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用宗のしらすと海の学校

 用宗の浜には、朝になる前の海の色が残っていた。

 空はまだ薄い灰色で、東のほうだけが貝殻の内側のように淡く光っている。駿河湾は、夜の深さをすっかり手放したわけではなく、ところどころに紺色の影を抱えたまま、静かに波を寄せていた。

 幹夫少年は、浜辺にひとりで座っていた。

 漁港のほうでは、もう人が動きはじめている。船のロープがきしむ音、軽トラックの低い音、箱を運ぶ足音。まだ大きな声は少ないけれど、港は目を覚まそうとしていた。

 幹夫は、その働きはじめの気配が好きだった。

 昼間の港は、少し騒がしすぎる。人の声も、機械の音も、海鳥の鳴き声も、みんな重なり合って、幹夫の心にはときどき強すぎた。けれど夜明け前の港では、ひとつひとつの音がまだ柔らかい。誰かが箱を置く音も、船が小さく揺れる音も、まるで眠っている町を起こさないように遠慮している。

 波打ち際には、小さな泡が並んでいた。

 幹夫は、足もとの濡れた砂を見つめた。波が来て、引いていくたびに、砂の上の小さな模様が変わる。自分がさっき書いた棒切れの線も、もう消えていた。

 消えるものばかりだ、と幹夫は思った。

 波の跡も。 朝の色も。 昨日言えなかった言葉も。 胸の奥でふくらんでは、すぐしぼんでしまう小さな勇気も。

 近ごろ、幹夫は少し疲れていた。

 誰かにひどいことを言われたわけではない。大きな失敗をしたわけでもない。ただ、毎日が少しずつ胸に積もっていた。学校で笑うこと。人に合わせること。平気な顔をすること。感じすぎる心を、誰にも見えないように折りたたむこと。

 それらが、いつの間にか重くなっていた。

 幹夫は海を見た。

 「海は、疲れないのかな」

 声に出すつもりはなかった。

 けれど言葉は、波の音にまぎれて小さくこぼれた。

 そのとき、足もとの水たまりで、銀色のものがぴかりと光った。

 幹夫は身をかがめた。

 波が引いたあとに残った浅い水の中に、一匹のしらすがいた。

 透き通った小さな体。細い背骨の影。目は黒く、体よりもずっと大きく見えた。浜に打ち上げられたのだろうか。幹夫は胸がきゅっと縮むのを感じた。

 「海へ戻してあげなきゃ」

 幹夫が手を伸ばそうとした時、そのしらすが言った。

 「待って。今、授業の途中なんだ」

 幹夫の指が止まった。

 風が吹いた。 波が寄せた。 港のほうで、何かの金具が鳴った。

 でも、確かに声は聞こえた。

 幹夫はしらすを見つめた。

 「きみ、話せるの?」

 しらすは、小さな体を水の中でくねらせた。

 「話せるんじゃないよ。君が聞いたんだ」

 幹夫は、その言葉に少し黙った。

 それは、これまで何度も出会ってきた不思議なものたちと同じ言い方だった。川も、石段も、土も、森も、勝手に大声で語るわけではない。幹夫が立ち止まり、耳を澄ませた時だけ、ほんの少し言葉が届く。

