潮のまぶた
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

――幹夫青年、閉めることで守る話――
清水の港の朝は、塩の匂いが先に来る。 目が覚めるより先に、鼻の奥が「海だ」と言う。
幹夫(みきお)はその匂いを、昔から少し怖がっていた。 海の匂いは、やさしいのに乱暴だ。 包むように近づいてきて、ふいに胸の奥まで入り込んで、こちらの都合を待たずに「思い出せ」と命令してくる。
今日は、港沿いの水路にある防潮扉の点検。 点検表の文字はいつもと変わらない。
――動作確認。 ――油脂注入。 ――腐食・ボルト緩み。 ――閉鎖手順、掲示確認。
正しい言葉ばかりだ。 正しい言葉は、幹夫の手を動かしてくれる。 けれど同時に、胸の奥の柔らかいところを置き去りにすることがある。
港の風は冷たく、でも乾ききっていない。 水面が光を砕き、砕いた光が靴の先へ跳ねてくる。 遠くの防波堤の向こうに富士山がうっすら浮かんでいて、今日はその輪郭が、ほんの少しだけ優しい。
幹夫は防潮扉の前に立った。 金属の扉は、潮の粒をまとって鈍く光っている。 触れると、指先に冷たさがまとわりついた。
――閉める、っていう行為は。 幹夫はよく、それだけで胸がきゅっと縮む。
誰かを閉め出す感じがしてしまうからだ。 扉を閉める、窓を閉める、会話を閉める、関係を閉める。 閉めることは、たいてい「拒む」と同じ音で聞こえてしまう。 幹夫の耳の中では、昔から。
でもこの扉は、「閉める」ことで命を守る。 潮が上がったとき、風が荒れたとき、海が怒ったとき。 正しいタイミングで閉めることが、やさしさになる。
分かっている。 分かっているのに、胸が固くなる。 幹夫は呼吸をひとつ整えて、点検のレバーに手をかけた。
1 「海の鎖」
動作確認のために扉を少し動かしたとき、背後で小さな車輪の音がした。 ぎい、ぎい、と錆びた音。 振り向くと、荷台のついた手押し車を押す老人がいた。 網の匂いがする。潮に濡れた布の匂い。魚の匂い。
老人は幹夫を見るなり、眉を寄せた。 その眉の寄せ方が、もう長い時間の苛立ちでできている寄せ方だった。
「また閉めるんか」
幹夫の喉が乾いた。 こういう一言に、反射的に「すみません」と言いそうになる。 自分のせいじゃないのに、謝る癖。 謝れば場が丸くなる、と身体が覚えてしまっている癖。
でも今日は、やめた。 謝ってしまうと、相手に「許す役」を渡してしまう。 許す役は、疲れる。 相手はもう十分疲れている顔をしている。
幹夫は、できるだけ静かに言った。 「点検です。開閉の確認だけ、少し」
老人は鼻で笑った。 「点検、点検。海に鎖つける点検か」
“海に鎖”。 幹夫の胸の奥が、ちくりとした。 言葉の鋭さじゃない。 老人が本当にそう感じていることが、刺さった。
老人は手押し車の取っ手を握り直した。 節の太い手。 その手が、扉を見る。 扉ではなく、扉が立っている“場所”を見ている。 昔、ここに何があったかを見ているような目だった。
「昔はな、潮が上がっても、逃げ道があった。水路の横、すいっと抜けて港へ出られた。 いまは扉だ、柵だ、看板だ。 海へ行くのに、許可がいるみたいじゃないか」
幹夫は返す言葉が見つからなかった。 制度や安全の話をすれば正しい。 でも老人が言っているのは、正しさの話ではない。 “息の仕方”の話だ。 自分の暮らしの呼吸が、扉に合わせて窮屈になった、という話。
幹夫は、点検表の紙をぎゅっと握りそうになって、やめた。 代わりに、ただ聞くための声を出した。 「……ここ、よく通るんですか」
老人は少しだけ驚いた顔をして、すぐにまた硬い顔に戻った。 「通るに決まっとる。わしの道だ」
“わしの道”。 その言い方が、幹夫の胸の奥を静かに揺らした。 道は、ただの地面ではない。 その人の毎日の線だ。 線を途中で閉じられると、人は息が詰まる。
