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狐ヶ崎発、死体は終電に笑う――ヤングランド0番線殺人時刻表

※この物語はフィクションです。実在の地名・駅名を舞台にしていますが、人物・事件・時刻・施設描写は創作です。

終電五分前の狐ヶ崎駅は、雨に濡れた鉄の匂いがした。

静岡鉄道のホームに、電車を待つ客は少なかった。部活帰りの高校生、傘を抱いた会社員、イヤホンをして俯く若い女。誰もが自分の明日だけを見ていた。

だから、ベンチに座っている男が死んでいることに、最初は誰も気づかなかった。

男は背広姿だった。両手を膝に置き、背筋を伸ばし、まるで電車を待っているように見えた。だが顔には、狐の面がかぶせられていた。

狐の口は赤く笑っていた。

胸ポケットには、古びた半券が差し込まれていた。

狐ヶ崎ヤングランド ご招待券

その裏に、黒いペンで時刻が書かれていた。

二十一時十七分。新清水行き。

清水署刑事課の望月竜吾が現場に着いたとき、雨はさらに強くなっていた。

「ふざけやがって……」

望月は拳を握りしめた。

彼は四十二歳。声が大きく、走るのが早く、怒るのはもっと早い。若手からは煙たがられ、遺族からはよく泣きつかれた。事件現場で冷静になれない刑事は二流だ、と何度も言われてきた。

だが望月は、死者の前で冷たくなれる人間のほうが信用できなかった。

隣に立つ若手刑事、三枝真希が、濡れた前髪を耳にかけながら言った。

「身元が出ました。倉田英紀、六十八歳。かつて狐ヶ崎ヤングランドの施設管理責任者だったそうです」

「ヤングランド……」

望月の眉が動いた。

狐ヶ崎駅の近くにあった遊園地。観覧車、豆汽車、スケートリンク、古いゲームセンター。いまは跡形もなく、店や駐車場や新しい建物に上書きされている。それでも清水で育った人間にとって、ヤングランドという名は、消えた子供時代の匂いを持っていた。

真希が続けた。

「死亡推定時刻は二十一時十七分前後。胸の紙に書かれた時刻と一致します」

「偶然なわけがない」

そのとき、望月のスマートフォンが鳴った。

非通知。

出ると、電子音で加工された声が笑った。

『清水署の皆さん、こんばんは。時刻表は読めますか?』

望月は目を細めた。

「誰だ」

『狐ヶ崎発、死体行き。乗り遅れないでください』

「名前を言え」

『名前? 昔はこう呼ばれていました』

一拍置いて、声は嬉しそうに言った。

MAX

通話は切れた。

同時に、ホームの発車ベルが鳴った。

電車が入ってくる。雨粒を銀色に弾きながら、静岡鉄道の車体が暗闇を割った。乗客たちはざわめき、警察官たちは規制線を押さえ、狐の面の死体だけが、まるでベルに合わせて笑っているようだった。

