燕の小さな梯子
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 9分

七月の蒲原は、昼の熱をいったん畑に預けておいて、夕方になるとそれをそっと引き出してきます。みかんの葉は、裏の白い粉をちらちら見せながら揺れ、土の匂いは湿ったパンのようにふくらんで、道ばたの石ころまで汗をかいているみたいでした。海の方では波が低く、白い泡が短く縫うように砂に線を引いては、すぐほどけていきます。
幹夫は八つ。学校の帰り、ランドセルの肩紐が、いつもより肩に食い込む気がしていました。重たいのは教科書のせいだけじゃない、と幹夫は知っていました。胸の奥にある、言葉にならないものが、暑さでふやけて、形が大きく見える日があるのです。
踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと通っていきました。窓の灯は昼間でも薄く見え、幹夫の目にはそれが、遠い町の“ひとの気配”みたいに見えました。
そのとき、頭の上で、ちちちち、と小さな音がしました。燕です。軒の下を矢のように飛び、ふいに止まって、また飛んでいく。燕の飛び方は、まっすぐで、迷いがなくて、幹夫はいつも少し羨ましくなります。あんなふうに心が切れ味よく空を割れたら、胸の中の綿も、もたもたしないのに。
幹夫が家の近くの路地へ曲がったとき、足もとで、かすかな“ざり”という音がしました。砂利の上で、何かがほんの少し動いた音。幹夫は反射のように足を止めました。
砂利の間に、小さな灰色のかたまりがありました。
最初、落ちている葉っぱだと思いました。けれど、葉っぱにしては柔らかすぎる影で、影にしては温かい色をしていました。幹夫がしゃがむと、そのかたまりが、ふるふる、と震えました。
燕の雛でした。
羽はまだ途中で、毛は濡れた綿のようにまとまっていて、首だけが細く伸び、口が小さく開いたり閉じたりしています。声は出ないのに、口の動きだけが「ここにいる」と言っていました。
幹夫の胸の奥が、きゅうっと縮みました。
縮んだところへ、すぐ別のものが来ました。熱いもの。あわてたもの。責任みたいなもの。幹夫は、手を出したいのに、手が怖かったのです。
――触ったら、壊れるかもしれない。 ――触らなかったら、もっと壊れるかもしれない。
どっちも怖いとき、人は息が浅くなります。幹夫もそうでした。息が薄いと、世界が急に遠くなる。遠くなると、雛はますます小さく見えて、ますます守れそうにない。
幹夫は、両手をいちどズボンで拭いてから、雛をそっと包みました。包んだ瞬間、驚くほど軽い重さが掌に乗りました。軽いのに、胸の中がどん、と重くなる。
雛の体は、まだ“空”の形を知っていない感じがしました。空に向かう前の、土のにおいのする柔らかい命。
「……落ちたのか」
幹夫は小さく言いました。言うと、声が自分の耳に返ってきて、余計に現実になりました。
頭の上で、燕が一度、鋭く鳴きました。ちちっ。 鳴き方が、怒っているようでもあり、泣いているようでもありました。
幹夫は雛を抱えたまま、軒のある家の前を見上げました。高いところに、泥の巣がありました。巣のふちに、もう一羽、もう一羽と、雛らしい影が見えます。影は口を開けて、空に向かって揺れていました。
――あそこに戻さなきゃ。
そう思った瞬間、幹夫の胸に、別の怖さが刺さりました。
――でも、戻せない。
幹夫は八つ。手は小さく、巣は高い。背伸びをしても届かない。届かないことが、こんなに悔しいとは思いませんでした。悔しさは涙にならず、喉の奥で固い石になりました。
