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無の国、紙の盾

「喝」は、警報より短い。短いから胸に刺さる。刺さるから、言い訳が剥げる。言い訳が剥げた裸の胸ほど、現実に近いものはない。

その朝、私は市役所の会議室で、色刷りの地図を広げていた。津波浸水想定。避難路。要配慮者名簿。支援物資の受け渡し手順。整っている。整ったものほど不潔だ。整ったものは、泥の匂いを消してしまう。匂いが消えると、人は安心する。安心に似たものほど危険だ。安心は、遅れを生む。

上司が言った。「訓練の回数、今年は減らせないかな。苦情もあるし、予算も厳しい」苦情。予算。厳しい。便利な言葉ほど不潔だ。便利な言葉は、誰かの恐怖を“調整”に変える。

私は頷きかけて、頷かなかった。頷きは楽だ。頷けば説明を省ける。説明ほど重いものはない。だが重いものを避け続ければ、いつか重みが一度に落ちてくる。落ちる重みは、たいてい人の上に落ちる。

会議が終わり、誰もが白い蛍光灯の下で「お疲れさまでした」と言い、笑い、すぐ忘れた。忘れることが都市の技術だ。忘れる技術は便利だ。便利な技術ほど残酷だ。

私は夕方、鎌倉へ降りた。潮の匂いを吸いたかった。紙の匂いを剥ぎたかった。匂いは時間を知らない。知らない匂いほど残酷だ。海の匂いは、幼い頃の喉の乾きと、父の汗の塩気と、逃げ遅れた人の叫びを、同じ器で胸へ流し込む。

円覚寺の門をくぐると、空気が冷えた。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私の中の甘い弁明を叱る。境内の暗がりに、白い砂利が見えた。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを最初から知っている者の色だ。白い砂利の上を歩くと、足音がやけに大きい。大きい足音ほど恥ずかしい。恥は、生き残った者の印だ。

仏殿の前で立ち止まったとき、背中がぞくりとした。振り返ると、ひとりの男が立っていた。鎧でもなく、役所の制服でもない。古い衣のようで、しかし古さが衣装に見えない。衣装に見えない古さほど怖い。古さは、こちらの未来を先に知っているように見えるからだ。

男の眼は澄んでいなかった。澄んだ眼は正義の眼だ。濁った眼は、決断が肉を通るときの眼だ。その眼が、私の胸元の名札を見た。薄い札。薄い名。薄い名ほど危険だ。薄い名は、いつでも誰かの器になる。

「お前は何を守っている」

声は乾いていた。乾いた声は涙を許さない。私は答えたくなかった。答えれば、言葉がすぐ“看板”になる。看板は甘い。甘い看板は腐る。腐った看板の上で、人は平気で他人を踏む。

「……市の、防災を」

私が言うと、男は短く言った。

「北条時宗だ」

その名が、教科書の紙の匂いではなく、潮と木の湿り気の匂いを伴って胸へ落ちた。私は笑えなかった。笑いは薄い。薄い笑いは、怖さを軽くする。軽くなった怖さほど、あとで重くなる。

「あなたが……いまの日本を見たら、どう思いますか」

問いは刃だ。刃は刺さる場所を選ばない。時宗は、すぐ答えなかった。答えない沈黙は怖い。怖い沈黙ほど正しい。

「よく治まっている」

彼は言った。「道は通り、飢えは薄められ、争いは“手続き”で封じられている。血が流れにくい世は、よい。血は、洗えば消えると人は思うが、匂いは残る。匂いは長生きする」

私はその言葉に救われそうになって嫌だった。救いは甘い。甘い救いは腐る。腐った救いの上で、私はまた会議室に戻れてしまう。

時宗は続けた。

「だが、治まりが無臭すぎる」

無臭。その一語が、私の喉を締めた。締まる喉は感情移入だ。私は今日一日、無臭の言葉で人を動かそうとしていた。

「無臭の国は、恐れを忘れる。恐れを忘れた国は、備えを“儀式”にする。儀式になった備えは、美しい。美しい儀式ほど危険だ。美しさは現実の泥を消してしまう」

私は言い返したくなった。今の国は、昔より人を殺していない。福祉も、医療も、教育もある。だが言い返せば、私は“正しさ”の盾を持つ。正しさほど危険な盾はない。正しさは、相手の痛みを見なくする。