 「授業って?」

 幹夫がたずねると、しらすは海のほうを見た。

 「海の学校」

 「海に学校があるの?」

 「あるよ。君たちの学校みたいに机はないけどね。潮が黒板で、月が先生で、網が試験。ぼくらは毎日、泳ぎながら学ぶんだ」

 幹夫は思わず、水たまりを覗き込んだ。

 小さなしらすの体が、朝の光を受けて淡く透けていた。その中に、海そのものが細く流れているように見えた。

 「見たい?」

 しらすが言った。

 幹夫は息をのんだ。

 「見られるの?」

 「君が小さくなれれば」

 「小さく……」

 幹夫が言い終わる前に、次の波が来た。

 波はいつもより静かに、幹夫の足もとまで伸びてきた。冷たい水が靴の先に触れた瞬間、世界がふわりと傾いた。

 浜が遠くなった。

 漁港の灯りが、空の上に浮かぶ星のように見えた。波の音が大きくなり、それから急に柔らかくなった。幹夫の体は、落ちているのではなく、ほどけていくようだった。

 気づくと、幹夫は海の中にいた。

 けれど苦しくなかった。

 息を吸うと、水が胸に入ってくるのではなく、青い光が体の中を通っていくようだった。手を見れば、自分の体も少し透けていた。指の間を、小さな泡がすり抜けていく。

 そばには、あのしらすがいた。

 「ようこそ、用宗海中学校へ」

 しらすは少し得意そうに言った。

 幹夫の前に、海の教室が広がっていた。

 そこには壁も天井もなかった。砂地の上に、海藻がゆらゆら揺れている。光は水面から差し込み、細い柱のように海中へ降りていた。小さなしらすたちが群れになって集まり、銀色の点のようにきらめいている。

 幹夫は、その数に驚いた。

 一匹一匹はとても小さい。 けれど群れになると、ひとつの大きな光の布のようだった。

 しらすたちは、幹夫を見ても怖がらなかった。むしろ好奇心いっぱいに近づいてきて、幹夫の髪や袖のまわりをくるくる泳いだ。

 「人間の子だ」 「大きいね」 「でも今は小さいよ」 「目が濡れてる」 「海に入る前から濡れてたんじゃない?」

 幹夫は少し恥ずかしくなった。

 「ぼく、泣いてないよ」

 そう言ってから、自分でもはっきりしないことに気づいた。泣いてはいない。けれど、胸の中はいつも少し濡れているような気がする。

 群れの中央に、一匹の少し年長のしらすが進み出た。

 体はほかのしらすよりわずかに大きく、目の奥に深い海の色があった。

 「一時間目は、潮の読み方」

 先生らしいしらすが言った。

 海中が静まった。

 先生は尾をひらりと振った。すると海の水が、見えない文字のように流れを変えた。ゆるい流れ、速い流れ、上から降りる流れ、底を這う流れ。幹夫には、それがただの水の動きではなく、複雑な道に見えた。

 「潮は道です。でも、いつも同じ道ではありません。朝と夕、月の形、風、沖のうねり、川から来る水。いろいろなものが混じって、道は変わります」

 しらすたちは一斉にうなずいた。

 「潮を読めない子は、群れから離れます。離れると、大きな魚に見つかりやすくなります。だから、目だけでなく、体全部で読むのです」

 幹夫は、流れを感じようとした。

 すると、たしかに水には向きがあった。見えない手で肩を押されるような流れ。足もとをそっと引く流れ。耳の後ろをかすめる流れ。幹夫は、その一つひとつを感じるたび、胸の中のざわめきが少しほどけるのを感じた。

 人間の世界にも、潮があるのかもしれない。

 教室の空気。 友だちの気分。 言ってよいことと、言わないほうがよいこと。 近づくべき時と、離れたほうがよい時。

 幹夫は、そういう目に見えない流れをいつも感じすぎて、疲れていた。けれど海の学校では、感じることは弱さではなかった。生きるために必要な力だった。

 先生のしらすが、幹夫を見た。

 「感じすぎる子は、流されやすい。でも、流れを知ることもできる」

 幹夫は胸を突かれた。

 「ぼくも?」

 「もちろん。流れを感じる心を、ただ責めてはいけません。ただ、群れに戻る道を覚えなさい」

 幹夫は、静かにうなずいた。

 二時間目は、月の満ち欠けだった。

 海の上が急に暗くなった。昼のようだった光が、深い夜の青へ変わる。見上げると、水面の向こうに大きな月が浮かんでいた。丸い月、欠けた月、細い月。月は形を変えながら、海の上で何度も生まれ直した。

 しらすたちは、月を見上げながら泳いだ。

 「月は、ぼくらの遠い時計です」

 先生が言った。

 「満ちる時、欠ける時、潮も変わります。暗い夜に安全があることもあります。明るい夜に危険があることもあります。美しいものは、いつも優しいとは限りません。怖いものが、いつも悪いとも限りません」