そのとき、後ろから足音がしました。ぱたぱた、と軽い足音。こういちでした。こういちは、袖をまくり、手首を出して、息を少し弾ませていました。
「幹夫、何――」
こういちは幹夫の腕の中を見て、言葉の途中で止まりました。止まった沈黙が、暑い空気の中でひとつの影になりました。
「……燕?」「うん。落ちてた」
幹夫の声は、思ったより低く出ました。低い声は、泣きそうなときの声です。泣きたいわけじゃないのに、泣きそうになるのは、自分の力の小ささが急に見えてしまったからでした。
こういちは雛を覗きこんで、唇を少し噛みました。
「戻す?」「……戻したい。でも届かない」
言った瞬間、幹夫の胸の石が、さらに硬くなりました。言葉にしたら、できないことが本当に“できない”として立ち上がってしまうのです。
こういちは、巣を見上げ、周りを見回し、それから言いました。
「ばあちゃんに言おう。梯子とか、何かあるかも」
梯子。 その言葉は、幹夫の胸の中に、細い線を一本引きました。線が引かれると、そこを辿れる気がします。辿れる気がすると、息が少し戻ります。
二人は雛を落とさないように、家へ急ぎました。道の土は暑く、影は薄く、でも雛の体は掌の中で冷たくなりすぎないように、かすかに温かかった。
祖母は縁側で、豆を選っていました。豆は小さな石みたいで、けれど石よりずっと柔らかい音を立てます。ころ、ころ。幹夫はその音に、少しだけ安心しました。
「ばあちゃん……!」
幹夫が雛を見せると、祖母は眉をひとつ上げました。でも驚いた声は出しませんでした。驚きすぎると、命は驚いて縮んでしまう、と知っている人の顔でした。
「落ちたかい。暑い日には、巣の泥も乾いて、割れやすいからねえ」
祖母は手を洗い、清い指先で雛をそっと受けました。受けた瞬間、祖母の掌が、雛の震えを吸い取るように静かになりました。幹夫は、その静かさが羨ましくて、同時に、少し悔しくなりました。自分の手は、まだこんなふうに落ち着けない。
「触ると、親が捨てるって……ほんと?」とこういちが言いました。
祖母は、ふっと鼻で笑いました。
「匂いなんかで捨てやしないよ。親はね、目と耳で探すんだ。泣き声と、口の動き。生きてる合図を探す。人間の勝手な言い伝えで、命を遠ざけちゃいけない」
祖母は、縁側の端に立てかけてあった古い梯子を指さしました。納屋の屋根を直すときに使う、竹の梯子です。節が丸く、ところどころ黒ずんで、でもまだしっかりしている。
「これで戻そう。二人とも、落ち着いて。急ぐと手が滑る。滑ると心がもっと滑る」
祖母の言い方は、叱るでも急かすでもなく、ただ“道”を作る言い方でした。幹夫はその道の上に、足を置くことができました。
三人で外へ出て、梯子を軒下へ運びました。竹の梯子は、持つと意外に重く、重いのに、重さが頼もしい。頼もしい重さは、心を支える重さです。
祖母が梯子を押さえ、幹夫が雛を抱え、こういちが下で見上げました。
「幹、ゆっくり。雛は、風みたいに軽いけど、預かりものだからね」
預かりもの。 その言葉を聞いたとき、幹夫は、蛍を返した夜を思い出しました。預かって、返す。返しても、光の通った跡は残る。あのときの胸の灯が、今日、また別の形で点いた気がしました。
幹夫は梯子を一段、二段、上りました。竹がきし、と鳴ります。鳴る音が怖い。怖いけれど、鳴る音は「生きてる梯子」の音です。生きてるものは鳴る。鳴るのは壊れる前触れじゃなくて、耐えている証拠でもある。
巣の近くまで来ると、燕の親が、ちちっ、と頭の上をかすめて飛びました。風が頬を叩き、雛が掌の中で、かすかに震えました。
幹夫の胸の奥が、またきゅっと縮みました。
――怒ってる。 ――ぼくが、雛を取ったから。
そう思うと、胸が痛い。痛いのに、手は離せない。離したら落ちる。落ちたら――もう。
