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狐ヶ崎の尾灯

 

朝の狐ヶ崎(きつねがさき)は、鉄の匂いに柑橘の皮をひとすじ擦りこんだみたいな空気でいっぱいでした。静鉄の小さな車体が、線路のくぼみを一度だけやさしく撫で、ホームの白線は新しい定規のように光っています。八歳の幹夫は、駅名標〔狐ヶ崎〕の「狐」の字を見上げながら、コンクリートの粒を三つひろって、ささやかな三角の耳を並べていました。踏切の赤い目はまだ眠そうで、電線は細い五線譜になって、どこか遠くの雲を静かに支えています。

 そのとき、ホームの端を吹き抜けた風が、油揚げ色の小さな封筒を、幹夫の足もとへするりと置いていきました。封筒は笹の葉の手ざわりで、金いろの細い字が葉脈みたいに走っています。

 — 至急 有度(うど)の風郵便 狐ヶ崎分室  昨夜の熱風により、駅の「尾灯(びとう)」の芯一本ほつれ。  このままでは、夕方に赤が点かず、列車の影が道に迷います。  正午までに芯を撚(よ)り直すこと。  必要物:丸い音を三片(さんぺん)。   ①踏切の一打(いちだ)の前にある「しずか」の丸   ②ラムネ瓶の玉(たま)が落ちる「ぽん」の丸   ③むかしこの町で回った観覧車の、鳴らない「黙(もく)」の丸  提出先:架線柱の上 狐の尾灯台(びとうだい)

「尾灯の芯……?」

 声に出して読むと、ホームの端のベンチの陰から、白い先だけ光る尾が、すっとのびてきました。つづいて、赤い小さな前掛けをした子ぎつねが、駅のベンチから軽やかに飛び降ります。毛並みは朝の影色で、目は金いろの小さな鈴のようでした。

「案内の子ぎつねです。狐ヶ崎の『狐』は駅じゅうのきれいな音を集めて尾灯をともすのだけれど、昨夜の熱で芯がほどけてしまった。尾灯が点かないと、電車の後ろが夜に入ってゆけない。君、手伝ってくれる?」

 幹夫はうなずいて、ランドセルの横ひもを確かめました。ポケットには、給食袋の細い紐が一本入っています。

「では、丸い音を三つ集めよう。最初は踏切の『しずか』だ」 子ぎつねは尾で踏切をさしました。「鐘が鳴るその、ほんの少し前。町じゅうが息をそろえる、その丸い静けさを」

 踏切は、車のいない朝の道に細い影の格子を落とし、赤い目を一度だけ強く光らせました。幹夫は胸の中で息を止め、鐘の前ぶれが町の耳たぶからはがれる一瞬を待ちます。カン、と鳴るその手前、空気がまるく膨らむ気配が、たしかにありました。幹夫は給食袋の紐の輪に、その「しずか」をそっと受けとめます。紐は一度だけひんやりして、薄い水の玉を抱いたみたいに重くなりました。

「一本め、確保」 子ぎつねが尾をひと振りすると、踏切の影が小さく笑いました。「次はラムネの玉。駅前の売店で、夏の丸い音を一つもらおう」

 売店の棚には、ガラスの青がいくつか立っていました。瓶の首は朝の光をすこし集め、口では薄い輪が眠っています。幹夫が百円玉を渡し、栓の器具を押し込むと、玉は「ぽん」と胸の奥に跳ね返るような音で落ちました。その音は冷たく、透明で、すこし甘い。幹夫は紐の輪を瓶の口に重ね、その「ぽん」をひとしずく受けて結び目を作りました。紐の重さは、さっきよりも少しだけ夏になりました。

「二本め、良い音だ」 子ぎつねは前掛けの端を整え、目を細めました。「最後は、むかし回った観覧車の『黙』。風は覚えている。駅の北の空き地に、まだ『回る』の輪郭が立っている」

 幹夫と子ぎつねは、線路沿いの道を北へ歩きました。門のない空き地に入ると、草は膝の少し下でやわらかく擦れ合い、空だけが大きく開けています。そこに、輪がひとつありました。鉄でも木でもない、空でできた輪。誰もいないのに、幹夫はブロンズの座面のあたたかさや、風に擦れるボルトの匂いを、なぜか少し知っている気がしました。

「ここにあるのは、鳴らない『まわる』の黙」 子ぎつねは輪の下に座り、耳をたてます。「夏の午後、何度も回って、やがて止まり、そのまま空へ混ざった音。丸いのに、音がない。それを、君の紐でひとすじ、結んでおくれ」

 幹夫は輪の中心を見上げ、指先で空気を丸く撫でました。たしかにそこに、音の代わりに、やわらかな沈黙がたまっています。紐の輪をそっと差し入れると、沈黙は抵抗せず、むしろ人差し指に触れて「ありがとう」と言った気がしました。紐は三つの丸を抱えて、すこしだけ重たく、でもやさしくなりました。

