレンズを向け、「少し……写真を撮ってもいいですか?」と訊く。幹夫は最初戸惑ったが、亜紀や渡辺も「いいじゃないか」と背中を押すので、苦笑しながら頷(うなず)いた。誠と幹夫が向かい合う様子、満開の花を背にして幹夫が微笑む姿がシャッター音とともに切り取られる。 ――桜吹雪がほんの少しだけ、花びらの一枚を宙に舞わせた。その瞬間、絵里は逃さぬように連写の音を響かせる。ファインダー越しに見る父子の姿が、彼女の心に深く刻み込まれているのが伝わってくるようだった。
やがて、渡辺が「そうだ、皆で墓参りに行かんのか?」と口にした。誠ははっとして、「そうだね、本来の目的は母さんの命日……」と幹夫の顔を見る。幹夫は静かに頷き、「ああ、行こう。墓はすぐ近くだし、これほど桜が咲き誇っているうちに行くのがいいだろう。母さんも待っている」と声を落とした。 渡辺と絵里は遠慮して残ると言うので、結局、幹夫と誠、亜紀の三人だけが墓へ向かうことになった。背に満開の古木を残して歩き出すとき、幹夫はふと桜の木にそっと手を当てる。まるで「ちょっと行ってくるよ」と言うような気持ちで。枝からは、かすかに春の風の音が聞こえた。 墓地は湖畔のほうへ少し下った場所にあり、幹夫の妻・芳枝の墓石が並ぶ一画は、雑木に囲まれてひっそりと静まり返っていた。灰色の石に、父と母の名が刻まれ、その隣には幹夫自身の余白が用意されている。誠は小さく息を呑み、やや緊張した面持ちで墓前に正座すると、亜紀が持ってきた花を添えて手を合わせる。幹夫も並んで手を合わせ、心のなかで「すまなかったな」と亡き妻に語りかける。もっと穏やかに、誠と向き合える父親であれば、彼女も安心して旅立てただろうか。そんな後悔を抱えたまま、十年が経った。
しばらく沈黙したあと、誠はそっと口を開く。 「母さん、俺は東京で銀行員をしてます。正直、仕事が大変で家を顧みる余裕もなかったけれど……これからは、もう少し父さんのことを気にかけてあげたいと思う。あなたが生きていたら、きっとそう言うんじゃないかって……亜紀とも相談してるんだ」 自嘲気味に笑う誠の表情を、幹夫はちらりと見つめた。すると、その言葉を聞いて胸の奥に堆積(たいせき)していたやるせなさが少しずつ融(と)けていくような感覚を覚える。父と子という壁はすぐには壊せないが、こうして墓前で語り合うことで、亡き妻が二人をつないでくれるかもしれない。 幹夫は喉の奥が詰まるのを感じながら、「そうか……」とだけ返した。簡単な言葉でしか応じられないが、それが精一杯だった。少し時間を置き、「俺も、そろそろ気持ちを整理しようと思っている。母さんも安心して見ていてくれたらいいがな……」と声を落とす。
三人はしばらく墓前に佇(たたず)んだまま、それぞれの思いを胸に抱いていた。すると、風の具合が変わったのか、遠くから淡い桜吹雪のようなものが視界にかすんで見えた。いや、ここからは古木の花までは飛んでこない。けれど、桜が満開であることを告げる春の匂いははっきりと漂ってくる。幹夫はそっと目を細め、妻の墓に向けて心の中で「ありがとう」と呟く。家へ帰ったら、あの桜の下で改めて誠と腰を据えて話し合おう。そんな小さな決意が、幹夫の胸に芽生えていた。