幹夫は、巣のふちへ雛をそっと近づけました。巣の中の雛たちが、いっせいに口を開けました。口の中は夕方の桃みたいに赤くて、赤いのに、どこか空っぽに見えました。空っぽは、受け取りたい空っぽです。
幹夫は雛を巣の中へ置きました。
置いた瞬間、雛は巣の泥に体を沈め、ふるふると一度震えて、それから、口を大きく開きました。声はまだ弱い。けれど口の形が、「戻った」と言っていました。
幹夫の息が、やっと深くなりました。深い息は胸の中の石を少し溶かします。溶けた石は、涙になるかと思いました。けれど今日は、涙より先に、胸の奥が温かくなりました。
幹夫が梯子を降りると、親燕が巣へ入り、すぐ出て、また入って、何度も何度も往復しました。口の中から小さな虫の影が見えました。親は迷いません。迷わないのは、強いからだけじゃない。迷っている暇がないほど、目の前の命が確かだからです。
こういちは小声で言いました。
「……戻ったね」「うん」と幹夫は言いました。
「戻った」という言葉を言うとき、幹夫の胸のどこかが、ちくりとしました。父のことを思い出したからです。父も戻ってほしい。戻ったらいい。戻らない日もある。戻らない日は、待つしかない。
でも、今日、ひとつだけ確かなことがありました。
“戻せるもの”がある、ということ。
戻せるものを戻せた日は、心が少しだけ、まっすぐになります。
夕方、風が畦道からのぼってきて、みかんの葉をいっせいに裏返しました。白い裏がちらちら光り、それはまるで、山のほうから来た風が「見えないところも見せていい」と言っているみたいでした。
幹夫は縁側に座り、さっきまで自分の掌にいた雛の軽さを思い出していました。軽さはもうありません。けれど掌の真ん中に、薄い輪郭だけ残っています。輪郭は、握った跡ではなく、支えた跡でした。
窓辺には、青いガラスの星、割れた貝の星座の箱、空の蛍瓶、虹の海硝子、それから小さな竹に結んだ短冊が、風にさらり、と揺れていました。短冊の紙音は、燕の羽音に少し似ています。紙も羽も、風を受けると鳴るのです。
祖母が、湯呑みを置いて言いました。
「幹、今日はよくやった。ああいうのはね、助けたっていうより、返したっていうんだよ。命は空のものだからね」「空のもの……」「うん。空へ返す道を、ちょっとだけ貸してやった。梯子をね」
幹夫は、胸の中でその言葉を転がしました。梯子。返す道。貸す。
貸す、というのは、持ち続けないことです。持ち続けないのは冷たいことじゃなくて、ちゃんと相手の場所へ戻すこと。
幹夫は、胸の奥の空洞をそっと思い出しました。空洞はまだあります。でも今日の空洞は、冷たい穴ではなく、風が通る“空への筒”みたいに感じられました。筒があると、息が通る。息が通ると、言葉が出る。言葉が出ると、ひとつひとつの気持ちが、ちゃんと自分の場所へ帰れる。
夜、窓辺の青い星が、風でからり、と鳴りました。 その音は、燕の巣の下で聞いた羽音と重なって、幹夫の胸をやさしく撫でました。
幹夫は布団に入り、目を閉じました。耳をすますと、遠くで汽車がことこと鳴り、もっと遠くで波がしゅう、と引きました。軒の下では、燕の巣が静かに息をしているようでした。
幹夫は心の中で、小さく言いました。
――父さんも、きっと、どこかの空の下で息をしてる。 ――戻る梯子が必要な日が来たら、ぼくの胸は、また道を作れるかもしれない。
そう思うと、眠りはすぐそこへ来ました。 眠りの入口で、短冊がもう一度、さらり、と鳴りました。 それは、空へ向かう小さな梯子の音でした。





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