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犬の散歩と磁力線の地図(舞台:静岡市清水区 御門台)


 幹夫青年は、御門台の夜の坂を、すこしだけ迷ひながら歩いてゐました。

 迷ひといっても、道に迷ったのではありません。

 胸の中のことばの行き先に、迷ってゐたのです。



 冬の空気は透明で、すこし硬く、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中でいちど膨らみ、それから闇の方へほどけて消えました。

 消えるのに、あたたかい。

 幹夫は、また思ひました。



 (ことばも、白い息みたいならいい。

  出て、消えて、でも少しあたたかい。)



 けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。

 冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。



 ――「遅い。」

 ――「いまさら。」

 ――「でも言はないと、もっと遅い。」



 そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。

 机の上には、送られないままの短い文が、切符みたいに何枚も並んでゐるのです。



 御門台の道は、夜になると線が増えます。

 電線の線。

 フェンスの線。

 塀の線。

 道路の白線。

 そして、風が通る線。



 幹夫は、その線の多さが、ふいに理科室の磁石を思ひ出させました。

 馬蹄形の磁石の上に、紙を置いて、鉄粉をふると、粉が勝手に線を描く――あの実験です。

 線は見えない磁力線の形を、鉄粉が代りに見せてしまふのです。



 (この町にも、見えない線がある。)

 (その線を、だれかが見せてくれたら。)



 幹夫がそんなことを思ったとき、前の角から、こつ、こつ、と足音が来ました。

 足音は一定で、急がず、遅れず、まるで時計の秒針みたいに正確でした。



 やがて角から、犬が現れました。

 中くらゐの犬で、毛が冬の空気を吸って、すこしふくらんでゐます。

 首輪から伸びたリードが、街灯の下で細い銀の線になってゐました。

 犬のあとに、年配の人がゆっくり歩いてゐます。

 歩き方が落ち着いてゐて、坂の傾きとよく馴染んでゐました。



 犬は、幹夫の前へ来ると、ぴたりと止まり、鼻を上げました。

 鼻先が、空気の見えない匂ひを、すうっと吸ひ込む。

 その吸ひ込み方が、まるで「測定」みたいに正確でした。



 犬は、ふいに右へ行かず、左へも行かず、まっすぐ前へ、きゅっと一歩出ました。

 そして、電柱の根元へ行って、鼻を寄せました。

 寄せて、くん、と嗅ぎ、すぐに顔を上げました。



 (決まった。)



 幹夫は、その瞬間を見て、ふしぎに思ひました。

 犬は、迷はない。

 迷はないのに、急がない。

 急がないのに、必ず「行く」。

 その態度が、星の運行みたいでした。星は急がないのに遅れません。



 年配の人が、幹夫に向かって会釈しました。



「こんばんは」



 幹夫も、反射で言ってゐました。



「こんばんは」



 挨拶は短い。短いから、胸の裁判官が机を叩く前に、空気をやわらげます。



 犬は、また鼻を地面へ向け、少しだけ左へ曲がりました。

 リードの銀の線も、犬の動きに合わせて、なめらかに弓なりになりました。

 その弓なりが、さっきの磁力線の図にそっくりでした。

 見えない力のまはりを、線が見せてしまふ――あの感じです。



 (磁力線の地図だ。)



 幹夫は、胸の中でそう呼びました。

 御門台の坂の上から、地球の磁石が、見えない線を引いてゐる。

 犬は、その線の上を、鼻でなぞって歩いてゐる。

 だから迷はない。

 迷はないから、呼吸も止まらない。



 年配の人が、犬の頭を軽く撫でながら言ひました。



「この子ね、道をよく覚えてるんだよ。こっち行く日、こっち行く日って、自分で決める」



 幹夫は、犬の鼻先を見ました。

 鼻先は、さっきと同じやうに、空気の中へ「一本の方向」を出してゐます。

 自分で決める。

 決める、といふのは、長い議論をすることではない。

 犬は、くん、と嗅いで、すうっと行くだけです。



 幹夫の胸の裁判官が、また机を叩きかけました。



 ――犬と人間は違ふ。

 ――お前は言葉が絡まる。

 ――説明が要る。

 ――遅れた理由を並べろ。



 けれど犬は、そんな机の音など聞きませんでした。

 ただ、鼻で線を拾ひ、線の上を歩いてゐます。

 その歩き方が、幹夫の胸の中の“言ひ訳の糸”を、少しずつほどいてしまふやうに見えました。



 犬は、ふいに立ち止まりました。

 そして、こちらを見ました。

 目は暗いのに、街灯を拾って、琥珀みたいに光りました。

 その目が、幹夫に向かって、こう言ってゐるやうに見えました。



 (線を一本にしろ。)

 (一本なら、行ける。)



 幹夫は、ふうっと息を吐きました。

 白い息が、犬と自分のあひだの空気へ出て、すこしだけ左へ引かれて、細い線になって消えました。

 消えるのに、方向が残る。

 それが、たまらなくありがたかった。



 年配の人が、笑ひました。



「寒いと息が見えるから、犬の気持ちも見える気がするね」



 幹夫は、その言葉に、こくりとうなづきました。

 見えるものが増えると、人は少しだけ楽になります。

 楽になると、余計な言ひ訳が減ります。

 減れば、短いことばが残ります。



 犬と年配の人は、ゆっくり去って行きました。

 リードの銀の線が、角を曲がるとき、いちどだけ弓なりに伸びて、すぐ闇に溶けました。

 その溶け方が、白い息と同じでした。

 出て、消えて、でもあたたかい。



 幹夫は、その場で立ち止まり、御門台の電線の黒い線を見上げました。

 線は星の下へ走ってゐます。

 見えない磁力線も、その下で走ってゐるはずです。

 なら、胸の中のことばにも、きっと線がある。

 絡まった糸をいきなりほどくのではなく、一本の線だけ拾へばいい。



 (一本だけ。)



 幹夫はポケットからスマホを出しました。

 画面の白い光は正確で、すこし厳しい。

 けれど今夜は、犬のリードの銀の線と、白い息の方向が、その白さに薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。

 にじむ白は叱りません。

 にじむ白は、短いものを通します。



 幹夫は長い文を書きませんでした。

 犬の散歩だって、道を全部説明しない。

 鼻先で一本を決めて、歩くだけです。

 なら、ことばも一行でいいのです。



 幹夫は、たった一行だけ打ちました。



 ――「御門台で犬の散歩を見た。リードが磁力線みたいで、一本だけ進めばいいって思った。元気?」



 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。

 汽笛は鳴りません。

 でも、犬が迷はずに歩くみたいに、ことばが一本、外へ通ったのです。



 幹夫青年は、御門台で大きな奇跡を見たわけではありません。

 ただ、犬の鼻先とリードの線に、見えない地図を見て、ひとこと送っただけです。

 けれど、その“一本だけ”があると、夜の坂は少しだけのぼりやすくなります。

 御門台の見えない磁力線は今夜も静かに走りながら、ひとりの胸の中の針を、そっと北へ向けてゐたのでした。

 
 
 

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