幹夫は頷いた。 「……点検、急ぎます。終わったら、通れます」
老人は何も言わず、手押し車を止めたまま海を見ている。 幹夫はその背中に、怒りというより“諦めきれない何か”を見た。
レバーを戻しながら、幹夫は思った。 ――この人が怒っているのは、扉じゃない。 ――扉ができる前にあった時間を、急に失ったことだ。 そして、その失った時間が戻らないことを、もう何度も突きつけられてきたことだ。
2 潮が作る「まつげ」
点検を終え、幹夫が工具を片づけていると、老人がふいに言った。 「お前さん、若いのに変な顔しとるな」
幹夫は思わず目を瞬いた。 変な顔。 たぶんそれは、“正しさ”と“やさしさ”の間で迷っている顔だ。 幹夫はその顔を、昔からしている。
「……すみません」 出てしまった。 幹夫は内心で自分に小さく舌打ちした。 また謝っている。
老人は溜息みたいに言った。 「謝るな。謝るなら海に謝れ」
その言い方に、幹夫は少しだけ救われた。 人に謝るより、海に謝るほうがまだ息ができる。 海は、許す役を押し付けてこないから。
老人は手押し車を少し動かし、扉の脇の細道へ向かおうとして、足を止めた。 「……閉めるなら閉めるで、閉める前に知らせろ。 こっちは道の取り方がある」
幹夫は頷いた。 「掲示、見直します。時間も……分かりやすく」
老人は小さく鼻を鳴らした。 「分かりやすく、な」 それだけ言って行ってしまった。
幹夫はその背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。 怒鳴られたほうが楽だった。 こうやって「頼む」と言われるほうが、ずっと重い。 重いのに、嬉しい。 重さの中に、信頼が少し混じるから。
その夜、風が強くなった。 海が白く泡立ち、街灯の光が水面でちぎれる。 点検の報告を終えて帰ろうとした幹夫は、なぜだかもう一度、防潮扉のところへ戻った。
――今日は、ここで終わっていいのか。 胸の中のざわざわが、帰宅の方向へ幹夫を向かせなかった。
扉の前に立つと、金属の縁に塩が結晶していた。 細い白い線がいくつも並んで、まるで“まつげ”みたいだった。 潮のまつげ。 夜風に震える、白いまつげ。
幹夫はその白い線に指を近づけた。 触れる前に、胸の奥へ、ひどく静かな声が届いた。
「閉めるのは、眠るため」
幹夫は息を止めた。 声は耳から来ない。 胸の底から湧いてくるように、でも外から触れてくるように。
結晶の白い線の間から、小さな影が動いた。 白い粒の集まりが、形を持つ。 それは“塩”の子どもみたいだった。 透明に近い白。丸い頭。小さな手。 海の匂いをまとっている。
塩の子は、扉の縁にちょこんと座り、足をぶらぶらさせた。 そして言った。
「扉はね、海を閉めるんじゃない。 海と陸の間に、まぶたを作るの」
幹夫は喉の奥が熱くなるのを感じた。 まぶた。 閉じるためのもの、というより、守るためのもの。
塩の子は、風に揺れる結晶を指さした。 「まぶたを閉じると、目が守られる。 閉じるから、開ける日が来る。 開けっぱなしは、乾く。 乾くと、痛い」
幹夫は思わず自分の胸に手を当てた。 乾くと痛い。 それはまるで、自分のことだった。 開けっぱなしで、全部受けようとして、いつのまにか内側が乾いて痛くなる。 それでも閉じるのが怖くて、また開けっぱなしにしてしまう。
「……閉じるの、怖いんです」 幹夫は小さく言った。 塩の子は首を傾げた。
「閉じるのは、拒むためじゃないよ。 “守る形”を選ぶため」
言い終えると、塩の子はふわっと崩れ、ただの結晶に戻ってしまった。 夜風が吹き抜け、まつげの白い線がさらさらと震える。 幹夫は、その震えが「泣く」ではなく「呼吸」に見えた。
3 閉めるとき、言葉を添える
