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燕の小さな梯子

 七月の蒲原は、昼の熱をいったん畑に預けておいて、夕方になるとそれをそっと引き出してきます。みかんの葉は、裏の白い粉をちらちら見せながら揺れ、土の匂いは湿ったパンのようにふくらんで、道ばたの石ころまで汗をかいているみたいでした。海の方では波が低く、白い泡が短く縫うように砂に線を引いては、すぐほどけていきます。

 幹夫は八つ。学校の帰り、ランドセルの肩紐が、いつもより肩に食い込む気がしていました。重たいのは教科書のせいだけじゃない、と幹夫は知っていました。胸の奥にある、言葉にならないものが、暑さでふやけて、形が大きく見える日があるのです。

 踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと通っていきました。窓の灯は昼間でも薄く見え、幹夫の目にはそれが、遠い町の“ひとの気配”みたいに見えました。

 そのとき、頭の上で、ちちちち、と小さな音がしました。燕です。軒の下を矢のように飛び、ふいに止まって、また飛んでいく。燕の飛び方は、まっすぐで、迷いがなくて、幹夫はいつも少し羨ましくなります。あんなふうに心が切れ味よく空を割れたら、胸の中の綿も、もたもたしないのに。

 幹夫が家の近くの路地へ曲がったとき、足もとで、かすかな“ざり”という音がしました。砂利の上で、何かがほんの少し動いた音。幹夫は反射のように足を止めました。

 砂利の間に、小さな灰色のかたまりがありました。

 最初、落ちている葉っぱだと思いました。けれど、葉っぱにしては柔らかすぎる影で、影にしては温かい色をしていました。幹夫がしゃがむと、そのかたまりが、ふるふる、と震えました。

 燕の雛でした。

 羽はまだ途中で、毛は濡れた綿のようにまとまっていて、首だけが細く伸び、口が小さく開いたり閉じたりしています。声は出ないのに、口の動きだけが「ここにいる」と言っていました。

 幹夫の胸の奥が、きゅうっと縮みました。

 縮んだところへ、すぐ別のものが来ました。熱いもの。あわてたもの。責任みたいなもの。幹夫は、手を出したいのに、手が怖かったのです。

 ――触ったら、壊れるかもしれない。 ――触らなかったら、もっと壊れるかもしれない。

 どっちも怖いとき、人は息が浅くなります。幹夫もそうでした。息が薄いと、世界が急に遠くなる。遠くなると、雛はますます小さく見えて、ますます守れそうにない。

 幹夫は、両手をいちどズボンで拭いてから、雛をそっと包みました。包んだ瞬間、驚くほど軽い重さが掌に乗りました。軽いのに、胸の中がどん、と重くなる。

 雛の体は、まだ“空”の形を知っていない感じがしました。空に向かう前の、土のにおいのする柔らかい命。

「……落ちたのか」

 幹夫は小さく言いました。言うと、声が自分の耳に返ってきて、余計に現実になりました。

 頭の上で、燕が一度、鋭く鳴きました。ちちっ。 鳴き方が、怒っているようでもあり、泣いているようでもありました。

 幹夫は雛を抱えたまま、軒のある家の前を見上げました。高いところに、泥の巣がありました。巣のふちに、もう一羽、もう一羽と、雛らしい影が見えます。影は口を開けて、空に向かって揺れていました。

 ――あそこに戻さなきゃ。

 そう思った瞬間、幹夫の胸に、別の怖さが刺さりました。

 ――でも、戻せない。

 幹夫は八つ。手は小さく、巣は高い。背伸びをしても届かない。届かないことが、こんなに悔しいとは思いませんでした。悔しさは涙にならず、喉の奥で固い石になりました。

 そのとき、後ろから足音がしました。ぱたぱた、と軽い足音。こういちでした。こういちは、袖をまくり、手首を出して、息を少し弾ませていました。

「幹夫、何――」

 こういちは幹夫の腕の中を見て、言葉の途中で止まりました。止まった沈黙が、暑い空気の中でひとつの影になりました。

「……燕?」「うん。落ちてた」

 幹夫の声は、思ったより低く出ました。低い声は、泣きそうなときの声です。泣きたいわけじゃないのに、泣きそうになるのは、自分の力の小ささが急に見えてしまったからでした。