二人目の死体は、その二日後に見つかった。

場所は、狐ヶ崎駅からほど近い、旧ヤングランド関係者しか知らない古い倉庫だった。そこには、取り壊しを免れた遊具の部品が保管されていた。

錆びた観覧車のゴンドラ。

割れたメリーゴーラウンドの馬。

そして、子供向け豆汽車の駅名標。

0番線 きつねヶ崎

二人目の被害者、黒瀬宗一は、その豆汽車の客車の中で死んでいた。元ヤングランドの整備主任。胸にはまた時刻表の切れ端。

二十二時三分。新静岡行き。

黒瀬のスマートフォンには、犯人から送られた動画が残っていた。

動画の中で、黒瀬は震えながら言っていた。

「やめてくれ。もう十分だ。あの事故は……俺たちだけのせいじゃない」

画面の奥には駅の時計が映っていた。

二十二時三分。

そして、アナウンスが流れる。

『まもなく、きつねヶ崎、きつねヶ崎……』

動画が途切れる直前、黒瀬の顔の横から狐の面が現れた。

加工された声。

『発車します』

望月は動画を三度見た。

「犯人は同じだ」

真希が頷いた。

「問題は、アリバイです」

「アリバイ?」

「この動画が送信された二十二時三分、犯人を名乗る人物から清水署に電話がありました。同時に、狐ヶ崎駅の防犯カメラに不審者が映っています」

「狐の面か」

「はい。狐の面をつけた人物が、二十二時三分発の電車に乗っています」

望月は唸った。

「つまり、犯人は駅にいた。だが死体は倉庫の中。動画では、黒瀬はその時刻に殺されている」

「狐ヶ崎駅から倉庫までは走っても間に合いません。しかも犯人は電車に乗っている。時刻表上、移動は不可能です」

望月は机を叩いた。

「不可能なんて言葉を、殺人犯にくれてやるな」

真希は静かに資料を並べた。

彼女はいつも冷静だった。望月が怒鳴れば一歩引き、望月が走れば先に出口を開ける。華奢に見えるが、現場で泣いたことはない。

「犯人は、時刻表を使って警察を笑っています」

「笑わせねえ」

望月は動画の画面を睨みつけた。

その瞬間、胸の奥に奇妙な痛みが走った。

動画に映った古い駅名標。

きつねヶ崎

子供のころ、見たことがある気がした。

父に連れられて行ったヤングランド。綿あめの匂い。迷子になった自分を、父が大きな手で抱き上げた記憶。

父は元刑事だった。

清水署で、誰よりも正義を信じた男だと、望月は思っていた。

三人目の標的は、犯人から予告された。

清水署の代表メールに、たった一行。

次は二十三時十一分。ヤングランドの観覧車は、まだ一周していない。

添付されていたのは、古い写真だった。

営業中の狐ヶ崎ヤングランド。夜の観覧車。笑う子供たち。

写真の隅に、小さく写っている少女がいた。

ショートカットで、目つきの強い少女。その横に、まだ幼い男の子。二人とも、狐の風船を持っていた。

望月は写真を拡大した。

「この子たちは誰だ」

真希が少しだけ視線を伏せた。

「……古い資料を当たります」

「真希?」

「いえ。大丈夫です」

その夜、清水署は狐ヶ崎駅周辺に捜査員を配置した。

二十三時十一分。

駅のホームには、警官の目が光っていた。望月は改札前に立ち、時刻表と時計を交互に見ていた。

「来るなら来い、MAX」

真希が隣で言った。

「望月さん、感情的になりすぎです」

「殺しを遊びにしてる奴に、上品な捜査なんかできるか」

「だからこそ、冷静に」

「お前は怖くないのか」

真希は一瞬、笑ったように見えた。

「怖いですよ」

「そうは見えねえ」

「見せないだけです」

二十三時十一分。

電車がホームに入った。

その瞬間、駅の照明が一度だけ瞬いた。

望月のスマートフォンが鳴る。

また非通知。

『刑事さん、ホームばかり見ていると、遊園地を見失いますよ』

望月は叫んだ。

「どこだ!」

『ヤングランドは閉園していない。大人が忘れただけです』

直後、駅前の大型駐車場の奥で悲鳴が上がった。

望月は走った。

雨上がりのアスファルトを蹴り、車止めを飛び越え、真希も追ってくる。奥の古い管理棟跡。そこに、三人目の被害者、榛名怜子が倒れていた。