再び屋敷へ戻った頃、日射しは少し傾き始めていたが、桜の花はいっそう盛んに咲き誇っている。縁側では渡辺が絵里に盛んに昔の話をしているのが見え、絵里はカメラを手のひらにのせながら熱心に耳を傾けていた。 「おかえり。墓参りは済んだか?」 渡辺は安心したような笑みを浮かべ、幹夫を迎える。誠は小声で「ああ」と答えたものの、その目は幹夫の表情をうかがうようにしていた。亜紀が「ゆっくり休んでくださいね」と幹夫に声をかけると、絵里が「あとで、皆さんで桜の下のお写真を撮りましょうよ」と控えめに提案する。 幹夫はほんの少し恥ずかしそうに首を振りかけたが、渡辺が「せっかくの機会だ。老いも若きも、みんな揃って撮ろうじゃないか」と賛成し、誠と亜紀も賛意を示した。こうして、桜の木の前に全員が立ち並び、絵里が三脚をセットしてタイマーを仕掛ける。 「じゃあ、撮りますよ……」 小さくカウントダウンをして、パシャリと音が響く。一枚、そしてもう一枚。幹夫の隣には誠と亜紀、そして少し離れて渡辺、手前に絵里も駆け込んで腰を下ろす。満開の桜を背に、妙にちぐはぐな組み合わせの人々の笑顔が、一瞬だけ同じ画面に焼きつけられた。 「どうです? うまく撮れましたか?」 誠が茶化すように訊ね、絵里はモニターを覗(のぞ)き込みながら、「皆さん、ばっちりですね」と微笑む。その言葉にホッとするように、幹夫の顔にも自然と笑みがこぼれた。 見上げれば、花びらが風に乗って幾枚か舞い落ちる。淡い桃色が空に溶け、地に還(かえ)る。まるで長い年月を経た記憶がひらひらとこぼれ落ち、再び新たな土壌(どじょう)を育むかのようだった。
夕方近くになると、渡辺は用事があると言って「皆、またな」と手を振って帰っていき、絵里も「写真を整理したいので、今日はお先に失礼します」と早めに宿へ戻った。残ったのは幹夫と誠、亜紀の三人。幹夫は縁側に腰を下ろし、静かに息をつく。 「まあ、あれだ……落ち着かんだろう。狭い家だが、一応客間(きゃくま)もある。今日はそこに泊まっていけ。母さんの命日まで、せっかくだからゆっくりしていけ……」 どこか不器用な言い方だったが、幹夫なりの歓迎の気持ちだった。誠は驚いたように目を瞬(しばた)たかせ、「ああ……ありがとう」と慌てるように返事をする。その傍(かたわ)らで亜紀は満面の笑みを湛(たた)え、幹夫に「お父様、ありがとうございます」と深々と頭を下げた。 幹夫は桜の木を振り返り、しんしんと暮れゆく空の中で花の色がほんのり霞むさまを眺める。陽が落ちれば、夜の帳(とばり)のもと、この花びらたちは月影を受けて幽(かす)かな輝きを放つのだろう。昔、芳枝と連れ立って夜桜を見たとき、手を繋(つな)いだままのぬくもりを今も思い出す。 「……そろそろ、俺も年だ。これからどうなるかわからんが、ま、ぼちぼちやっていこうか……」 縁側でひとりごちるように呟き、幹夫は心の奥に宿った温かな何かをかみしめた。亜紀は奥の客間へ荷物を運び、誠もそれを手伝いにいったようだ。ふたりが戻ってくれば、夕餉(ゆうげ)の支度でもしよう。多少粗末でも、この桜の下で食べるなら、それだけで一つの家族の姿になるかもしれない。 そのとき、一枚の花びらが宙を舞い、幹夫の膝の上へすとんと落ちた。幹夫はそっと指先でそれを摘(つま)み上げ、しばらく眺めてから、縁側の外へ吹き流すように手放す。ヒラリと舞って夕空に溶けていく花びらは、一瞬きらめいて消えていった。 いつかは人も、花も散っていく。だが、その軌跡は決して無になるわけではない。地面に還り、次の何かを育む一片(ひとひら)の養分となるように。桜の木がそうやって再生を繰り返してきたように、幹夫自身の生や思いも、次の世代へと確かに受け継がれていく。誠とのわだかまりも、今日この場で完全に溶けたわけではないが、桜の花吹雪のように少しずつ少しずつほどけ、やがて薄紅の季節が過ぎ去るころには、互いの胸に柔らかな記憶として芽吹くかもしれない。
