片方だけの手袋
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

――幹夫青年が「受け取る」練習をする冬――
静岡の冬は、冷たいのに、どこか優しい。 海から来る湿り気が少しだけ空気を丸くして、山の風がそれを細く削っていく。頬に当たる風は痛いのに、空は高くて明るい。
幹夫(みきお)は、冬の朝の空気を吸うといつも、心の奥に小さな鈴が鳴るみたいに不安が立ち上がる。 ――今日もちゃんと、できるかな。 ――誰かを傷つけないでいられるかな。
けれどその日、その不安は“冷たさ”より先に来なかった。 点検用のクリップボードを抱えて歩く足取りが、ほんの少し軽かった。理由は分からない。ただ、空が澄んでいる日は、幹夫の胸の中のざらざらも少し静かになる。
仕事はバス停周りの簡単な点検だった。屋根の金具、ベンチのボルト、掲示板の透明板。 市の委託の仕事は、派手ではないけれど、街の“当たり前”を裏から支える。幹夫はその感じが好きだった。大きな声で褒められなくても、誰かが転ばなければ、それでいい。
河原へ向かう道の途中、古いバス停のベンチに、片方の手袋が落ちているのを見つけた。
毛糸の手袋。指先は少し丸く、色は淡い橙。 手袋の内側に、まだ、温度が残っている。
幹夫はその場で立ち止まった。 拾い上げるだけなのに、胸がきゅっと縮む。
――誰かの手の形が、ここに残っている。 ――誰かの体温が、ここに置き去りになっている。
物として見れば、ただの手袋だ。落とし物だ。 でも幹夫には、その“ただ”ができない。 落としたのが子どもなら、指先はすぐ冷える。 落としたのが高齢の人なら、探しに戻る体力がないかもしれない。
想像は勝手で、しかも暴力になり得る、と幹夫は知っている。 それでも、想像せずにいられない。 拾い上げた瞬間、まるで知らない誰かの手をそっと握ってしまったような気がしたからだ。
幹夫は手袋を胸ポケットに入れた。 その位置が落ち着く。 胸の近くに置けば、残りの温度が逃げない気がして。 自分が勝手に、誰かの温度を守っている気がして。
1 白い蛍光灯の下で、物になる
点検を終えたあと、幹夫は遺失物の窓口へ寄った。 小さな事務室。蛍光灯の白い光。透明な仕切り板。 そこでは、落とし物が“物”として整然と並んでいた。
傘。スマホ。鍵。財布。 薄いビニール袋に入ったぬいぐるみ。 小さな靴下。片方だけ。
幹夫は胸ポケットの手袋に触れた。 急に、呼吸が浅くなる。 ここへ置いた瞬間、この手袋も“列”になる。 番号がついて、期限がついて、持ち主が現れなければ、処分される。
窓口の職員は慣れた手つきで言った。 「落とし物ですね。日付と場所、色、特徴。分かる範囲で書いてください」
幹夫は書類に記入しながら、手袋の匂いを感じた。 毛糸と、少しだけ洗剤の香り。 それから——ほのかに、みかんの皮を剥いたときみたいな匂い。
匂いが急に、胸の奥をやわらかくしてしまう。 誰かの暮らしが想像できる匂いは、危ない。 幹夫の心は、すぐに引きずられる。
記入を終え、袋に入れる直前で、幹夫は職員に尋ねた。 「……これ、持ち主が見つからなかったら、どうなりますか」 「一定期間保管して、引き取りがなければ処分です」
正しい答え。正しい運用。 でもその“正しさ”の中で、温度が冷えていくのが、幹夫には耐えがたかった。
「……すみません。これ、今日中に持ち主を探してみてもいいですか」 自分の口からそんな言葉が出たことに、幹夫自身が一番驚いた。
職員は一瞬だけ困った顔をしたが、次に淡々と頷いた。 「拾得者として連絡先を書いておけば、探してくれて構いません。ただ、個人情報は——」 「分かってます」
幹夫は書類を書き直し、手袋を持ち帰った。 外へ出ると、風が冷たい。 でも胸ポケットの中だけ、微かに温かい。
それが嬉しいのに、少し怖かった。 誰かのために動くとき、幹夫はいつも「良い人」でいようとしてしまう。 良い人でいようとすると、どこかで自分が折れる。 折れた瞬間、優しさが尖る。 それがいちばん嫌だ。
——だから今日は、背伸びしない。 幹夫は自分に言い聞かせた。 探せる範囲で、静かに探す。 見つからなくても、自分を責めすぎない。
そう思ったのに、胸の奥がまだ少し速い。 手袋の温度が、幹夫の心拍まで引っ張るみたいだった。
2 編み目が覚えている道
手袋には、小さな刺繍があった。 手首の内側に、糸で縫われた小さな星。 目を凝らさないと見えないくらいの、控えめな星。
幹夫はその星を見た瞬間、なぜだか涙が出そうになった。 “持ち主にしか分からない目印”が、この世界にはちゃんとある。 誰かが誰かを想って作った印が。
幹夫はバス停の周辺をもう一度歩き、近くの商店に声をかけた。 八百屋。小さな理髪店。文房具屋。 「すみません、片方の手袋、見かけませんでしたか」 どこも首を振る。
幹夫は、次に手芸店へ行った。 駅前の路地にある、古い店。毛糸の色が窓に並んでいる。 店内は暖かく、毛糸の匂いがする。
レジの奥にいた女性が手袋を見るなり、目を細めた。 「……あら。これ、うちの毛糸だわ」 その声は驚きより、懐かしさに近かった。