 こういちは雛を覗きこんで、唇を少し噛みました。

「戻す?」「……戻したい。でも届かない」

 言った瞬間、幹夫の胸の石が、さらに硬くなりました。言葉にしたら、できないことが本当に“できない”として立ち上がってしまうのです。

 こういちは、巣を見上げ、周りを見回し、それから言いました。

「ばあちゃんに言おう。梯子とか、何かあるかも」

 梯子。 その言葉は、幹夫の胸の中に、細い線を一本引きました。線が引かれると、そこを辿れる気がします。辿れる気がすると、息が少し戻ります。

 二人は雛を落とさないように、家へ急ぎました。道の土は暑く、影は薄く、でも雛の体は掌の中で冷たくなりすぎないように、かすかに温かかった。

 祖母は縁側で、豆を選っていました。豆は小さな石みたいで、けれど石よりずっと柔らかい音を立てます。ころ、ころ。幹夫はその音に、少しだけ安心しました。

「ばあちゃん……!」

 幹夫が雛を見せると、祖母は眉をひとつ上げました。でも驚いた声は出しませんでした。驚きすぎると、命は驚いて縮んでしまう、と知っている人の顔でした。

「落ちたかい。暑い日には、巣の泥も乾いて、割れやすいからねえ」

 祖母は手を洗い、清い指先で雛をそっと受けました。受けた瞬間、祖母の掌が、雛の震えを吸い取るように静かになりました。幹夫は、その静かさが羨ましくて、同時に、少し悔しくなりました。自分の手は、まだこんなふうに落ち着けない。

「触ると、親が捨てるって……ほんと?」とこういちが言いました。

 祖母は、ふっと鼻で笑いました。

「匂いなんかで捨てやしないよ。親はね、目と耳で探すんだ。泣き声と、口の動き。生きてる合図を探す。人間の勝手な言い伝えで、命を遠ざけちゃいけない」

 祖母は、縁側の端に立てかけてあった古い梯子を指さしました。納屋の屋根を直すときに使う、竹の梯子です。節が丸く、ところどころ黒ずんで、でもまだしっかりしている。

「これで戻そう。二人とも、落ち着いて。急ぐと手が滑る。滑ると心がもっと滑る」

 祖母の言い方は、叱るでも急かすでもなく、ただ“道”を作る言い方でした。幹夫はその道の上に、足を置くことができました。

 三人で外へ出て、梯子を軒下へ運びました。竹の梯子は、持つと意外に重く、重いのに、重さが頼もしい。頼もしい重さは、心を支える重さです。

 祖母が梯子を押さえ、幹夫が雛を抱え、こういちが下で見上げました。

「幹、ゆっくり。雛は、風みたいに軽いけど、預かりものだからね」

 預かりもの。 その言葉を聞いたとき、幹夫は、蛍を返した夜を思い出しました。預かって、返す。返しても、光の通った跡は残る。あのときの胸の灯が、今日、また別の形で点いた気がしました。

 幹夫は梯子を一段、二段、上りました。竹がきし、と鳴ります。鳴る音が怖い。怖いけれど、鳴る音は「生きてる梯子」の音です。生きてるものは鳴る。鳴るのは壊れる前触れじゃなくて、耐えている証拠でもある。

 巣の近くまで来ると、燕の親が、ちちっ、と頭の上をかすめて飛びました。風が頬を叩き、雛が掌の中で、かすかに震えました。

 幹夫の胸の奥が、またきゅっと縮みました。

 ――怒ってる。 ――ぼくが、雛を取ったから。

 そう思うと、胸が痛い。痛いのに、手は離せない。離したら落ちる。落ちたら――もう。

 幹夫は、巣のふちへ雛をそっと近づけました。巣の中の雛たちが、いっせいに口を開けました。口の中は夕方の桃みたいに赤くて、赤いのに、どこか空っぽに見えました。空っぽは、受け取りたい空っぽです。

