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用宗、潮風のベンチで“しおり”を拾ふ

 幹夫青年が用宗へ出かけたのは、何かを決意したからではない。決意など、してしまへば翌朝にはひどく重たくなつて、結局自分で捨てる羽目になる。さういふ厄介を避けたくて、彼は「ただ潮風に当る」といふ、いかにも軽い口実を選んだのである。軽い口実は、たいてい真実より役に立つ。

 静岡の町から少し外れると、空気の中に塩が混じる。駅のホームの匂ひ、車の排気の匂ひ、パン屋の甘い匂ひ――それらが薄れ、代りに、濡れた縄と、乾いた網と、魚の影の匂ひが近づく。幹夫は、この匂ひの変り目が好きだ。匂ひが変ると、胸の中の言ひ訳が、少しだけ息をしにくくなる。言ひ訳が黙れば、人間は意外に歩ける。

 海の方へ出ると、堤防の上にベンチが一つ置いてあつた。観光のための立派なベンチではない。誰かが勝手に置いたやうな、木が少し褪せた、生活のベンチである。幹夫はそこへ腰を下ろした。潮風が耳の後ろを撫でて行き、遠くで小さな漁船のエンジン音が、ぽつぽつと泡のやうに響く。海は青いといふより、今日は少し白つぽい。光をたくさん含んでゐる。

 幹夫はしばらく、何も考へぬやうに考へた。 考へぬやうに、といふのが肝腎である。彼は放つて置けば、すぐに頭の中で小さな裁判を始める。返してゐない返事、言ひ過ぎた言葉、言へなかつた言葉、そして、それらを裁く自分の顔。裁判を始めると、潮風さへ重たくなる。だから今日は、風だけを聞いてゐるふりをした。

 ふと、足元に紙片があるのに気づいた。 ベンチの下の砂に半分埋もれてゐる。幹夫はそれを拾ひ上げた。細長い厚紙で、角が少し丸くなり、片面に小さな絵――波と、港の灯のやうなもの――が刷つてある。裏には、鉛筆で短い字が書かれてゐた。

  「つづきは、またここから。」

 しおり、である。 幹夫は思はず笑つた。しおりが落ちてゐるのは珍しいことではない。だが、「つづきは、またここから」といふ言葉が、今日はやけに幹夫の胸に当つた。人生にも、しおりがあればいい。迷つたところに挟んでおけば、翌日そこから始められる。幹夫の人生は、たいてい「どこまでやつたか」が分らぬまま、翌日が来る。

 しおりの下の方に、さらに小さく印があつた。 港の近くの小さな店の名らしい。――「みなと文庫」。そんな風に読めた。

 幹夫は、しおりを掌にのせたまま、しばらく海を見た。 拾つたものを「拾つた」で終へるのは簡単だ。ポケットへ入れて持ち帰り、引出しの底で忘れてしまふ。彼はさういふことを、何度もして来た。拾つたものが物であれ、誰かの言葉であれ、景色の一片であれ。拾ふところまでは出来るのに、届けるところで尻すぼみになる。

 けれど今朝は、潮風が少しだけ彼の背中を押した。 押した、と言つても大げさなものではない。しおりの文句のやうに、「またここから」と囁いた程度である。幹夫は立ち上がつた。ポケットにしおりを入れ、港の方へ歩き出した。

 用宗の港は、華やかさより先に、生活の音がする。荷車がごとごと鳴り、網を引く手が、黙々と動き、犬が勝手に吠える。勝手に吠えるものが多いところは気持がいい。人間の言ひ訳を聞いてゐないからだ。

 「みなと文庫」といふ札は、案外すぐ見つかつた。 魚屋の隣の、古い家の一階を改造したやうな小さな店で、入口に本が二箱ほど並び、窓辺に湯呑が置いてある。暖簾は薄い紺色で、白い字が控へめだ。店の中から、紙をめくる音がした。

 幹夫がそつと戸を引くと、鈴が鳴つた。 ちりん、といふ音である。巴川の風鈴の音に似てゐるが、こちらはもう少しあたたかい。人のゐる音だ。

「いらつしやいませ」

 奥から出て来たのは、若い女であつた。二十代だらうか。髪を束ね、手には鉛筆。目の動きが静かで、しかしよく見てゐる。商売の目といふより、本の目だつた。幹夫はその「本の目」に、妙に安心した。ここでは、立派な顔をしなくてよい気がしたからだ。

