潮の都、判の国
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月29日
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権力は、潮の匂いを嫌う。潮の匂いは、紙の匂いを剥ぐ。紙が剥げれば、手の汚れが見える。汚れが見えると、人は急に言葉を丁寧にする。丁寧な言葉ほど不潔なものはない。丁寧さは、匂いを消すからだ。
その日、私は広島に出張していた。会議室の蛍光灯は白く、白は潔白ではない。白は、汚れを目立たせるための背景だ。「地域活性」「観光導線」「景観配慮」——整った文字が並ぶ。整った文字ほど不潔だ。整った文字は、海の塩気も、漁師の汗も、老いた船の油の匂いも消してしまう。
帰りの新幹線まで少し時間があり、私は宮島へ渡った。正直に言えば、罪滅ぼしのような気分だった。罪滅ぼしは甘い。甘いものは腐る。腐った罪滅ぼしの上で、人は平気で同じ仕事へ戻っていく。
桟橋の先で潮風を吸うと、喉の奥が少し痛んだ。痛みは真実だ。真実は甘くない。甘くないから腐らない。私はその痛みが、どこか懐かしい気がした。子どものころ、瀬戸内の小さな港で、父の背中を追いかけた記憶がある。父は漁師ではなかったが、海に触れる仕事をしていた。海の匂いが父の皮膚に染みついていた。匂いは時間を知らない。知らない匂いほど残酷だ。父が死んでから、私はその匂いを忘れるために東京へ逃げた。
鳥居の前に立つと、観光客の笑いが波に溶け、潮の音だけが残った。波は反復する。反復は秩序に似る。秩序に似たものほど危険だ。だがこの秩序は、役所の秩序とは違う。海の秩序は無関心だ。無関心は残酷で、残酷だから正しい。
干潮で、鳥居の足元が露わになっていた。泥の匂いがする。泥は正直だ。正直な匂いほど残酷だ。私は柵の外から、その泥の湿り気を眺めていた。
「お前は、海を見ているのか。石を見ているのか」
声がした。声は低く、乾いていた。乾いた声は涙を許さない。振り返ると、そこに男が立っていた。
衣は古い。だが古さが“衣装”に見えない。古いものが衣装に見えないとき、それは本物の匂いを持つ。男の顔は冷えていて、目だけが重かった。目の重さは、見てしまったものの重さだ。
「……あなたは」
私が問うより先に、男は言った。
「平清盛だ、と言えば、お前は信じるか」
歴史の名前は、たいてい紙の上で死んでいる。だがこの名は、潮と泥の匂いを伴っていた。私は笑うことができなかった。笑いは薄い。薄い笑いは、こちらの怖さを軽くする。軽くなった怖さほど、あとで重くなる。
「鎌倉ではなく、ここか」
私は言った。清盛は、鳥居の向こうの瀬戸内を見た。青い海。青は無関心の色だ。無関心は残酷で、残酷だから正しい。
「都は海に寄るべきだと思った。海は国を外へ開く。外へ開けば、内の腐りが見える。見えれば、治める手が汚れる。汚れる手は、よく働く」
汚れる手。役所の机の上の白い紙が、胸の中で反射した。白は潔白ではない。白は、汚れを目立たせるための背景だ。私は汚れを嫌って、紙を選んだ。紙は無臭だ。無臭の仕事は、罪を薄める。
「いまの日本を、どう見ますか」
私は訊いた。問いは刃だ。刃は刺さる場所を選ばない。清盛は、即答しなかった。即答しない沈黙は怖い。怖い沈黙ほど正しい。
「よく出来ている」
清盛は言った。
「道が通り、火が灯り、飢えは“制度”で薄められている。人は殺し合わずに済むように、互いを遠ざける術を覚えた。それは“治まり”だ。わしが欲しかった治まりでもある」
私は、その言葉に救われそうになって嫌だった。救いは甘い。甘い救いは腐る。腐った救いの上で、人はまた無臭の紙に戻る。
清盛は続けた。
「だが——治まりが無臭すぎる」
無臭。その一語が、私の喉を締めた。締まる喉は感情移入だ。自分でも気づかないうちに、私は“無臭の側”に立っている。
「お前たちは、刃の代わりに“判”を持った」
清盛の指が、私の胸元の社員証のストラップを示した。名札。薄い札。薄い名。薄い名ほど危険だ。薄い名は、いつでも誰かの器になる。