 幹夫は、月の光が水の中に細く落ちてくるのを見た。

 月は静かだった。けれどその静けさの中で、海の水を引き、満たし、生き物たちの時間を動かしている。

 人の心にも満ち欠けがある、と幹夫は思った。

 明るい日もある。 何もかも欠けてしまったように感じる日もある。 誰にも見えない細い光だけで、ようやく夜を越す日もある。

 でも、欠けた月は消えた月ではない。 見えない部分も、そこにある。

 幹夫は、自分の心の欠けたところを、少しだけ責めずに見られる気がした。

 三時間目は、人間の網についてだった。

 その言葉が出た時、海中の空気が少し変わった。しらすたちの群れが、さっと引き締まる。幹夫も、胸が重くなった。

 遠くから、影が近づいてきた。

 それは網だった。

 海の中で広がる大きな布のように、ゆっくり、しかし確かに近づいてくる。目はない。口もない。けれど逃げ道をふさいでいく。しらすたちは先生の合図で方向を変え、流れに乗り、群れの形を細くしたり丸くしたりした。

 幹夫は、足がすくむような気がした。

 「怖くないの?」

 幹夫がたずねると、そばのしらすが小さく言った。

 「怖いよ」

 別のしらすも言った。

 「でも、怖いことを学ばないと、もっと怖い」

 先生は静かに続けた。

 「人間の網は、海の終わりではありません。けれど、ぼくらの誰かにとっては終わりです。そして、人間の食卓にとっては始まりでもあります」

 幹夫は黙った。

 用宗のしらす。 朝の漁港。 白い湯気の立つ釜。 食卓にのる小さな命。

 幹夫は、しらすを食べたことがある。白く、柔らかく、塩の匂いがして、ご飯にのせるとおいしい。何も考えずに食べていたわけではない。いただきます、と言っていた。けれど、その小さな命たちが海の学校で潮を学び、月を見上げ、網を怖がっていたことまでは知らなかった。

 幹夫の胸に、痛みが広がった。

 「ぼくたちは、食べてしまう」

 幹夫は言った。

 その声は、水の中で少し震えた。

 先生のしらすは、幹夫を責めなかった。

 「海でも、命は命を食べます。大きな魚が小さな魚を食べる。鳥が魚を食べる。魚の体はまた海へ戻り、海の中の小さなものを育てる。食べることは、怖いことです。でも、悪いことだけではありません」