元ヤングランドの事務員。

まだ息があった。

望月は膝をつき、彼女の手を握った。

「榛名さん! 聞こえるか!」

榛名は血の気のない唇を震わせた。

「0番線……あの子は……帰れなかった……」

「誰だ。あの子って誰だ!」

「陽太……三枝、陽太……」

望月の視界の端で、真希が立ち止まった。

ほんの一瞬。

だが望月は見逃さなかった。

榛名は最後の力で、望月の手に何かを握らせた。

小さな金属板だった。

古いゲームセンターのスコアプレート。

そこに刻まれていた三文字。

MAX

榛名は息を引き取った。

翌朝、望月は一睡もせずに古い事故記録を漁った。

二十四年前。

狐ヶ崎ヤングランド閉園直前、園内の豆汽車「0番線」で事故が起きていた。正式記録では、機械トラブルによる軽傷事故。新聞にも小さくしか載っていない。

だが内部資料には、違う内容が残っていた。

行方不明児童。

三枝陽太、八歳。

その姉。

三枝真希、十二歳。

望月の手が止まった。

「真希……」

さらに資料をめくる。

当時、事故の現場検証に関わった警察官の名前があった。

望月誠司。

望月の父だった。

喉の奥が乾いた。

父は、あの事故を知っていた。

いや、知っていただけではない。

資料の端に、父の筆跡で書かれたメモが残っていた。

施設側と協議。混乱回避のため詳細公表せず。

望月は椅子から立ち上がれなくなった。

正義だと思っていた父が、誰かの子供を消した。

警察が、ヤングランドが、大人たちが、ひとりの少年を時刻表の外へ追いやった。

そのとき、背後で声がした。

「見つけたんですね」

真希が立っていた。

白い顔。濡れてもいないのに、髪の先が雨のように揺れていた。

望月はゆっくり振り向いた。

「三枝陽太は、お前の弟か」

「はい」

「MAXは……お前か」

真希は微笑んだ。

その笑みは、いつもの冷静な刑事のものではなかった。

狐の面の赤い口に似ていた。

「望月さんは、時刻表が読める人だと思っていました」

「なぜだ」

「なぜ? 変なことを聞きますね。弟は0番線の客車に閉じ込められた。大人たちは捜さなかった。閉園の混乱、責任問題、土地の売却、警察の面子。全部が弟より大事だった」

「だから殺したのか」

「最初は、そう言えばあなたは納得したでしょうね」

真希は近づいた。

「復讐。悲しい過去。可哀想な姉。そういう物語なら、人は安心してくれる。でも違うんです」

望月の背中に冷たいものが走った。

真希は囁いた。

「一人目が死ぬとき、倉田は泣きながら時刻表を読んでいました。『この時間なら助かるはずだ』って。二人目の黒瀬は、豆汽車のベルを聞いただけで失禁した。榛名は最後まで、弟の名前を言えなかった」

彼女は笑った。

「楽しかった」

望月は拳を握った。

「三枝!」

「怒りますよね。望月さんはそういう人です。だから、あなたに解いてほしかった。あなたに全部見せて、あなたの父親の罪まで掘り起こして、それでもあなたが刑事でいられるか見たかった」

「犯人が現場に戻るっていうが、お前はずっと現場にいたんだな」

「はい。あなたの隣に」

望月は震える声で言った。

「時刻表のトリックは、どうやった」

真希は嬉しそうに首を傾けた。

「簡単です。皆さんが信じたのは電車ではなく、時刻です」

彼女は古い写真を机に置いた。

そこには、ヤングランド内の豆汽車駅が写っていた。

駅名標には、こうある。

きつねヶ崎

「動画に映っていた駅は、静岡鉄道の狐ヶ崎駅じゃありません。ヤングランドの0番線。豆汽車の駅です。古い時計、古いアナウンス、古い発車ベル。全部、倉庫に残っていました」

「だが、防犯カメラには狐の面の人物が電車に乗っていた」

「人形です。背格好を似せた服を着せ、混雑の一瞬に乗せただけ。誰も顔を見ていない。狐の面だけを見た」

「動画の送信時刻は」

「予約送信。死亡推定時刻は、私が最初に捜査資料へ誘導しました。スマートフォンの時刻、音声、発車アナウンス、駅の時計。人は複数の時計が同じなら、死の時刻まで信じる」