   *

 駅に戻るころ、正午の光が、ホームの屋根の端で薄い白を増やしていました。子ぎつねは、架線柱の足元で立ち止まります。

「ここから上へ登れば、尾灯台(びとうだい)。風にだけ見える梯子(はしご)を三段だよ」

 幹夫は子ぎつねの尾をつかまないように気をつけながら、見えない梯子を足さきで探し、そっと登りました。三段めの先は、青い空の中に開いた小さな踊り場。風見のような杭が一本、そこに立ち、先端に豆のようなガラスの二つ穴——列車の尾灯が、眠たそうに伏せています。はめ込まれた芯は一本だけがほどけ、糸のように頼りなく揺れていました。

「丸い音を撚り合わせて、新しい芯を作ろう」 子ぎつねが言います。「しずか」「ぽん」「黙」。どれも丸くて、火にやさしい」

 幹夫は膝に紐を広げ、三つの丸をそっと近づけました。最初はそれぞれが別の方向へ転がろうとしましたが、次第に丸どうしが寄り添い、紐に沿ってひとすじの白い芯になっていきます。指で撚るたび、芯は小さく「り」「ん」「り」と鳴って、やがて一本の細い柱になりました。よく見ると、芯の中を、踏切前の息、ラムネの泡、観覧車の空が、ゆっくりと流れています。

「さあ、取りつけて」

 幹夫は深呼吸をして、ほどけた古い芯をそっと外し、いま作った白い芯を尾灯の座に差し込みました。すると、尾灯がいちどだけ、ひそやかに呼吸します。ガラスの中で赤が薄く生まれ、まだ昼なのに、点きたい気持ちをがまんして、豆のような眠りに戻りました。どこか遠くで、海の匂いが一枚、丘を渡ります。

「できた」 子ぎつねは尾を丸くして、足もとを一度だけ回りました。「赤は夕方まで眠るけれど、もう迷わない。列車の影は夜に入れる」

 幹夫は踊り場から町を見下ろしました。線路は細い銀の蛇のように伸び、ホームの白線は昼の上に新しい定規を置いています。遠くの空き地の輪は、さっきよりも透きとおって、青の中で形だけを大事にしていました。

「お礼に、切手を一枚」 子ぎつねが前掛けから取り出したのは、透明な小さな切手でした。そこには豆のような二つの赤い点が、向かい合って描かれています。光にかざすと、その間を一本の白い芯が通っているのが見えました。

「『尾灯』の切手。胸の中の一日の終わりがうまく赤くならないとき、貼ってごらん。君の『ただいま』が、ちゃんと夜に入れる」

   *

 踊り場を降りると、ホームにちょうど列車が入ってきました。ドアはやわらかく開き、乗り込む人の影が、床の上で短い魚の群れみたいに動きます。幹夫は一駅分だけ乗って、次の陽炎の階段で降りました。窓から振り返ると、列車の後ろに、赤い豆が二つ、昼の光のなかで小さく眠りの体操をしているのが見えました。

 駅前で、幹夫はラムネの残りを飲み干し、青い瓶を光にかざしました。玉は首もとでまた一度だけ小さく鳴り、瓶の中の夏をひとつ閉じました。踏切の鐘は、さっきよりも落ち着いた調子で町を渡り、電線の五線譜は、昼の音符を少しだけ右へと並べ直しました。

 家の門をくぐって、幹夫は大きな声で言いました。「ただいま」

 その「ただいま」は、尾灯をいちど通ってきたみたいに、ひっかかりがありませんでした。台所から「おかえり」という返事が、赤くも青くもない、ちょうどいい色で返ってきて、味噌汁の湯気が柱の木目をやさしく登ります。胸の中の切手がいちどだけ淡く光り、見えない列車の最後尾が、そっと居間に入りこんできた気がしました。

 夕方。狐ヶ崎の空は、柑橘を薄く剥いた皮のように金に近づき、ホームの白線は、西の端で柔らかく溶けました。列車が発車し、背中の赤い豆がふたつ、こんどははっきりと灯ります。赤はたしかな合図で、町の影はそれぞれの家に帰っていきました。空き地の輪は、茜(あかね)の色の中でいちどだけ輪郭を濃くしてから、静かに夜へ混ざっていきます。

 夜。踏切の赤い目は合図を忘れず、ときどき眠たそうに瞬(またた)きます。電線は夜の譜面に変わり、尾灯の赤は、坂のカーブで小さく身をかがめ、また持ち上がります。駅名標の「狐」は、風の耳を揺らしながら、字の中で一度だけ小さく礼をしました。

 枕に頭をのせると、幹夫はもういちど、架線柱の踊り場に立っている気がしました。子ぎつねは風郵便の鞄を肩に、赤い豆の明滅を数えています。遠いところで、むかしの観覧車が音のない輪を一度だけ回し、ラムネの玉は瓶の首で、昼の泡の夢を見ています。

「ねえ、尾灯さん」 夢の中で幹夫がたずねると、赤い豆は静かに答えました。「昼の終わりは、だれにでも難しい。だから丸い音を少し集めて、芯を撚り、胸の中に赤をともすんだよ。君の『おやすみ』が迷わないように」

 朝。狐ヶ崎は、また鉄の匂いに柑橘のささやきを混ぜて目を覚ましました。静鉄の車体は昨日より涼しい音で滑り、踏切の前には丸い「しずか」が小さな皿のように並びます。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくりと学校へ向かいました。尾灯の芯は、指先の記憶のなかで、今日も細くまっすぐに立っていました。

 
 
 

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