幹夫はふと、昼間の写真撮影のことを思い出す。絵里のカメラは、いまこの瞬間の景色を、そして人と人との絆の一端を確かに焼きつけたはずだ。桜はまた来年も咲く。そのときこの木の下で、幹夫がどうなっているのかは誰にもわからない。けれど、今年の桜が満開に開いたこの日を、彼らは写真と記憶の中に永久(とわ)に刻むだろう。それが、島崎藤村の言う「過去と未来をつなぐもの」として、生き続けるのかもしれない。 「……おい、父さん、亜紀が湯を沸かし始めたぞ。手伝ってやらなくていいのか?」 背後から誠の遠慮がちな声がかかった。幹夫は振り返り、少し気恥ずかしいように笑う。 「そうだな。じゃあ、久しぶりにわしも台所に立ってみるか。あの頃は芳枝がさっさと仕切っていたが……今はもう、わしがやるしかないからな」 そう言って立ち上がると、膝に一瞬痛みが走ったが、なんとか耐えて台所へ向かう。黄昏れの光が縁側を染め、背後の桜をうっすらと燃えるような橙色に変えていた。 満開の花は、まるでささやかな祝福のように、幹夫たちを見守り続けている。雲は薄れ、夕刻の空に淡い冴(さ)え色が広がり始めた。あの富士の稜線もいずれ顔をのぞかせ、夜になると月光と星明かりの下で、桜は幻のように浮かび上がるだろう。その美を見届けるために、幹夫はもう少し生きてみようと思った。
台所からは亜紀の声がし、誠がぎこちなく返事をしているのが聞こえる。さまざまな音と気配が、幹夫の家に久しぶりの家庭の温もりをもたらしていた。外では、やわらかな春の風が桜吹雪をほんの少しだけ巻き起こし、花びらをゆっくりと宙に遊ばせている。花は散る。その儚(はかな)さを嘆くのではなく、その一瞬にこそ宿る光を見つめること。島崎藤村の詩の一節のように、生と死のあわいにこそ人生の美しさがあるのだと、幹夫は改めて感じていた。
人の営みはいつか終わりを迎える。だが、また新しい世代が歩みを進める。幹夫が桜の木と共に紡いできた記憶が、息子へ、写真へ、そして多くの人の心へと受け継がれていくなら、それもまた幸せなことだろう。幹夫は台所の戸口に立ち、夕陽の差しこむ居間を見渡しながら、そっと目を細めた。満開の桜を背景に、微かな湯気が立つ囲炉裏の火が揺らめき、誠と亜紀が手を動かしている――そんな何気ない光景に、懐かしい安心感がじんわりと広がっていくのを覚える。
やがて日は沈み、夜の帳が降りるとともに、桜は闇の中に漂う淡い光の花へと姿を変える。静寂が訪れても、幹夫の胸には、小さな灯(ともしび)がともり続けるだろう。その灯は、いつか自分が散るときまで消えることはない。桜とともに生き、そして散っていく自分の人生。そこに、いまこのとき確かに誰かと分かち合う幸せがある。この思いを胸に、幹夫はそっと唇を結んでいた。 風に舞う桜の花びらが、ひらりひらりと宵闇に溶けていく。それは長い歳月を超えて流れてきた記憶のかけら。だけれど、儚い輝きの一片(ひとひら)は、確かな明日を育てる種子(たね)にもなる。幹夫の瞼(まぶた)の裏には、かつて父と植えたあの日の桜が、今の満開の姿と重なって光っていた。





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