幹夫は思わず前のめりになった。 「分かるんですか」 「色味がね。ほら、これ。去年の冬に入ったロットで、少しだけ橙が柔らかいの」
女性は棚の毛糸を少し引き出して、手袋に当ててみせた。 たしかに、同じ色だ。 幹夫の胸が、少しだけ軽くなる。
「この星の刺繍、うちの“教室”で流行ったのよ。みんな、目印にちいさい星を縫ってた」 「教室……?」 「近くの施設でね。編み物の会。お年寄りも、若いお母さんも来る。あ、もしかして……」
女性は顎に指を当てて考えたあと、紙に住所を書いた。 「安倍川のほうの、“ひだまりケア”ってところ。そこかもしれない」
幹夫は紙を受け取り、何度も頭を下げた。 「ありがとうございます。……本当に」
女性は少し笑って言った。 「手袋ってね、片方になると急に寂しそうに見えるのよね」
幹夫は、その“寂しそう”の感覚が分かりすぎて、うまく返事ができなかった。
3 窓辺の人と、右手の居場所
ケア施設は川沿いの道にあった。 建物は新しくないけれど、玄関先の鉢植えが丁寧に並んでいる。 幹夫はインターホンを押す前に、胸ポケットの手袋を一度握った。
温度はもう薄い。 それでもまだ、温かさの“名残”がある。 名残があるうちに返したい、と幹夫は思った。 勝手な願いだ。でも、そう思ってしまう。
受付の職員に事情を説明すると、若い介護士が奥から出てきた。 名札に「真由(まゆ)」とある。 真由は手袋を見るなり「あ……!」と声を上げた。
「それ、春江さんのだと思います」 「春江さん?」 「お散歩のとき、片方なくしちゃって。ずっと探してたんです。本人も落ち着かなくて……」
“落ち着かない”。 その言葉が、幹夫の胸をやさしく刺した。 自分のことのようだったから。
幹夫は施設の廊下を案内され、窓辺の小さなスペースへ通された。 そこに、白髪の女性が座っていた。春江さん。 外を見ている。 視線は遠く、でも手だけが落ち着かない。膝の上で、指が何度も握ったり開いたりしている。 まるで、片方の手の“居場所”を探しているみたいに。
真由が優しく声をかけた。 「春江さん、手袋、見つかったよ」
春江さんはゆっくり振り向いた。 幹夫のほうを見る。 でも幹夫の顔ではなく、幹夫の胸ポケットを見る。
幹夫はそっと、手袋を差し出した。 「……落ちてました。ここまで持ってきました」
春江さんは手袋を受け取ると、手のひらでゆっくり撫でた。 撫で方が、まるで生き物を安心させるみたいだった。 それから、小さく笑った。
「あら……右手が帰ってきたのね」
その言葉が、幹夫の胸の奥にすっと入った。 右手が帰ってくる。 帰る場所がある。 居場所がある。
春江さんは、幹夫の手を見て言った。 「あなたの手も、寒かったでしょう」
幹夫は反射的に「そんなことないです」と言いかけた。 いつもの癖だ。自分の寒さを否定する癖。 でも今日は、言葉を飲み込んだ。
春江さんは、手袋を片方だけ嵌めた。 そして空いている方の手で、幹夫の手をそっと包んだ。
驚くほど、温かかった。 年老いた手は冷たいものだと、勝手に思い込んでいた。 でもそれは偏見だった。 この手は、ちゃんと温かい。 人を怖がらせない温度で、人の手を包む温度。
幹夫は、胸の奥がほどけていくのを感じた。 ほどけるのが怖いのに、ほどけたい。 その矛盾が、いまは不思議と痛くなかった。
真由が少し離れたところで言った。 「春江さん、その手袋ね、編み物の会で作ったんです。星の刺繍、春江さんが自分で縫ったの」 春江さんは誇らしげに頷いた。 「星はね、落とさないための印よ。……でも落としたわねえ」
その自嘲の笑いが、どこか愛おしかった。 落とす。忘れる。なくす。 それでも、戻ってくるものがある。 人の手が運べば。
4 帰り道、胸ポケットが軽い
施設を出ると、風が冷たかった。 でもさっきまで感じていた“刺す冷たさ”ではない。 冷たいけれど、耐えられる冷たさ。
胸ポケットは空だ。 手袋の温度はもうない。 けれど幹夫の胸の内側には、別の温度が残っていた。 さっきの手の温かさが、皮膚の奥に薄く染みている。
幹夫は川沿いを歩きながら、ふと思った。 自分は、誰かの温度を守りたくて動いた。 でも本当は、自分も温度を探していたのかもしれない。 温められることを、ずっと怖がっていたのかもしれない。
“受け取る”のは、勇気がいる。 受け取った瞬間、失う怖さが生まれるから。 でも——受け取らなければ、いつまでも寒いままだ。
幹夫は空を見上げた。 冬の光は、薄い。 薄いのに、ちゃんと明るい。 それが、なんだか慰めに見えた。
明日もたぶん、幹夫は小さな不安を持って朝を迎える。 でもその不安の隣に、今日みたいな温度を置ける気がした。 片方だけの手袋が教えてくれたのは、 「誰かの居場所を探すことは、自分の居場所を探すことにもなる」という、静かな事実だった。
幹夫は歩きながら、心の中で小さく言った。 ――右手が帰ってきた。 ――なら、いつか自分の心も、帰ってこられる。
そう思えたことが、今日いちばんの“拾いもの”だった。





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