翌日、幹夫は担当部署に相談し、掲示の改善と、閉鎖予定の見える化を提案した。 紙と文字の調整。 正しい手順の中に、やさしい余白を作る作業だ。
“いつ”“どの扉が”“どれくらいの時間”閉まるのか。 迂回路はどこか。 高齢者や荷物がある人が困らない導線はあるか。 地図を分かりやすくする。 そして、掲示にこう書き足した。
「海を守るための閉鎖です」 「あなたの道を守るための閉鎖です」
書いたあと、幹夫は少し怖くなった。 言葉が大きすぎる気がしたからだ。 でも、塩の子の「まぶた」を思い出した。 閉じることは、守ること。 守ることを、ちゃんと言っていい。 言わないと、ただの拒絶に見えてしまう。
夕方、あの老人がまた手押し車を押してきた。 幹夫は遠くからでも分かるように、先に頭を下げた。 老人は扉の横の掲示を見て、少しだけ眉の寄り方を変えた。 完全に緩んだわけじゃない。 でも、硬さがほんの少しだけ薄い。
「……字、増えたな」 「はい。閉めるとき、分かるように」
老人は鼻を鳴らして、けれど悪態ではない声で言った。 「分かるほうが、まだ腹が立たん」
幹夫は、その言葉に胸の奥がふっと緩んだ。 分かるほうが、腹が立たない。 それは、人間関係でも同じだ。 黙って閉じられると、人は置き去りになる。 閉じるなら、閉じる理由を、閉じる気持ちを、少しだけ添える。
老人は扉を一度見上げ、ぽつりと言った。 「わしの嫁さんな、昔の台風で流された」
幹夫の胸が、静かに沈んだ。 老人の怒りの根っこが、ようやく形を持って見えた。
老人は続けた。「閉めるのが遅かったんだ。あの日は。 だから、扉を見ると腹が立つ。 腹が立つくせに、見ないと落ち着かん」
幹夫は返事ができなかった。 慰めは嘘になる。 謝罪は軽すぎる。 でも沈黙で終わらせたくない。
幹夫は、息をひとつ吸って言った。 「……遅れた分、いまは遅れたくないです」
老人は、しばらく何も言わなかった。 潮の匂いと、網の匂いと、風の音だけが間に流れた。 それから、老人は手押し車の取っ手を握り直して言った。
「……じゃあ、遅れるな」
その言葉は厳しいのに、幹夫にはなぜだか、握手みたいに聞こえた。 期待ではなく、託す声。 幹夫は小さく頷いた。 「はい」
4 幹夫の胸の「まぶた」
帰り道、幹夫は姉からの連絡を思い出した。 実家の処分の話。 自分は「全部じゃなくていい」と言えた。 でもまだ言えていないことがある。 ――今は少し、距離がほしい。 ――急かされると、呼吸が浅くなる。
閉じたい。 でも閉じるのが怖い。 閉じたら、姉に嫌われる気がする。 拒絶だと思われる気がする。
幹夫は港の風を吸い込んだ。 塩が喉に触れる。 痛い。 でも、目を守るためのまぶたの話を思い出した。
幹夫は携帯を出して、姉へ短いメッセージを打った。 ゆっくり、息をしながら。
――「決めるのは逃げじゃなくて、守りたいから。 今週は仕事が詰まってて呼吸が浅い。 急ぎすぎないで、来週一緒に話したい」
送信すると、胸の奥が少しだけ楽になった。 閉めたのではなく、まぶたを一瞬下ろした感じ。 痛いけど、守られた感じ。
夜、扉のある水路のほうから風が来た。 潮のまつげが、また震えている気がした。 幹夫はその震えを、もう「怒り」とは呼ばなかった。 呼吸だ。 守るための呼吸。
幹夫は、ほんの少しだけ笑った。 閉じることは、拒むことじゃない。 守る形を選ぶこと。 そして守る形を選んだなら、いつかまた、ちゃんと開けられる。
港の灯りが、塩の粒をきらきら光らせていた。 幹夫はその光を見ながら、今日の自分の胸の奥にも、薄いまぶたができた気がした。 薄いまぶた。 でも確かに、息ができるまぶた。







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