「あなたの時代は、外敵が見えた。いまは、敵がはっきりしない。災害も、病も、経済も……」

時宗は私を見た。その眼は、刃の眼ではなかった。刃の眼より残酷な、秩序の眼だった。

「敵が見えぬから、恐れが薄まるのだ。見えぬものほど厄介だ。見えぬものほど、あとで大きく見える」

私はふいに、胸の奥の問いを口にした。口にしたくない問いほど、喉に引っかかる。

「怖いとき、あなたはどうしましたか」

時宗は、わずかに顔を上げた。夜の空に、月が白く薄かった。都会の月は痩せて見える。月が痩せたのではない。こちらの視線が痩せたのだ。

「無」

彼は言った。たった一字。短い言葉ほど真実だ。真実は甘くない。甘くないから腐らない。

私はその「無」を、空っぽだと思いかけて、思い直した。空っぽではない。空っぽは逃げだ。「無」は、余計な飾りを捨てた残りの骨だ。骨は冷たい。冷たさは正しい。正しい冷たさは、次の一歩を決める。

時宗は静かに言った。

「無とは、恐れが消えることではない。恐れを“便利な言葉”で包まぬことだ。恐れの匂いを嗅ぎ、逃げずに立つことだ」

匂い。私は会議室の無臭を思い出した。訓練を減らす理由を、数字で整え、言葉で包み、責任の匂いを消していた自分の指先を思い出した。清潔な指ほど怖い。清潔な指は、血や泥に触れずに人を動かすからだ。

「守るものを、名指ししろ」

時宗は言った。「国、などという大きな名ではない。お前の隣の息だ。お前が今夜帰る家の灯だ。それを名指しできぬ者は、備えを儀式にする。儀式にした瞬間、備えは腐る」

その言葉が、胸に刺さった。刺さる痛みは生の証拠だ。証拠がある限り、私はまだ戻れる。

風が吹き、杉の葉が鳴った。乾いた音。正しい音。その音の中で、時宗の影は薄くなっていった。薄くなる影は物語にされやすい。物語にされた瞬間、匂いは消える。

私は消したくなかった。だから、合掌もしなかった。礼は美しい。美しい礼ほど危険だ。礼は心の汚れを一瞬隠す。私は隠したくなかった。私はただ立って、夜の湿り気と、木の匂いと、土の匂いを吸った。

翌朝、私は会議室に戻った。地図は相変わらず美しい。美しいグラデーションは、死を図柄に変える。上司が言った。「で、訓練の件は?」

私は、口の中に溜まった便利な言葉を捨てた。捨てると、喉が痛む。痛みは真実だ。

「減らしません。……減らせません」

上司の眉が動いた。眉が動くのは、現実がそこにいる証拠だ。私は続けた。

「数字は整えられます。でも、匂いは整えられません。匂いを忘れたら、遅れます」

自分でも不器用だと思った。不器用は恥に似る。恥は、生き残った者の印だ。だが私は、その恥を持ったまま言い切った。

会議が終わり、私はスマートフォンを取り出して、娘の学校に電話した。防災訓練の日程の確認。たったそれだけの電話が、妙に重かった。重いものほど腐らない。

放課後、海へ行った。由比ヶ浜の波は反復し、反復は秩序に似る。秩序に似たものほど危険だ。だが娘の小さな手が私の手を握ったとき、私は初めて、守るものを名指しできた気がした。

「ねえ、地震って、ほんとに来るの?」

娘が訊いた。子どもの問いは刃だ。刃は刺さる場所を選ばない。

私は正しい言葉を探さなかった。正しい言葉は清潔すぎる。清潔な言葉ほど残酷だ。代わりに、匂いを渡した。

「来るかもしれない。だから、海の匂いを覚えておけ。変な匂いがしたら、走る。走る背中は美しくない。美しくない背中が、生きる背中だ」

娘はよく分からない顔をして、それでも頷いた。頷きは楽だ。だが子どもの頷きは、未来の骨になる。

波の音の奥で、あの短い声が聞こえた気がした。喝。警報より短い。短いから、忘れにくい。

北条時宗がいまの日本を“評価”するとしたら、褒めるだろう。よく治まっている、と。だが同時に、叱るだろう。無臭の治まりは、腐りやすい、と。

だから私は、今日も匂いを嗅ぐ。潮の塩気。土の湿り気。紙の匂いの不潔さ。そして、守るべき小さな息の温度。

それらを忘れないことだけが、この国の備えを、ただの美しい儀式にしないための、私の最小の「無」だ。

 
 
 

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