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理由のない寂しさを、幹夫は知っていた

理由のない寂しさを、幹夫は知っていた。それは「何かが足りない」みたいな寂しさではなくて、むしろ逆で――足りているはずのものが、ちゃんと揃っているはずの午後に、ふいに胸の内側だけが冷える寂しさだった。

朝はいつも通り茶畑へ出た。露はいつも通り葉の背に残っていて、指先にひやりと移った。父はいつも通り黙っていて、祖母はいつも通り湯を沸かした。いつも通りが揃うほど、幹夫は安心するはずだった。

でも、安心のはずの場所に、理由のない寂しさはいる。それは小さな石みたいに胸の奥に沈んで、歩くたびにころころと位置を変える。痛いほどではない。痛くないから、見落としてしまう。見落としているのに、確かに重い。

その日の午後、幹夫は静岡市へ出た。用事がある、と言えば用事だった。学校で配られたプリントの提出。ついでに文房具を買う。そんな程度のこと。けれど本当は、「家の中の空気」から一度だけ抜けたかったのかもしれない。抜けても何が変わるわけでもないのに、抜けないと息が詰まりそうな日がある。

バスの窓に映る自分の顔は、少しだけ他人みたいだった。目の奥が寝不足の色をしている。口元が、何かを我慢する形に固まっている。固まっているのは、自分で選んだ癖だった。言い方を間違えたくない。誰かを傷つけたくない。自分が傷つきたくない。だから、言わない。言わないと、間違えない代わりに、埋まらない空白が増える。

静岡、午後四時。影が伸びる時間。

呉服町のアーケードを歩くと、上からの光が柔らかくなるのに、足元の影だけがはっきりしてくる。影がはっきりすると、見たくないものまで輪郭を持つ。見たくないもの――たとえば、母のこと。

母の名前は、スマホの連絡先の中で、ずっと同じ場所にある。押せば繋がるかもしれない。繋がったら、何を言えばいいのかわからない。「元気?」と聞いたら、自分が元気じゃないみたいで怖い。「会いたい」と言ったら、自分が弱いみたいで怖い。「会いたくない」と言ったら、いよいよ取り返しがつかなくなる気がして怖い。

怖い、という言葉は簡単だ。けれど幹夫の怖さは、いつも“どれも本当”でできていた。会いたいも本当。会いたくないも本当。怒りも本当。寂しさも本当。本当が多すぎて、口に出す形が見つからない。

アーケードの端から潮の匂いが混じった風が来た。駿河湾が遠くにあるのを、匂いだけが教えてくる。海は見えない。けれど届く。見えないのに届くものがあるなら――母もまだ、届いているのかもしれない。そう思った瞬間、理由のない寂しさが少しだけ形を変えた。石が、ほんの少し動く。

幹夫は安倍川の方へ歩いた。橋の上は風が強く、白い河原がまぶしい。目を細めると世界の角が取れて、心の奥の固まりもほんの少しやわらぐ。川は当たり前みたいに流れている。止まらない。理由もなく進む。

理由もなく進むものがあることが、羨ましかった。理由がないなら、責められない。理由がないなら、説明しなくていい。幹夫の寂しさも、そうならいいのにと思う。説明できない寂しさを、誰にも渡せないまま抱えるのは、疲れる。

橋の手すりに手を置くと、金属がまだ午後の熱を残していた。熱いのに、胸の奥は冷たい。その矛盾が、幹夫のままだった。

「……何してんだろ」

声に出すと、小さすぎて風に消えた。消えたのに、胸の奥が少しだけ軽くなる。声は消えても、「出した」という事実だけが残る。残るものがあるなら、また一つ出してみてもいい気がした。

そのとき、スマホが震えた。父からだった。

「帰り、迎え行くか」

短い文。父らしい文。父はいつも、気持ちを文にしない。段取りにして送ってくる。迎えに行く、という行動にして言う。幹夫はその不器用さに腹が立つときもあるけれど、今日はなぜだか、その短さが救いだった。短い言葉は、こちらが勝手に膨らませずに済むからだ。

幹夫は返信欄を開いて、指を止めた。「安倍川」それだけ打てばいいのに、指が止まる。止まるのはいつもの癖。でも今日は、その癖を“やめたい”気持ちが、胸の奥で小さく揺れた。

理由のない寂しさとは、逆の揺れ。理由のある勇気でもない。ただ、「このままじゃ嫌だ」という、根拠のない小さな抵抗。

幹夫は打った。

「安倍川の橋。ここ」

送信。送信の矢印が上へ飛んだ瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。縮んだのに、固まらなかった。固まらない縮み方を、幹夫は最近、少しずつ覚えている気がする。

待っている間、幹夫は河原を見た。石の上で遊ぶ子どもたちの笑い声が、風に乗って途切れ途切れに届く。笑い声は軽く、理由がいらない。羨ましいと思う。羨ましいと思う自分を、また少し嫌になる。そういう自分の面倒くささを、幹夫は知っている。

でも、知っているからといって、直せるわけじゃない。直せないから、寂しい。――違う。寂しいから、直したくなるのかもしれない。

軽トラのエンジン音が近づいてきて、橋の手前に停まった。父が窓を開ける。帽子の影で顔が半分隠れている。いつも通りの顔。いつも通りなのに、父がここに来た、という事実が、幹夫の寂しさの石に一度だけ当たった。石が、ころ、と転がって、少しだけ痛い場所から外れる。

「乗れ」

父はそれだけ言った。幹夫は助手席に乗り、ドアを閉めた。車内に茶と土の匂いがこもっている。家の匂い。逃げたかった匂い。それなのに、今はその匂いで、少しだけ呼吸が深くなる。

不思議だった。理由はない。けれど、理由がなくても、寂しさが薄れる瞬間がある。

車が走り出してしばらくして、父がぽつりと言った。

「……腹、減っとるか」

幹夫は一瞬、笑いそうになった。大事なことは聞けないくせに、こういうことは聞ける。聞けるというより、聞くことでしか隣にいられないのかもしれない。

「……ちょっと」

父は「そうか」と言って、コンビニの看板が見えたところでウインカーを出した。それだけ。それだけなのに、幹夫の胸の奥で、また何かが揺れた。

理由のない寂しさは、消えない。たぶん明日も、別の午後にふいに現れる。けれど、消えないものがあるなら、同じように――理由のない温度も、確かにあるのだと幹夫は思った。

コンビニの駐車場で、父が買ってきたおにぎりを車内で受け取る。海苔の匂いがふっと立ち、塩気が指先に残る。潮の匂いとは違うけれど、どこか似た“しょっぱさ”があった。

幹夫は包みを開けながら、心の中でひとつだけ認めた。

理由のない寂しさを、幹夫は知っていた。そして――理由のない救いも、同じくらい知りはじめていた。

その「ほんの少し」が、たぶん、大人になる前の境目なのだと思った。

 
 
 

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