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潮の匂いがする午後

潮の匂いがする午後、幹夫は港の手前で立ち止まった。牧之原の茶畑にいるときの匂いは、葉の青さと土の湿り気が混ざった、どこか“内側”の匂いだ。けれど海の匂いは、胸の外側から先に触れてくる。塩と魚と濡れたコンクリート。風が運ぶものが、皮膚の上に膜みたいに張りついて、息のたびにそれが薄くなる。

静岡市の用事が終わって、帰りのバスを一本逃した。逃した、というより、乗りたくなくて歩き出した自分を、あとからそう呼んだだけだった。

港へ向かう道の途中に、古い倉庫がある。壁に残った錆の筋が、雨のたびに少しずつ伸びて、時間の形みたいになっていた。倉庫の影は濃く、そこだけ涼しい。涼しいのに、背中には汗が残っている。汗は乾くのが遅くて、肌の上で重い。

幹夫はポケットの中のスマホを握った。画面は暗いまま、手のひらの熱だけを受けている。連絡が来るわけでもないのに、来たらどうしよう、と心のどこかが身構える。母の名前が表示されたら、胸の奥の固まりがまた割れるかもしれない。割れるのは怖い。けれど、割れないままの自分も、もう少しだけ飽きている。

港の方から、甲高い鳴き声がした。カモメだ。空を見上げると、白い点がいくつも、ゆっくり回っている。羽ばたかないで、風に乗っている。風に預ける、ということが、幹夫にはまだうまくできない。預けた瞬間に落ちてしまいそうで、自分の重さが怖い。

堤防の手前に、小さな売店があった。自販機の列と、日焼けしたのれん。幹夫は喉が渇いているのに、何を飲むか決められずに立った。決められないことが増えると、世界が少しずつ曇っていく気がする。曇る前に、何かを一つ決めるだけで、息が楽になることもあるのに。

結局、ペットボトルの麦茶を選んだ。茶農家の家に生まれたくせに、と思いながら、冷えたボトルの感触に救われる。茶は“家”の味で、麦茶は“夏”の味だ。家を背負うより、夏を飲み込むほうが、今日は簡単だった。

堤防に上がると、潮の匂いがはっきりした。陽はまだ強いのに、風には夕方の気配が混じっている。海面は陽を反射して、目が痛いくらい白い。白さの奥に、深い青がある。青は動かない。動いているのは、波の表面だけだ。

幹夫は手すりに肘をつき、ボトルのキャップを開けた。ひとくち飲む。冷たさが喉を通る。喉が冷えると、頭の熱が少し下がる。頭が静かになると、胸の奥のざわつきが聞こえてくる。

——来るって言ってたら、来たんだろうか。——待ってるって言ったら、待ってたんだろうか。

母の声は、駿河湾の前で聞いたときより少し沈まなくなった。でもその“沈まなくなった”は、母が強くなったというより、沈まないように必死で支えている感じだった。支えている声は、聞く側も支えてしまう。支えたくなるのが、怖い。支えたら、また離れたときに空っぽになるから。

「……幹夫?」

背中から声がして、幹夫は肩を跳ねさせた。振り向くと、父がいた。帽子を被って、仕事帰りの匂いをまとっている。茶畑の土と、汗と、機械の油。海の匂いとは違うのに、どこかで混ざる。混ざる匂いが、なぜだか“家族”の匂いに近い気がした。

「なんでここに」

幹夫の声は、思ったより尖らなかった。尖らない声が出ると、自分でも少し安心する。

父は視線を海に置いたまま言った。

「静岡に用があるって、祖母さんが言っとった。……帰り道、こっち寄った」

“寄った”という言い方が、父らしくて、幹夫は息を吐いた。父は大事なことほど、言葉を小さくする。小さくして、見つからない場所に置こうとする。置けるわけがないのに。

「バス、逃した」

「……迎えに来たって言ったら、怒るか」

父がそう言ったとき、幹夫は一瞬、返し方に迷った。怒りたい気持ちは、まだ残っている。残っているのに、怒りだけで動けるほど、もう単純でもない。怒りは燃料になるけれど、燃やし続けると自分が煤ける。