 「でも、人間はたくさん取る」

 幹夫は言った。

 言いながら、人間である自分の体が少し重く感じられた。

 先生は、静かに尾を振った。

 「だから学んでほしいのです。人間にも」

 「何を?」

 「食べるものに、海で過ごした時間があること。網の向こうにも学校があること。小さな命を、ただ小さいからといって軽く思わないこと」

 幹夫は、涙が出そうになった。

 小さいものを軽く思わない。

 その言葉は、幹夫自身にも向けられているようだった。

 小さい声。 小さい痛み。 小さい違和感。 小さい命。

 人は、大きなものを見上げることには慣れている。富士山や、海や、立派な建物や、大きな声を持つ人。けれど小さなものは、簡単に見落とされる。

 幹夫は、しらすたちの透き通った体を見つめた。

 小さいということは、存在が薄いということではない。 小さいものにも、恐れがあり、学びがあり、仲間があり、月を見上げる夜がある。

 その時、海の学校の鐘が鳴った。

 鐘といっても、金属の音ではない。貝殻の奥に波が入って、やさしく響くような音だった。

 授業が終わったのだと思った。

 けれど先生のしらすは言った。

 「今日は特別授業があります」

 「特別授業?」

 幹夫が聞くと、最初に浜で話しかけてきたしらすが嬉しそうに泳ぎ回った。

 「幻想旅行だよ」

 幹夫は驚いた。

 「海の中なのに、旅行するの?」

 「海はどこへでもつながっている。川へも、雨へも、山へも」

 先生のしらすが、海の奥を指した。

 そこには、青い渦があった。

 渦は怖いものではなかった。細かな泡と光でできていて、中心には淡い緑色の道が見えた。幹夫が近づくと、海の匂いの中に、山の土の匂いが混じった。

 「どこへ行くの?」

 「安倍奥へ」

 「山へ?」

 「海の学校では、海だけを学びません。海を知るには、山も知らなければなりません」

 渦が幹夫を包んだ。

 次の瞬間、幹夫は水の中ではなく、霧の中にいた。

 足もとは森の道だった。

 空気は冷たく、湿っていた。海の塩の匂いは消え、かわりに苔、杉、湯けむり、落ち葉、遠い水音の匂いがした。幹夫は立ちすくんだ。

 そこは梅ヶ島だった。

 安倍奥の山々が、深い緑の層になって周囲を包んでいる。谷を流れる水は澄み、岩に当たって白く砕けていた。遠くには温泉地の湯けむりが、薄い雲のように立ち上っている。

 幹夫の肩に、一匹のしらすが浮いていた。

 海の生き物なのに、空中を泳いでいるようだった。いや、そこにいるのは本当のしらすではなく、しらすの夢なのかもしれなかった。

 「山だ」

 幹夫が言うと、しらすはうなずいた。

 「ぼくらの体の中には、山の水も入っている」

 幹夫は沢を見た。

 水は岩の間を走り、冷たい音を立てていた。この水は、やがて川となり、町を通り、海へ向かうのだろう。海に出た水は、潮と混じり、しらすたちの泳ぐ場所になる。

 「海と山は、遠いのに」

 幹夫は言った。

 しらすは答えた。

 「遠いものほど、深くつながっていることがある」

 山の道を歩くと、幹夫の心は少しずつ静かになった。

 海ではたくさんの命の声が近くにあった。潮、月、網、群れ、食べること、食べられること。そのすべてが胸に押し寄せ、幹夫は息が苦しくなるほどだった。

 けれど梅ヶ島の山は、すぐに答えを求めなかった。

 ただ、道が続いている。 水が流れている。 木が立っている。 湯けむりが上がっている。

 山の奥では、急がなくていいような気がした。

 幹夫は、温泉地の近くの小さな橋の上に立った。

 谷川の音が下から響いてくる。その音は、海の波とは違っていた。波は寄せては返す。沢は、ただ下へ下へと進んでいく。けれどどちらの音にも、幹夫の胸の痛みを洗うような力があった。

 「ここは、癒やしの授業です」

 先生のしらすの声が、どこからか聞こえた。

 幹夫はあたりを見回した。

 しらすの先生は、水面に映った光の中にいた。

 「癒やしって、何をするの?」

 幹夫がたずねた。

 「何もしないことを学びます」

 幹夫は少し困った。

 「何もしないこと?」

 「海では、泳がなければ流されます。山では、立ち止まらなければ聞こえない音があります。どちらも大切です」

 幹夫は橋の上で目を閉じた。

 沢の音。 風の音。 木々の葉が触れ合う音。 遠くで鳥が鳴く音。 湯けむりが空へほどける、音にならない音。

 すると、胸の中に溜まっていたものが、少しずつ湯に溶けるようにやわらいだ。

 幹夫は、いつも何かを感じるたびに、それをどうにかしなければならないと思っていた。悲しいなら理由を探さなければ。苦しいなら言葉にしなければ。聞こえた声には返事をしなければ。

 でも、山の奥では、ただ感じたまま立っていてもよかった。

 答えにしない。 急がない。 泣きたい時は、涙になる前の湿り気のまま抱いている。

 それだけで、心が少し休むことがあるのだと、幹夫は初めて知った。

 温泉の湯けむりが、幹夫の頬に触れた。

 それは海の霧よりもあたたかかった。誰かの手のひらのように、幹夫の冷えた心をそっと包んだ。

 「命は循環する」

 先生のしらすが言った。

 「海の水が空へ上がり、雨になり、山へ降り、川になり、また海へ帰る。魚も、人も、木も、土も、同じ輪の中にいます。食べることも、眠ることも、泣くことも、いつか何かへ戻っていく」

 幹夫は、沢の水を見下ろした。

 水は止まらなかった。

 けれど急いでいるようにも見えなかった。岩に当たり、形を変え、泡になり、また澄んでいく。その姿は、傷ついた心の流れにも似ていた。

 「ぼくの悲しさも、どこかへ戻るの?」

 幹夫は小さく聞いた。

 しらすは、すぐには答えなかった。

 しばらく沢の音だけがあった。

 やがて、声がした。

 「悲しさも、流れます。すぐに消えなくても、形を変えます。誰かに優しくする力になることもあります。小さな命に気づく目になることもあります。だから、悲しさを恥ずかしがらなくていい」

