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灯のはがき

 八月のはじめの蒲原は、昼の光がいちど地面に落ちてから、ゆっくり照り返してくるので、道ばたの石も畦道の土も、どれも二重に熱を持っていました。みかん畑の葉は、裏の白い粉をちらちら見せながら揺れ、蝉は、じじじじ――と声で空気を削って、削った粉をそのまま熱にしてしまうようでした。海は低い波を繰り返し、白い泡だけが小さく起き上がっては、すぐ砂にひざを折りました。

 幹夫は八つ。昼のあいだ、祖母の手伝いで、台所の簾を掛け替えたり、井戸水を汲んだりしていました。水を汲むたび、手首から肘へ、ひやり、と冷たさがのぼってきて、その冷たさが胸の中のむくれた気持ちを、少しだけしずめてくれます。

 午後のいちばん暑い時間、祖母が縁側で言いました。

「今夜はお寺で灯籠(とうろう)を作るよ。盆の迎えの灯だ。幹も来るかい」

 灯籠、と聞いた瞬間、幹夫の胸の奥の空洞が、からん、と鳴った気がしました。音は出ないのに、鳴った“感じ”だけがはっきり残ります。灯籠は、死んだ人を迎えるもの。そう祖母に教わったことがあります。

 ――父さんは、死んでない。 ――でも、いない。 ――いない、って、どこに入るんだろう。

 幹夫は、うなずいたふりをして、うなずききれないまま、返事をしました。

「……行く」

 行く、と言った口の中が少し乾いて、舌が紙みたいに硬くなりました。紙の硬さは、文字の硬さに似ています。言葉にすると、戻らないものが戻らないまま立ち上がってしまうからです。

 夕方、日が西へ傾くと、畦道の影が長くなりました。影は長いほうがやさしい、と幹夫は思いました。短い影は尖っていて、どこか責めるように見えるけれど、長い影はものの輪郭をゆるくして、痛いところを丸くしてくれる。

 寺の境内には、竹の匂いと、糊の匂いと、古い木の匂いが混ざっていました。台の上に、細い竹ひご、薄い紙、ろうそく、小さな筆と墨が並び、風が通るたび、紙がさらり、と鳴りました。その音は、七夕の短冊の音にも似ていましたし、燕の羽音にも似ていました。

 大人たちが、黙々と灯籠を組んでいます。竹ひごを四角に組み、紙を張り、糊で押さえる。糊の湿り気が指先にくっついて、指が少しだけ不自由になります。でも、その不自由さが、逆に心を落ち着かせました。手が不自由なぶん、気持ちが勝手に走り出せないのです。

 幹夫も、祖母の横で、竹ひごを持ちました。竹ひごは軽いのに、弾みがあって、指の間でぴん、と鳴ります。

「ほら、こうやって角を合わせるんだよ」 祖母が言って、幹夫の指をそっと導きました。導かれると、幹夫の胸の中のどこかも、少しだけ道ができる気がしました。

 紙を張り終えると、今度は名前を書く番でした。台の上に、出来上がった灯籠がずらりと並び、どれもまだ白くて、白いまま“待っている顔”をしていました。

 その白さを見たとたん、幹夫の胸がきゅっと縮みました。白いものは、何でも書ける。何でも書けるぶん、書いたら消せない気がする。

 大人たちは迷わず筆を持ち、「○○家先祖代々」とか、知っている苗字をさらさらと書いていきます。墨は黒く、黒いのに、どこか温かい匂いがしました。墨の匂いは、夜の匂いに似ています。夜は怖いけれど、夜には灯が要る。その灯を作るための匂い。