「……これ、落ちてゐました」

 幹夫は、しおりを差し出した。 女はそれを見るなり、あ、と小さく声を上げた。

「それ、うちの……。どこで拾ひました?」

「堤防のベンチの下です。風で飛んだのかも」

 女は、しおりの裏の文字を確かめ、ほつと笑つた。

「よかつた。昨日、来てくれた子が探してたんです。小学生の男の子で、読んでた本の途中が分らなくなるって泣きさうで」

 泣きさうで――。 その言葉を聞いて、幹夫は胸の奥がふつと柔らかくなるのを感じた。子どもが泣きさうになる場面は、いつでも人間のごまかしを剥ぐ。ごまかしを剥がれると、幹夫は困る。困るが、困ると同時に、何かが真直ぐになる。

「……じゃあ、届けられてよかつた」

 幹夫が言ふと、女はしおりを胸の前に持ち、軽く頭を下げた。

「ありがとうございます。――あ、もしよければ、これ。代りといふのも変ですけど」

 女は引出しから、新しいしおりを一枚取り出した。白い紙に、薄い青で波の線が描いてあり、下に短く印刷がある。

  「急がず、つづきを。」

 幹夫は、受け取る手が少し照れた。 「ありがとうございます」と言ふのは簡単だが、その言葉が自分の胸に残るのが恥づかしい。だが今朝は、恥づかしさを急いで消さなくてもよい気がした。潮の匂ひが、恥を乾かしてくれる。

「……いい言葉ですね」

 幹夫が言ふと、女は笑つた。

「この町、みんな急がないふりが上手なんです。ほんとは忙しいのに」

 忙しいのに、急がないふり。 幹夫は、その言ひ方が気に入つた。自分は忙しくもないのに、いつも急いでゐるふりをして疲れてゐた。ふりの向きが逆なのだ。

「その子、また来るんですか」

「来ますよ。毎週土曜に。港のベンチで読むのが好きで」

 女はさう言つて、棚の方へ目をやつた。幹夫もつられて棚を見る。背表紙が並び、紙の色が揃つてゐない。揃つてゐないのに、そこに順序がある。幹夫はその「揃つてゐない順序」に惹かれた。人生も、さういふものであればいい。

「……僕も、何か一冊」

 幹夫は、思はず言つてしまつた。 言つてから、買ふつもりがあるのかと自分に問ひ、財布の重さを思ひ出し、いつものやうに引つ込みさうになつた。だが、女は押しつけがましくなく言つた。

「文庫でいいですよ。港で読むなら、軽いのが一番。――ここ、座つて選んでください」

 窓際に小さな椅子があり、そこへ陽が差してゐた。幹夫は椅子に腰を下ろし、棚から一冊、薄い本を抜いた。題名は、旅の随筆のやうなものだつた。ページを開くと、紙が少し黄ばんでゐて、匂ひがした。古い紙の匂ひは、何だか人の手の温度を含んでゐる。

 結局、幹夫はその一冊を買つた。 大きな買物ではない。胸を張るほどでもない。だが、しおりを拾ひ、届け、今度は自分の本を持つて外へ出る――その流れが、今日は妙にすつきりしてゐた。

 店を出ると、港の空がさつきより明るく見えた。 幹夫は堤防の方へ戻り、さつきのベンチにまた座つた。今度は、紙袋から本を取り出し、新しいしおりを挟んだ。風がページをめくりさうになるのを、掌でそつと押へる。その手つきが、少しだけ「暮しの手つき」に近づいた気がした。

 海の向うで、カモメが鳴く。 ちりん、とどこかで鈴も鳴く。 幹夫は本を読みながら、ふと、さつきのしおりの言葉を思ひ出した。

 ――つづきは、またここから。

 落ちても、拾へばいい。 分らなくなつても、しるしをつければいい。 急がなくても、つづきはある。

 幹夫青年は、用宗の潮風の中で、ほんの小さな「つづき」を手に入れた。 それは大げさな希望ではない。けれど、帰り道に足取りを軽くするには、十分に明るいしおりであつた。

 
 
 

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