 幹夫は、目の奥が熱くなった。

 何度も聞きたかった言葉だった。 でも、誰に聞きたかったのかはわからなかった。

 海に。 山に。 しらすに。 自分自身に。

 幹夫は、橋の欄干に手を置いた。

 木の欄干は少し湿っていて、山の冷たさを含んでいた。けれどその冷たさは、幹夫の体を拒むものではなかった。

 「そろそろ帰る時間です」

 先生のしらすが言った。

 幹夫は驚いて顔を上げた。

 「もう?」

 「海の学校の朝礼が終わる前に、君を浜へ戻さないと」

 幹夫は、山々を見た。

 梅ヶ島の奥は、まだ霧に包まれていた。見えない道がさらに奥へ続いている。もっと歩きたい気持ちがあった。もっと癒やされたい気持ちもあった。

 けれど、幹夫はわかっていた。

 癒やしは、ずっとそこに留まることではない。 戻る力を少し受け取ることだ。

 山の水が海へ帰るように、自分も町へ、浜へ、毎日の中へ帰らなければならない。

 渦がまた現れた。

 今度は、山の霧と海の泡が混ざったような渦だった。幹夫がそこへ入ると、沢の音が波の音へ変わり、湯けむりの匂いが潮の匂いへ溶けた。

 気づくと、幹夫は用宗の浜に戻っていた。

 朝の光は、さっきより明るくなっていた。

 漁港では人の声が増え、船が動きはじめている。浜辺には、いつもの波が寄せていた。幹夫の足もとは濡れていて、あの水たまりには、一匹のしらすがまだいた。

 けれど、もう弱っているようには見えなかった。

 しらすは小さく体をくねらせた。

 「授業、どうだった?」

 幹夫は、しばらく言葉を探した。

 潮の読み方。 月の満ち欠け。 人間の網。 海の学校。 梅ヶ島の霧。 安倍奥の沢。 温泉の湯けむり。 命の循環。

 どれも、簡単な言葉にはできなかった。

 だから幹夫は、正直に言った。

 「まだ、全部はわからない」

 しらすは嬉しそうに光った。

 「それなら、よく学んだね」

 「わからないのに?」

 「本当に大事な授業は、すぐにわからないんだよ」

 幹夫は、少し笑った。

 次の波が近づいてきた。

 幹夫は両手で水たまりの水ごとしらすをすくった。小さな体はあまりにも軽く、手のひらの上で朝の光を透かしていた。

 「海へ戻すね」

 「うん」

 しらすは言った。

 「でも覚えておいて。ぼくらは海へ戻っても、いつか網に入るかもしれない。大きな魚に食べられるかもしれない。波に流されるかもしれない」

 幹夫の胸が少し痛んだ。

 「怖くないの?」

 しらすは、しばらく黙っていた。

 そして言った。

 「怖いよ。でも、怖いから学ぶ。怖いから群れる。怖いから月を見る。怖いから、命は次へ渡ろうとする」

 幹夫は、その言葉を深く受けとめた。

 怖いことがあるから、生き物は弱いのではない。 怖さを知っているから、海の学校がある。 仲間がいる。 知恵がある。 命をつなごうとする祈りがある。

 幹夫は波打ち際へ歩いた。

 寄せてきた波に、そっと手を入れる。

 しらすは幹夫の手のひらから離れ、透明な水の中へ泳ぎ出した。小さな体は一瞬きらめき、それから海の光にまぎれて見えなくなった。

 幹夫は、しばらくその場に立っていた。

 海は何事もなかったように波を寄せている。漁港では、朝の仕事が始まっている。鳥が鳴き、船のエンジンが響き、人々が網や箱を扱っている。

 いつもの用宗だった。

 けれど幹夫には、海の下に学校が見えるような気がした。

 しらすたちが群れになって泳ぎ、潮を読み、月を学び、人間の網を怖がりながらも、命を次へ渡していく。海のさらに奥では、山から来た水が混じり、梅ヶ島の霧や安倍奥の沢音も、見えない形でそこにある。

