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火鉢の銀河

 十一月の蒲原は、朝の空気が薄い硝子みたいに澄んでいて、息を吸うと胸の奥へ、白い道が一本すうっと通る気がします。畦道の土は夜のあいだに固くなり、踏むと、こりっ、と小さく鳴りました。みかん畑の葉の裏の白い粉は、冷たい光を返し、薩埵峠の影は長い帯になって町の端を撫でています。駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光り、波は低く、しゅう……ざあ……と、控えめに息をしていました。

 幹夫は八つ。ランドセルの口をきゅっと結んでから、机の引き出しの奥をもう一度確かめました。そこに挟んであるのは、父から届いた“匂いのしおり”。

 細長い紙片。端が少し丸めてあって、指先に触れると、紙の肌がさらりとしています。鼻先に近づけると、薄く、でも確かに、みかんの匂いがします。

 匂いは弱いのに、弱いぶんだけ、胸の奥へ入ってきます。胸の奥の空洞に、すうっと入りこんで、そこを冷たい穴ではなく、息の通る筒にしてくれる匂い。

 ――今日は、これがいる。

 幹夫はそう思いながら、しおりをそっと本に挟み、その本をランドセルに入れました。本の重さが胸に当たると、胸の中のざわざわが、いちどだけ底へ沈みます。

 学校では「読書の時間」になりました。窓の外の富士は白い帽子を被ったまま、何でもない顔で空に座っていました。教室の中は、吐く息が白くなるほどではないけれど、指先が少し冷たい。冷たいと、鉛筆を握る力が増えて、字がかたくなります。

 先生が言いました。

「今日は、順番に一段ずつ読んでみよう。声に出すと、字も息もあったまる」

 幹夫の胸が、きゅっと縮みました。声に出す、という言葉は、胸の奥の空洞の壁を指で叩く言葉です。叩くと、空洞が、からん、と鳴りやすい。

 隣のこういちが、机の下で幹夫の袖をちょん、と引きました。引くのは強くなくて、ただ「ここだよ」と教える引き方でした。

「幹夫、息して」

 こういちは、唇だけでそう言いました。声は出ないのに、幹夫の胸にはちゃんと届きました。幹夫は鼻から息を吸って、吐きました。吐くとき、胸の中の熱い石が、すこしだけ丸くなります。

 順番が回ってきました。幹夫は、挟んであるしおりの端を、指先でそっと撫でました。

 紙の端。 みかんの匂い。 遠い町の手の跡。

 それを確かめると、声が少しだけ出やすくなりました。幹夫は本を読みました。声は大きくない。でも、落ちずに立ちました。立つ声は、胸の中の道です。

 読み終えると、先生が何でもないふうに言いました。

「よく読めたな」

 “よく読めた”の中に、褒める針はありませんでした。針がないと、幹夫の胸は助かります。針があると、嬉しさが痛みに変わることがあるからです。

 休み時間、こういちが言いました。

「匂い、効いた?」「……うん。少しだけ、胸がほどけた」

 ほどけた、という言葉を言うと、胸の奥の結び目がほんの少しゆるむのが分かりました。言葉は、胸を揉む手みたいだ、と幹夫は思いました。

 放課後、家へ帰る道、踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと薩埵峠の影へ入っていきました。風は冷たく、でもまだ怒ってはいません。冷たいだけの風は、頬を撫でる指みたいで、幹夫は少しだけ安心しました。

 家に着くと、台所のほうから、炭の匂いがしました。炭の匂いは甘くありません。けれど、炭の匂いには「冬が来る」という正直な匂いがあります。正直な匂いは、怖いけれど、嘘よりは息がしやすい。

 祖母が言いました。

「幹、今日は火鉢(ひばち)を出したよ。寒くなってきたからね」

 座敷の真ん中に、丸い火鉢が置かれていました。中には灰があり、その灰の上に、黒い炭がいくつか並んでいます。炭は黒いのに、黒いまま“待っている顔”をしていました。

 祖母が火箸で炭をつつくと、

 ぱち。

 小さな音がして、赤い点が生まれました。赤い点は、火の目。火の目は小さいのに、見ていると胸の奥が少し温かくなります。温かくなると、同時に、胸がちくりとすることもあります。

 ――父さんは、今もがちゃん、がちゃんの中だ。 ――ぼくは、ここであったまっていいのかな。

 あったまるのは悪いことじゃないのに、幹夫の胸は、ときどきそうやって自分を責めそうになります。責めると、胸が硬くなって、息が通りにくくなります。

 祖母は、幹夫の顔を見て、何でもないように言いました。

「火はね、誰かが遠くにいるときほど、ここにいていいんだよ。ここが冷えると、待つのが辛くなるからね」

 ここが冷えると、待つのが辛くなる――その言葉は、炭の赤い点みたいに、幹夫の胸にぽつんと灯りました。

 こういちも、夕方に来ました。畳に座ると、火鉢の温かさが、膝の裏からじんわり上がってきました。温かさはやさしいのに、やさしいほど、胸の奥の空洞が目立つときがあります。でも今日は、空洞が目立っても、凍りつきませんでした。温かい空気が、空洞の壁を少しだけ柔らかくしたからです。

 祖母が焼き芋を一本、新聞紙で包んで火鉢の端に置きました。新聞紙が少し焦げる匂いがして、その匂いは、台風の夜のがたんよりずっと静かな匂いでした。焦げの匂いはちょっと苦い。でも苦い匂いにも、冬の甘さが隠れている気がします。