「判は軽い。軽いから押せる。押せるから、人は震えずに人を動かす。動かされた者が泣いても、押した者は『制度』を見て安心する。安心に似たものほど危険だ。安心は匂いを消す」
私は言い訳を探した。言い訳は便利だ。便利な言い訳ほど不潔だ。だが清盛の目の前では、言い訳はすぐ干上がった。
「じゃあ、どうすれば……」
清盛は笑わなかった。笑わない顔ほど怖い。怖い顔が、ふいに人間の疲れを見せた。
「わしは、海を都に呼び込もうとした。潮の匂いを朝廷の袖に染み込ませたかった。だが袖は白を好む。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを知っている者の色だ。白い袖は、匂いを恐れた。匂いを恐れた国は、やがて内側で腐る」
腐る。腐るという語は、海の魚の腹を連想させた。父の手の匂いが、胸の奥で一瞬だけ戻った。
「お前たちは、腐らぬために無臭になった。だが無臭は、腐りの始まりでもある。匂いがなければ、痛みが分からぬ。痛みが分からねば、治めは“作業”になる」
作業。私は毎日、作業をしている。作業の中で、誰かの生活を動かしながら、匂いを感じないふりをしている。
「『平家にあらずんば人にあらず』と、あなたが言ったと聞いたことがあります」
私が口にすると、清盛は初めて、薄く眉を動かした。
「そんな言葉は、後の者が好む響きだ」
薄い怒りでも、薄い照れでもない。ただ、嫌悪だった。“美談になる匂い”への嫌悪。
「人にあらず、という言葉は楽だ。楽な言葉ほど危険だ。言えば、人を切っても良くなる。切って良くなるものなど、この世にない」
私は、その言葉に、つい感情移入してしまった。切って良くなる。統廃合。合理化。効率化。私は切って、良くなった気分を作っていたのかもしれない。気分は麻酔だ。麻酔は苦い現実を甘くする。甘い現実ほど腐る。
清盛は、海へ向かって低く言った。
「いまの日本は、美しい。美しいものほど危険だ。美しさは、匂いを“景観”に変える。景観になった匂いは、もう人を叱れぬ」
風が吹き、鳥居の影が水面に揺れた。揺れる影は、ひどく細い。細い影ほど刃に似る。
「だが、救いがないわけではない」
清盛は、足元の泥を指差した。
「泥の匂いは残っている。潮はまだ、この国の底で動いている。お前が匂いを覚えている限り、無臭の国は完全にはならぬ」
私は黙った。黙りは赦しにも断罪にも似る。似ているから怖い。潮が満ち始め、泥の匂いが少し薄まった。薄まる匂いは不吉だ。薄まる匂いは、忘却の入口になる。
「忘れるな」
清盛が言った。
「判を押すなら、押したあとに匂いを嗅げ。紙の匂いだけではない。押された者の匂いを。匂いを嗅げば、夜に眠れぬかもしれぬ。眠れぬことは罰ではない。責任だ」
責任。その言葉が、鎖のように胸へ落ちた。重い言葉ほど腐らない。
次に瞬きをしたとき、清盛はもういなかった。残ったのは、潮と泥と、遠い笑い声の混じった空気だけだった。私は手のひらを見た。何も掴んでいないのに、指先が塩で少しざらついていた。
東京へ戻る船の上で、私はスマートフォンを取り出した。画面は白い。白は潔白ではない。白は、罪を映す鏡だ。母に電話をかけた。呼び出し音の間、私は父の匂いを思い出していた。思い出す匂いは痛い。痛い匂いは真実だ。
母が出た。
「もしもし」
私は正しい言葉を探さなかった。正しい言葉は清潔すぎる。清潔な言葉ほど残酷だ。代わりに、恥を差し出した。
「……今度、帰る。父さんの話、聞かせて」
沈黙があり、母が小さく息を吐いた。息は温かい。温かい息は、生の執着だ。執着は醜い。醜い執着ほど尊い。
「うん。待っとるよ」
船は海を切り、潮の匂いがまた濃くなった。濃い匂いは、私を叱る。叱られることが、少しだけ救いに似ていた。救いは甘い。甘い救いは腐る。だから私は、甘くない救い——潮の匂いだけを胸に入れて、明日の白い机へ戻るつもりだ。
判を押すためにではない。判を押したあとも、匂いから逃げないために。





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