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用宗の海、白い息で『おはよう』を言ふ

 幹夫青年が朝に弱いことは、本人がいちばんよく知つてゐる。 朝はいつでも、昨日の言ひ訳を乾かして棚に並べ、こちらへ「どうする」と迫つて来る。幹夫は、その迫り方が苦手で、だから大抵、朝はなるべく見ないふりをして過ごして来た。

 ところが今朝に限つて、目が覚めた。 目が覚めた理由は、立派ではない。クリスマスの夜のあとに部屋が妙に静かで、静かすぎて、逆に眠れなくなつたのだ。窓の外の灯りも、昨夜のほどけた明るさを少し引きずつたまま、今朝は白くなりきれずにゐる。 祝ひの翌朝の白さは、いつも半端で、その半端さが幹夫の胸の半端さに似てゐた。

 だから幹夫は、海へ行くことにした。 「クリスマスらしいこと」を探すのではない。探すと、立派にしなければならぬ気がして、立派にしなければならぬ気がした途端、祝ひは説教に化ける。 海は、説教をしない。海はただ、勝手に匂ひをよこし、勝手に波をよこし、勝手に白い息を受け取つて消す。

 静岡駅から電車に乗り、用宗へ向ふ。 車内はまだ空いてゐて、クリスマスの紙袋を抱へた人も見えない。昨夜の賑はひが嘘のやうだ。嘘のやうな静けさは、悪くない。嘘は、時々人を休ませる。

 用宗に着くと、空気がひやりとした。 潮の匂ひが先に来る。鉄の匂ひ、網の匂ひ、濡れた木の匂ひ。匂ひが多いところでは、頭の中の裁判が息をしにくい。息をしにくい裁判は、黙る。黙ると、人は歩ける。

 海へ出る道で、幹夫は息を吐いた。 白い息が、ふわりと出て、風にほどけて消えた。 白い息は、言葉より先に出る挨拶みたいだ――と、幹夫は思つた。言葉の挨拶は、いつも遅れるくせに、息の挨拶は勝手に出る。勝手に出るものは、案外正しい。

 堤防の上から見る海は、青いといふより、冬の銀である。 銀はきらきらと騒がない。騒がないのに、十分に明るい。 遠くに小さな船が点になり、近くでは波が白く割れて、また引く。出来て、消えて、また出来る。その往復は、焦らない。焦らないものを見ると、こちらの焦りも少しだけほどける。

 堤防の端に、ウェットスーツの男がゐた。 ボードを抱へ、海を見てゐる。冬でも海へ入る人間がゐる――それだけで、幹夫には少し驚きで、少し尊敬で、そして少しだけ羨ましかつた。 羨ましいと思ふと、また裁判が始まりさうになる。――自分は朝が弱い、継続が苦手、決めるのが遅い。 だが今朝は、裁判の書記を休ませたかつた。

 幹夫は、男の横を通りかかつて、つい口から出した。

「……おはようございます」

 自分でも驚くほど、声が乾いてゐた。乾いてゐるのに、冷たくない。 男は振り向き、目だけで笑つて返した。

「おはようございます」

 たつたそれだけのやり取りなのに、幹夫の胸の中で何かが一つ、ちゃんと鳴つた。 鈴のやうに短く、しかし確かに鳴つた。 “返事”が返つて来ると、人は立派にならなくて済む。返事が返るだけで、もう十分に混ざれてゐる。

 堤防の下の小さな売店が開いてゐた。 紙コップの茶と、味噌汁の湯気。湯気は冬の最強だ。湯気は、人の肩の角を勝手に取る。 幹夫は湯気に引つ張られ、先に言つた。

「おはようございます」

 売り子の年配の女が、顔を上げてにこりとした。

「おはよう。早いねえ。温いの、いく?」

「……お願いします」

 茶を受け取ると、掌がすぐ人間になる。 人間になると、心の方も少しだけ人間になる。 幹夫はひと口飲んで、喉の奥がほどけるのを感じた。ほどけると、昨日の「メリークリスマス」が思ひ出される。昨夜、言へた。言へたが、言つたあと少し照れた。照れたまま帰つて、照れを机の上に置いたまま寝た。だから今朝、目が覚めたのかもしれぬ。

 女が、紙コップを並べながら言つた。

「クリスマスって言葉、こむづかしい顔する人ゐるよねえ。でも朝は簡単だよ。おはよう、で済む」

 済む。 その“済む”が、幹夫にはありがたかつた。 祝ひの日は、何かを足さねばならぬ顔をする。足さねばならぬ顔は、人を疲れさせる。けれど朝は、足すのではなく、ただ始めればいい。始める言葉は、たいてい短い。

「……僕、クリスマスより、おはようの方が言ひやすいです」

 幹夫が言ふと、女は笑つた。

「それでいいよ。おはようが言へる人はね、メリークリスマスも、そのうち勝手に言へる」

 勝手に。 勝手に出来るやうになる――それが、いちばん生活に効く励まし方だ。 幹夫は、説教で励まされるのが苦手だつた。説教は、こちらの息を詰まらせる。湯気みたいな励ましは、息を通す。

 茶を飲み終へ、幹夫が海へ目を戻すと、さつきのサーファーが海へ向つて歩き出してゐた。歩幅が一定で、急がない。急がないのに迷はない。 幹夫は、その背中を見て、ふと思つた。自分も、あんなふうに大きなことをしなくていい。海へ入らなくてもいい。せめて、朝のひとことを先に出すぐらゐなら出来る。

 幹夫はスマホを取り出した。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。 今日は白い息みたいに短くていい。出れば、それでいい。

 ――「おはよう。用宗の海に来た。白い息が出た。今日はちゃんと始められそう。」

 送信すると、胸の内がすとんと静かになつた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、今朝はそれで十分だ。返事の前に、こちらが先に始められたのだから。

 堤防の上を戻るとき、幹夫はもう一度、すれ違ふ人に言つた。

「おはようございます」

 相手は、当たり前のやうに返した。

「おはようございます」

 白い息が、二つ、ふわりとほどけて消える。 消えるのに、あたたかさだけが残る。 クリスマスの特別は、昨夜で終はるのかもしれぬ。だが、朝の挨拶は毎日ある。毎日あるものが、生活を明るくする。

 幹夫青年は、用宗の海で何かを大きく変へたわけではない。 ただ、白い息のついでに「おはよう」を先に言つただけである。 けれど、その“だけ”があると、今日の始まりは少し軽い。 聖夜のあとに残る明るさは、派手な灯りではない。短い挨拶の、乾いたあたたかさで出来てゐるのだと、幹夫は今朝、やつと自分のものにしたのである。

 
 
 

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