望月は奥歯を噛んだ。

「実際には、三人とももっと早く死んでいた」

「ええ。あなたが私と駅で張り込んでいたときには、榛名怜子はもう瀕死でした」

「お前……」

「時刻表アリバイの本質は、移動じゃない。人間の信仰です。警察官は時刻表を疑わない。駅の時計を疑わない。自分の相棒を疑わない」

真希は拳銃を抜いた。

「次が最後です。始発前、0番線で待っています。標的は相良剛一郎。あの事故を握り潰した元署長」

「行かせると思うか」

「来てください、望月さん。あなたの父親の息子としてではなく、刑事として」

真希は窓を蹴破った。

望月は追った。

夜明け前の狐ヶ崎は、青黒い闇に沈んでいた。

望月は息を切らしながら、旧ヤングランドの倉庫へ走った。古いシャッターは開いている。中から、豆汽車の発車ベルが聞こえた。

ちりん、ちりん。

子供のころの記憶を腐らせたような音だった。

倉庫の奥には、0番線があった。

錆びたレール。小さな客車。ひび割れた駅名標。壁には色褪せた狐のキャラクターが描かれている。

その中央に、椅子に縛られた老人がいた。

相良剛一郎。

元清水署幹部。二十四年前、望月の父とともに事故を処理した男。

そして、その背後に真希が立っていた。

狐の面を手にして。

「間に合いましたね。始発は五時一分です」

望月は銃を構えた。

「終わりだ、真希」

「終わり? 違います。やっと発車です」

相良が叫んだ。

「助けてくれ! 私は命令されただけだ! 望月の父親が、施設側と――」

「黙れ!」

望月の怒声が倉庫を震わせた。

だが怒りの矛先は相良だけではなかった。

父へ。

警察へ。

そして、何も知らず正義を語ってきた自分へ。

真希はその表情を見て、満足そうに笑った。

「いい顔です。絶望は、人を正直にしますね」

「お前の弟は、そんな顔を望んだのか」

初めて、真希の笑みが消えた。

望月は一歩踏み出した。

「陽太くんは、お前に殺人を楽しんでほしかったのか。狐の面をかぶって、人が怯えるのを見て笑う姉を望んだのか」

「黙って」

「お前は弟のために殺したんじゃない。弟を使って、自分の闇を正当化した」

真希が発砲した。

弾は望月の肩をかすめ、背後の駅名標を砕いた。望月は横に飛び、古い客車の陰に転がった。

真希は走った。

速い。

刑事として鍛えた足。望月も追う。倉庫の中、豆汽車のレールを挟んで二人はぶつかった。真希が警棒を振る。望月は腕で受け、鈍い痛みが骨に響いた。

「望月さんなら分かるでしょう!」

真希が叫んだ。

「正義なんて、時刻表と同じです! 人が作って、人が破って、人が都合よく読み替える!」

「違う!」

望月は体当たりで真希を壁に押しつけた。

「それでも、朝になったら電車は来る。誰かが乗る。誰かが仕事へ行く。誰かが学校へ行く。そういう当たり前を守るために、刑事はいるんだ!」

真希は膝蹴りを入れ、望月の体を跳ねのけた。

彼女は相良の椅子へ走る。

五時一分。

古い時計の針が重なる。

豆汽車のベルが鳴りだした。

望月は最後の力で飛び込んだ。

真希が狐の面を相良にかぶせようとした瞬間、望月は彼女の手首を掴んだ。二人はもつれ、レールの上に倒れ込む。

古い豆汽車が、軋みながら動き出していた。

真希が笑った。

「ほら、発車しますよ」

望月は叫び、彼女を抱えてレールの外へ転がった。

豆汽車は二人のすぐ横をかすめ、壁にぶつかって止まった。

埃が舞った。

長い沈黙。

望月は真希の腕を押さえ、手錠をかけた。

真希は抵抗しなかった。

ただ、天井の穴から薄く差し込む朝の光を見ていた。

「陽太は、暗いところが嫌いでした」

望月は答えなかった。

「私、どこで間違えたんでしょうね」

望月は荒い息のまま言った。

「最初の一人を殺したときだ」

真希は小さく笑った。

「刑事さんらしい答え」

その笑いは、もう狐のようではなかった。

ただ疲れ果てた人間の笑いだった。

事件は解決した。

だが、何も終わらなかった。

三枝真希は逮捕された。

相良剛一郎は、二十四年前の隠蔽を認めた。倉田、黒瀬、榛名、そして望月の父が関わった記録も公表された。

望月は父の仏壇の前に、捜査資料の写しを置いた。

「親父」

線香の煙が細く上がった。

「俺は、あんたを許せない」

返事はない。

「でも、あんたの罪を隠したら、俺も同じになる」

望月は深く頭を下げた。

父への愛も、尊敬も、憎しみも、全部が胸の中で崩れていた。

正義は、思っていたほど綺麗ではなかった。

警察は、思っていたほど強くなかった。

人間は、思っていたほど正しくなかった。

それでも翌朝、望月は狐ヶ崎駅に立った。

空は薄い金色に変わり始めていた。ホームには学生がいた。眠そうな会社員がいた。小さな子供の手を引く母親がいた。

発車ベルが鳴る。

静岡鉄道の電車が、朝の光をまとって入ってくる。

望月の肩には、まだ包帯が巻かれていた。痛みは消えない。たぶん一生、消えないものもある。

ホームの端で、男の子が落とした定期入れを探して泣いていた。

望月はしゃがみ、ベンチの下からそれを拾った。

「ほら。次は落とすなよ」

男の子は涙を拭いて笑った。

「ありがとう、おじさん」

「お兄さんだ」

男の子はもっと笑った。

電車の扉が開く。

人々が乗り込む。

望月は、ふと旧ヤングランドの方角を見た。

もう観覧車はない。

0番線も、狐の面も、殺人時刻表も、朝の光の中ではただの影だった。

だが影は消えない。

消えないなら、背負って歩くしかない。

望月は改札へ向かって歩き出した。

むなしさは残る。

絶望も残る。

それでも、狐ヶ崎の空に、陽はまた昇る。

そして電車は、何事もなかったように発車した。

 
 
 

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