 幹夫は、学校の本を開き、しおりを挟んだページをそっと見ました。しおりの紙は薄いのに、そこだけ少し重たく感じます。重たいのは“父が開けた”という事実の重さ。重たいのに、その重さは幹夫を沈める重さではなく、地面に足をつける重さでした。

 こういちが火鉢の中を覗き込んで言いました。

「灰ってさ、雪みたい」「……黒い雪」と幹夫は言いました。 言ってから、火鉢の灰の上に、白い紙の上の黒い消印を思い出しました。黒い丸の月。あれも、紙の上に来た遠い印。

 祖母が言いました。

「灰はね、火の手紙だよ。燃えたあとに、ちゃんと残る。残るから、次の火も守れる」

 火の手紙。 その言い方で、幹夫の胸の中に、また“封筒”が一つできました。燃えるのは怖い。でも燃えたあとに残るものがあるなら、燃えることは全部の終わりじゃない。

 幹夫は、ぼんやりと炭の赤い点を見つめました。点は小さいのに、灰の広い面の中で、まるで星みたいに見えました。炭が星なら、灰は空です。火鉢の中に、小さな銀河がある。

 幹夫は火箸ではなく、細い竹串を手に取り、灰の表面をそっとなぞってみました。なぞると、灰がすうっと割れて、細い線ができました。線の端に炭の星がある。星から星へ線を引くと、簡単な形ができます。

 ――これは、舟。 ――これは、犬。 ――これは、父さんの町へ行く道。

 幹夫は胸の中でそう言って、灰の上に小さな星座を作りました。作ると、胸の奥が少しだけ落ち着きました。落ち着くのは、遠いものに触れた気がするからです。触れた気がするだけなのに、触れないよりずっと息がしやすい。

 そのとき。

 幹夫の肘が、机の角に当たりました。 ごつん。

 驚いて、本が少しずれて、挟んでいた匂いのしおりが、するりと落ちました。落ちた先は――火鉢の縁。

 幹夫の胸が、すとん、と底へ落ちました。底は冷たい。冷たいと、喉が紙みたいに硬くなります。

「……だめ!」 幹夫は声を上げてしまいました。

 しおりは灰の上には落ちませんでした。縁に引っかかって止まった。でも、止まっただけで十分に怖い。怖いと、手が急ぎます。急ぐ手は、火の近くで危ない。

 こういちがすぐ言いました。

「幹夫、息して。……手、急がせない」

 祖母も、すっと火箸を伸ばして、しおりをそっと摘まみ、火鉢から離しました。離すときの指が、蜘蛛の交換台みたいに正確でした。引っぱらない。通すだけ。

 しおりの端が、ほんの少しだけ茶色くなっていました。焦げた匂いが、みかんの匂いに混ざって、ちょっと苦くなりました。苦いと、幹夫の胸がちくりとしました。

 ――父さんの匂いが、変になった。

 そう思った瞬間、祖母が言いました。

「焦げてもいいよ。焦げたら“焦げた印”が付く。印が付いたら、しおりはもっと本物になる」

 本物。 その言葉で、幹夫の胸の奥の結び目が、少しだけゆるみました。焦げは失敗ではなく、旅の途中の印。消印みたいなもの。

 こういちが、しおりをそっと嗅いで言いました。

「みかん、まだいるよ。……ちょっとだけ、焚き火の匂いが足された」

 焚き火の匂いが足された。 足された、という言い方は、減った、よりやさしい。足されたなら、失ったのではない。増えたのだ。

 幹夫は、喉の奥の硬さが、少しほどけるのを感じました。

「……父さんの町にも、焚き火あるかな」「あるよ」とこういちが言いました。「だって、冬はどこにも来る」

 冬はどこにも来る――その言葉は、月がどこにも来るのと同じでした。父の町にも、蒲原にも、同じ冬が来る。なら、同じ匂いも、どこかで繋がるかもしれない。

 夜。 焼き芋を三人で分けて食べ、こういちが帰ったあと、幹夫は机に向かいました。しおりは少し焦げた端を持ったまま、本に挟んであります。焦げの色は小さい。小さいのに、そこに今日の“ごつん”と“息して”と“助かった”が全部入っている気がしました。

 窓辺には、青いガラスの星と、銀の輪が吊るれていました。 薩埵峠のほうから、細い風が降りてきて、

 青い星が、からり。 少し遅れて、銀の輪が、きん。

 その音のあと、座敷の火鉢から、もう一つ小さな音が聞こえました。

 ぱち。

 炭の星が、灰の空の中で、ひとつ瞬きをした音でした。

 幹夫は、三つの音を胸の中で並べました。 からり(ここ)。 きん(遠く)。 ぱち(いま)。

 並べると、胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、音の通る筒になりました。筒なら息ができる。息ができるなら、待てる。

 幹夫は父へ短い手紙を書きました。

 「とうさん」 「きょう ひばちを だしました」 「はいが そらみたいで すみが ほしみたいでした」 「においの しおりを すこし こがしました」 「でも みかんは まだ いました」 「こげの しるしが つきました」 「こっちは からり と きん と ぱち でした」

 “早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。でも今日は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。火も、団扇で急に煽ぐと荒れる。静かに守ると、長くあたためる。

 布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。虫の声は細くなって、りん……りん……と、夜の布を小さな針で縫っていました。

 幹夫は目を閉じて、火鉢の灰の上の小さな星座を思い浮かべました。線はすぐ崩れる。崩れるけれど、描いたという事実は胸に残る。残るなら、道は消えない。

 窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。 火鉢が、ぱち。

 その三つの返事を聞きながら、幹夫の胸の空洞は、今夜も冷たい穴ではなく、冬の小さな銀河の通る、あたたかい筒のままでした。

 
 
 

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