「……怒んない」

言ってみると、声が少し震えた。震えたのに、沈まなかった。

父は小さく頷いて、幹夫の隣に並んだ。二人で海を見ているだけなのに、距離の取り方が難しい。近すぎると息が詰まるし、遠すぎると寒い。ちょうどいい場所を探して、幹夫の肩が少しだけ動いた。それを見て、父もほんの少しずらした。言葉じゃないやり取り。茶を摘むときの指先みたいな、微妙な調整。

しばらくして、父がぽつりと言った。

「……潮の匂い、嫌いか」

幹夫は海面を見たまま答えた。

「嫌いじゃない。……なんか、落ち着かないだけ」

父は「そうか」と言った。それ以上言葉は続かない。続かないのに、幹夫には分かってしまう。父も同じだ。潮の匂いは、どこか“戻れない”を含んでいる。船が出たら帰ってくるまで待つしかない、みたいな匂い。人も同じだ。出ていったら、戻ってくるまで待つしかない。戻ってこないかもしれない。待つことは、思っているよりずっと力がいる。

幹夫は、リュックの中の茶の袋のことを思い出した。川根で買った茶。母に渡すために買った茶。まだ渡せていない茶。

「……父ちゃん」

幹夫が呼ぶと、父の肩がほんの少し上がった。父は驚くとき、声より先に身体が動く。

「次、いつ……会う?」

父はすぐには答えなかった。海の音がその間に入り込む。波が砕けて、引いて、また寄せる。繰り返しは、答えの代わりにならない。けれど、答えが出ない時間を支えてくれる。

「……幹夫が、会いたいなら」

父がそう言ったとき、その言葉の柔らかさに、幹夫は少し戸惑った。父は「会わせたくない」と言う人だと思っていたわけじゃない。ただ、父は“会う”という行為の前に立ち塞がる不安を、うまく言葉にできない人だ。だから、黙る。黙ると、勝手に壁が育つ。

「会いたい、っていうか……」

幹夫は言いながら、自分の心を確かめるみたいにボトルを握り直した。冷たさがもう薄くなっている。午後が進んだ証拠。

「会いたいのもあるし、むかつくのもあるし。……どっちもある」

父は小さく笑った。笑うというより、息を漏らしただけに近い。

「そりゃ、そうだら」

“そうだら”が、静岡の言い方のまま落ちて、幹夫の胸の奥でほどけた。方言は不思議だ。同じ言葉でも、柔らかく聞こえる。柔らかいと、受け取れる。受け取れると、怖さが少し減る。

幹夫は、潮の匂いをもう一度深く吸った。匂いは、逃げない。海がそこにある限り、匂いもそこにある。母も、どこかにいる限り、匂いみたいに消えはしないのかもしれない。消えないのに、見えない。それが怖い。けれど、怖いままでも、声を沈ませずにいられる日があることを、最近の幹夫は知り始めている。

「……じゃあさ」

幹夫は、少しだけ勇気を使って言った。

「今度、渡しに行きたい。茶」

父が幹夫を見た。その目に、驚きと、少しの安心が混ざる。父の目は、言葉より正直だ。

「……お前が選んだ茶か」

「うん。川根で買った」

父は「いい茶だら」と言って、海の方へ視線を戻した。そして、ほんの少しだけ言い直すみたいに付け足した。

「……一緒に行く」

その言い方は、決意というより、覚悟に近かった。覚悟は、派手じゃない。派手じゃないから信じられる。

潮の匂いがする午後は、まだ終わっていなかった。けれど幹夫は、午後が終わっても残るものがある気がした。海の匂いが服に移るみたいに、言葉も、声も、胸の奥に移って残る。

二人は堤防を降りて、駐車場へ向かった。アスファルトは熱を溜めたまま、靴底からじわじわ伝えてくる。幹夫はその熱を感じながら、思った。

——潮の匂いは落ち着かない。——でも、落ち着かない匂いの中でしか、動けない日もある。

車に乗り込む直前、幹夫はもう一度だけ海を振り返った。光の上で、波が小さく形を変え続けている。止まらないものを見ていると、止まっていた自分も、少しだけ動ける気がした。

 
 
 

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