 幹夫は雛を巣の中へ置きました。

 置いた瞬間、雛は巣の泥に体を沈め、ふるふると一度震えて、それから、口を大きく開きました。声はまだ弱い。けれど口の形が、「戻った」と言っていました。

 幹夫の息が、やっと深くなりました。深い息は胸の中の石を少し溶かします。溶けた石は、涙になるかと思いました。けれど今日は、涙より先に、胸の奥が温かくなりました。

 幹夫が梯子を降りると、親燕が巣へ入り、すぐ出て、また入って、何度も何度も往復しました。口の中から小さな虫の影が見えました。親は迷いません。迷わないのは、強いからだけじゃない。迷っている暇がないほど、目の前の命が確かだからです。

 こういちは小声で言いました。

「……戻ったね」「うん」と幹夫は言いました。

 「戻った」という言葉を言うとき、幹夫の胸のどこかが、ちくりとしました。父のことを思い出したからです。父も戻ってほしい。戻ったらいい。戻らない日もある。戻らない日は、待つしかない。

 でも、今日、ひとつだけ確かなことがありました。

 “戻せるもの”がある、ということ。

 戻せるものを戻せた日は、心が少しだけ、まっすぐになります。

 夕方、風が畦道からのぼってきて、みかんの葉をいっせいに裏返しました。白い裏がちらちら光り、それはまるで、山のほうから来た風が「見えないところも見せていい」と言っているみたいでした。

 幹夫は縁側に座り、さっきまで自分の掌にいた雛の軽さを思い出していました。軽さはもうありません。けれど掌の真ん中に、薄い輪郭だけ残っています。輪郭は、握った跡ではなく、支えた跡でした。

 窓辺には、青いガラスの星、割れた貝の星座の箱、空の蛍瓶、虹の海硝子、それから小さな竹に結んだ短冊が、風にさらり、と揺れていました。短冊の紙音は、燕の羽音に少し似ています。紙も羽も、風を受けると鳴るのです。

 祖母が、湯呑みを置いて言いました。

「幹、今日はよくやった。ああいうのはね、助けたっていうより、返したっていうんだよ。命は空のものだからね」「空のもの……」「うん。空へ返す道を、ちょっとだけ貸してやった。梯子をね」

 幹夫は、胸の中でその言葉を転がしました。梯子。返す道。貸す。

 貸す、というのは、持ち続けないことです。持ち続けないのは冷たいことじゃなくて、ちゃんと相手の場所へ戻すこと。

 幹夫は、胸の奥の空洞をそっと思い出しました。空洞はまだあります。でも今日の空洞は、冷たい穴ではなく、風が通る“空への筒”みたいに感じられました。筒があると、息が通る。息が通ると、言葉が出る。言葉が出ると、ひとつひとつの気持ちが、ちゃんと自分の場所へ帰れる。

 夜、窓辺の青い星が、風でからり、と鳴りました。 その音は、燕の巣の下で聞いた羽音と重なって、幹夫の胸をやさしく撫でました。

 幹夫は布団に入り、目を閉じました。耳をすますと、遠くで汽車がことこと鳴り、もっと遠くで波がしゅう、と引きました。軒の下では、燕の巣が静かに息をしているようでした。

 幹夫は心の中で、小さく言いました。

 ――父さんも、きっと、どこかの空の下で息をしてる。 ――戻る梯子が必要な日が来たら、ぼくの胸は、また道を作れるかもしれない。

 そう思うと、眠りはすぐそこへ来ました。 眠りの入口で、短冊がもう一度、さらり、と鳴りました。 それは、空へ向かう小さな梯子の音でした。

 
 
 

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