 幹夫の手元には、白い灯籠がひとつ。筆は重く、墨は濃く、紙は薄い。

 ――何を書けばいい。

 「とうさん」と書いたら、変だろうか。 盆の灯籠に、生きている父の名前を。

 変だと思った瞬間、胸の中で、別の声がすぐ返しました。

 ――変でも、いい。 ――だって、父さんは今、遠い。

 遠い、というだけで、祈りは祈りになるのだろうか。幹夫はわからなくなって、筆先が紙の上で宙をさまよいました。宙をさまよう筆先は、胸の中の迷いの形でした。

 そのとき、こういちが境内に入ってきました。袖をまくって、手首を出して、少しだけ汗ばんだ顔で。

「幹夫、ここだったんだ」「うん……灯籠」

 こういちは幹夫の前の白い灯籠を見て、しばらく黙りました。黙り方が、薄い硝子を見つめるみたいでした。

「何書く?」とこういちが小さく聞きました。

 幹夫は喉の奥が熱くなるのを感じました。熱くなるのに、声が出にくい。出にくい声を無理に出すと、声が尖ってしまう。尖った声は、今夜の灯には似合わない。

「……わかんない」と幹夫は言いました。 言った瞬間、胸がちくりとしました。わかんない、と言うのは恥ずかしい。でも、嘘を言うよりは楽でした。

 こういちは、少しうなずきました。

「ぼくも、わかんない。……盆って、前の川のとこでは、川に灯を流した。名前書いたり、言葉だけ書いたり」

 言葉だけ。 その言い方が、幹夫の胸にすっと入りました。名前じゃなくてもいい。言葉でもいい。言葉なら、父を“死んだ人”にしてしまわずに、祈れる。

 祖母が、ちょうどそのとき、墨をつけた筆を持って、幹夫の顔を見ました。

「幹、迷ってるね」

 祖母の声は責める音ではなく、風が畦道を通るときの音でした。止めもしないし、押しもしない。ただ通り道を作る。

「灯籠はね、死んだ人だけのものじゃないよ」祖母が続けました。「迷っているものの目印さ。海に出た舟の無事を祈る灯でもあるし、帰り道を探している心の灯でもある」

 心の灯。 幹夫の胸の奥の空洞が、その言葉に、ふっと息を通しました。空洞は冷たい穴のままだと苦しいけれど、息が通る筒になると、少しだけ耐えられる。

「名前が苦しいなら、道を書けばいい」祖母が言いました。「“かえりみち”でも、“ぶじ”でも、“まよわない”でも。灯は、言葉の形でも灯るよ」

 幹夫は、筆を持ちました。握る手が少し汗ばんで、汗が筆の木にしみるのがわかりました。汗は怖さの水。でも怖さがあるから、灯が必要になる。

 幹夫は、ゆっくり書きました。

 「とうさん かえりみち」

 字は少し曲がりました。曲がったけれど、曲がったまま“ほんとう”でした。書き終えた瞬間、胸がふっと軽くなって、軽くなるのに、目の奥がじんと熱くなりました。熱いのは泣きたいからだけじゃありません。書けた、という安堵の熱でした。

 こういちも、自分の灯籠に言葉を書いていました。覗かないほうがいいと分かっているのに、幹夫はちらりと見てしまいました。

 「かわのともだち まよわない」

 幹夫の胸の中に、ぽちゃん、と音が落ちました。こういちの“遠い”も、幹夫の“遠い”も、形は違うのに、同じ夜に灯るのだと思うと、胸の空洞が少しだけ温かい棚になりました。

 夜、境内から浜へ、みんなで灯籠を持って歩きました。紙に包まれた灯籠はまだ火が入っていないのに、持つだけで手のひらが少し温かくなる気がしました。温かくなるのは紙のせいではなく、“預かった灯”を運んでいるという感じのせいでした。

 浜は、昼の熱をまだ少し残していましたが、海風がその熱をゆっくり冷ましていきました。波は低く、しゅう……ざあ……と寄せては返し、暗い水面の向こうに、漁火がぽつぽつ浮いていました。遠くの踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと夜を渡っていきます。音が重なると、夜の中に見えない道ができる。幹夫はそんな気がしました。

 灯籠にろうそくが入れられ、火が点きました。

 ぽっ。

 紙の中に、小さな橙の心臓が生まれるように灯りました。灯ると、灯籠の白い紙が、いきなり生き物の皮膚みたいに見えました。薄いのに、ちゃんと中身を守っている。

 幹夫の灯籠も点きました。 火は風に揺れて、いまにも消えそうで、幹夫は思わず両手で囲いました。手のひらの中の熱が、ろうそくの熱と混ざって、胸の奥まで届くようでした。

 ――消えないで。

 そう思うとき、幹夫は、父に向かってそう言っているのか、灯に向かってそう言っているのか、自分でも分かりませんでした。灯と祈りは、似た形をしているのです。

 浜の端から、ひとつずつ、灯籠が海へ送られました。波にそっと乗せると、灯籠は小さく揺れて、揺れながら沖へ向かっていきます。揺れ方が、蛍が瓶から出ていくときに似ていました。出ていくのに、行ってしまうのではなく、戻るべき場所へ戻っていく揺れ方。

 幹夫の番が来ました。

 幹夫は灯籠を両手で持ち、膝を濡らしながら波打ち際へしゃがみました。水はぬるく、でも足首のあたりは冷たくて、幹夫の体に「今、ここだ」と知らせました。現実の冷たさは、心の暴走を止めるときがあります。