 海は、海だけではない。

 山の記憶を含んでいる。 雨の時間を含んでいる。 人間の暮らしも、魚の恐れも、月の光も、すべてを抱いている。

 幹夫は、漁港のほうへ歩いた。

 作業をしている人たちの姿が見えた。彼らは朝の寒さの中で、てきぱきと動いている。幹夫は、その手元を見つめた。

 網を使う人間。 網を学ぶしらす。

 どちらかだけが正しいのではない。 どちらかだけが命を持っているのでもない。

 人間も生きるために働く。 しらすも生きるために泳ぐ。 その間に、怖さと感謝と責任がある。

 幹夫は、それを忘れたくないと思った。

 昼近く、家に戻ると、食卓にしらすが出た。

 白い小さな体が、皿の上にふんわり盛られていた。いつもなら何気なく箸を伸ばす。けれどその日は、幹夫はしばらく皿を見つめた。

 母が言った。

 「どうしたの」

 幹夫は首を横に振った。

 「ううん」

 そして、小さく手を合わせた。

 「いただきます」

 その言葉は、いつもより少し重かった。けれど、その重さは嫌ではなかった。

 幹夫は箸でしらすを少し取り、ご飯にのせた。

 口に入れると、塩の味がした。海の味がした。柔らかく、淡く、すぐにほどけていく味だった。

 幹夫は、目を閉じた。

 潮の教室。 月の授業。 網の影。 梅ヶ島の沢。 温泉の湯けむり。 波打ち際で光った一匹のしらす。

 それらが胸の中で、静かにめぐった。

 食べることは、終わりを自分の中に迎えることなのかもしれない。 そして、その終わりを、次の力へ変えることなのかもしれない。

 幹夫は、ゆっくり噛んだ。

 急がず、忘れないように。

 その夜、幹夫は窓を開けた。

 遠くの海は見えなかったが、風の中にかすかな潮の匂いがあった。空には月が浮かんでいた。細く欠けた月だった。満ちている月ではない。けれど、消えた月でもない。

 幹夫は月を見上げた。

 海の学校では、今夜もしらすたちがその月を学んでいるのだろう。 潮の向きを体で感じ、網の怖さを覚え、群れの中で互いの光を頼りに泳いでいるのだろう。

 そして山の奥では、梅ヶ島の沢が夜も流れている。 水は岩を越え、谷を下り、いつか海へ向かう。 海はまた空へ上がり、雨となって山へ帰る。

 命は、まっすぐ進むだけではない。

 めぐる。 ほどける。 形を変える。 誰かの体に入り、誰かの涙になり、誰かの優しさになる。

 幹夫は、自分の胸に手を当てた。

 そこにはまだ、日々の疲れが残っていた。明日になれば、また学校があり、人の声があり、うまく笑えない時間もあるだろう。

 でも、少しだけ違っていた。

 心が流れを思い出していた。

 つらさも、悲しさも、ずっと同じ形で留まるわけではない。 潮のように変わり、月のように満ち欠けし、山の水のように遠くをめぐる。

 幹夫は、小さく言った。

 「また、学びます」

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 用宗の海へ。 一匹のしらすへ。 海の学校へ。 梅ヶ島の山奥へ。 そして、自分の中でまだ小さく泳いでいる、傷つきやすい心へ。

 風がカーテンを揺らした。

 その音は、波の音にも、沢の音にも聞こえた。

 幹夫は目を閉じた。

 用宗の浜では、夜の波が静かに寄せていた。 駿河湾の下では、小さなしらすたちが銀色の群れとなって泳いでいた。 そのさらに遠く、山の奥では、安倍奥の水が暗い谷を下りながら、いつか海へ帰る日を夢見ていた。

 そして幹夫少年の胸の中にも、小さな学校ができていた。

 潮を読む教室。 月を見上げる窓。 怖さを学ぶ黒板。 悲しみを休ませる山の湯けむり。

 そこでは今も、一匹のしらすが先生のように尾を振っている。

 小さいものを、軽く思わないで。

 その声は、眠りに入る幹夫の心の奥で、いつまでも淡く光っていた。

 
 
 

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