 幹夫は灯籠の側面の文字を見ました。

 とうさん かえりみち

 その四文字は、紙に書かれているのに、胸の中に書かれているみたいでした。書いた自分の手が、確かにそこにある。確かにあるから、祈りが嘘じゃない。

 幹夫は、そっと灯籠を水に置きました。

 置いた瞬間、灯籠は波に揺れて、ふいに、ろうそくの火が細くなりました。 風が、すっと通ったのです。

 幹夫の胸が、ぎゅっと縮みました。

 ――消える。

 消える前に、手で掴み戻したくなりました。掴み戻したら守れる気がする。守れる気がするのに、守ることが、返すことを邪魔する気もしました。

 灯籠は、もう一度揺れて――

 ぷつん。

 火が消えました。

 闇に戻った灯籠が、黒い紙箱みたいに見えて、幹夫の喉の奥がざらつきました。ざらつきは、悔しさと、怖さと、どうしようもなさの混ざった味です。

「……消えた」と幹夫が言いました。

 声が震えました。震えは泣きたい震えでした。泣きたくないのに泣きたい。泣きたいのに、泣いたら灯がもっと遠くなる気がして、涙は引っかかって落ちませんでした。

 こういちが、すぐそばに立っていました。こういちは、幹夫の消えた灯籠をじっと見て、それから、小さく言いました。

「……でも、流れてる。消えても、進んでる」

 進んでる。 その言葉が、幹夫の胸の縮みを、ほんの少しだけゆるめました。消えたら終わり、ではない。消えても、進む。進むなら、道はまだある。

 そのときでした。

 波が、しゅう……と引いたあと、次に寄せてきた波の縁が、ふっと光りました。

 青白い、小さな光の粒が、波の上でぱらぱらと散ったのです。 夜光虫でした。

 光は強くないのに、嘘のない光でした。波が動くたび、光が生まれ、光が消え、また生まれました。まるで海が、自分の中に天の川を持っているみたいでした。

 幹夫の消えた灯籠の周りでも、波が触れるたび、光がぱち、ぱち、と小さく点きました。灯籠の中の火は消えたのに、海が代わりに光をつけて、灯籠の道を照らしているように見えました。

 幹夫の胸の奥が、ふっと温かくなりました。

 ――消えても、光る。 ――光は一つじゃない。 ――灯籠の火じゃなくても、道は見える。

 幹夫は、消えた灯籠を見送りながら、初めて、深い息を吸いました。潮の匂いが肺に入り、胸の奥の空洞を撫でました。空洞はまだあります。でも今夜の空洞は、冷たい穴ではなく、光が通る筒でした。

 帰り道、こういちは黙って歩いていました。黙りは重たくなく、夜の草の匂いと一緒に、やさしく揺れていました。

「……ぼくの灯籠は、まだ点いてた」とこういちが、申し訳なさそうに言いました。「うん」と幹夫は言いました。 悔しい気持ちがないわけではありません。でも、悔しさの中に、さっき見た夜光虫の光が、薄く混ざっていました。

「でもさ」こういちが言いました。「消えたほうが、よく見える光もあるね。……海のやつ」

 幹夫は、笑いそうになって、笑いました。小さな笑いでした。笑うと胸がちくりとします。ちくりは、まだ寂しさが生きている証拠です。証拠があるなら、寂しさは嘘じゃない。嘘じゃない寂しさは、いつか、やさしさに変わるかもしれない。

 家に着くと、窓辺の青いガラスの星が、風でからり、と鳴りました。 割れた貝の星座の箱は、月の光を控えめに返し、空の蛍瓶は透明のまま、でも透明のまま“返した手触り”を抱いていました。虹の海硝子は、暗がりで、ほんの一瞬だけ薄い色を見せました。庭の竹の短冊が、さらり、と鳴りました。

 祖母が言いました。

「灯は、消えることもあるよ。消えても、送ったことは消えない。送ったっていうのは、胸の中の道だからね」

 幹夫は、うなずきました。うなずいたとき、胸の奥の空洞が、もう一度、からん、と鳴った気がしました。けれど今度の鳴り方は、冷たい音ではなく、空っぽの瓶を軽く叩いたときの澄んだ音に似ていました。

 布団に入ると、海の夜光虫の光が、目の裏にまだ残っていました。消えた灯籠の黒い輪郭も、薄く残っていました。残っているのは、悲しみの跡でもあり、祈った跡でもありました。

 幹夫は、胸の中でそっと言いました。

 ――父さん。 ――帰り道が、暗くてもいい。 ――海が光るみたいに、どこかで必ず、道が光る。

 遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、またざあ、と寄せました。

 その音の間に、幹夫の胸の中で、見えない灯がひとつ、ぽっと点きました。 それは、消えた灯の代わりに残った、**「送った」**という小さな光でした。

 
 
 

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