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用水の水晶ラジオ(舞台:静岡市清水区草薙)

 

 幹夫青年は、草薙の家並みのうしろ、 有度山のふもとへ伸びて行く細い道を、ゆっくり歩いてゐました。 冬の夜は透明で、空気がすこし硬く、靴の音がこつこつと石に当たって、まるで小さな算盤の玉が転がるやうに響きます。 息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光を受けていちど膨らみ、それからすぐ闇の方へほどけて消えました。

 幹夫の胸のなかには、言はれない言葉が並んでゐました。 並ぶといっても、きれいに整列してゐるのではなく、みんな少し冷えて、角ばって、重くなってゐるのです。

 ――「いまさら。」 ――「遅い。」 ――「でも、言はないと、もっと遅い。」

 そんな見えない裁判官が、幹夫の胸の中で、こつこつ机を叩いてゐました。

 けれども、そのとき、道の脇から、さらさら、といふ音がきこえました。 草薙の用水です。 あの、茶畑の脇や家の裏を、ひっそり流れて行く細い水の道が、冬の夜にもちゃんと働いてゐるのです。

 幹夫は、その音の方へ寄って行きました。 用水は、石のあいだを抜けて、まっすぐで、冷たく、しかしどこかあたたかい顔をしてゐました。 水は冷たいのに、音はあたたかい――そんなことが、幹夫にはいつも不思議でした。

 街灯の光が、水面に細い帯になって落ちました。 その帯は、水の揺れで小さくちぎれて、つぎつぎに流れて行きます。 ちぎれた光は、まるで銀河の切れはしみたいでした。

 用水の底には、白い石と黒い石が混ざってゐました。 白い石は、よく見ると水晶みたいに透けて、黒い石は、ぬれた革みたいに光を吸ってゐます。 幹夫は思はず、理科室の棚を思ひ出しました。

 (方鉛鉱……水晶……。) (水晶ラジオ……。)

 幹夫は昔、どこかで、水晶ラジオといふものの話を聞いたことがありました。 電池がなくても、空気の中の波を拾って、耳の中で小さく鳴る、あの不思議な装置。 石の粒と細い針と、長い線(アンテナ)で出来てゐるやつです。

 幹夫は用水の縁にしゃがみ、耳をすこしだけ近づけました。 すると、さらさら、の中に、まれに、ぴん、といふ高い音が混ざってゐるのが分かりました。 ぴん。 ぴん。 それは石がぶつかった音なのかもしれません。 けれど幹夫には、それが、波の合図のやうに聞こえました。

 (これは……受信してゐる。)

 幹夫は、なぜだか真面目な顔になりました。 真面目になると、胸の中の裁判官の机の音が遠くなり、代りに、水の音がはっきりして来ます。 水の音は、ただの音ではありませんでした。 音の底に、もっと細いものが流れてゐるのです。 まるで、透明なモールス信号が走ってゐるみたいに。

 そのとき、用水の上を、すうっと風が通りました。 風は見えません。 けれど、通ったのが分かります。 なぜなら、水面の光の帯が、いちどだけ細く曲がって、銀の糸みたいになったからです。 そして、その瞬間、用水のさらさらが、いちどだけ、カチッ と音を立てました。

 幹夫は、思はず言ってしまひました。

「……いま、合はった」

 合はった――といふのは、周波数が合はった、ということです。 もちろん、幹夫はほんとうに周波数など測ってゐません。 けれど、草薙の用水が、ちょうどその瞬間だけ、幹夫の耳の中の“受信機”に合ったのです。

 すると、さらさらの奥から、かすかな声のやうなものが出ました。 声といっても、人の声ではありません。 声の形をした、透明なふるへです。 そのふるへが、幹夫の胸の中へ、すうっと入って来ました。

 ――こちら、草薙用水局。 ――銀河通信、受信良好。

 幹夫はびっくりして、目を丸くしました。 けれど、びっくりしたのは、怖いからではありません。 冬の星座が急に近づいて来たときのやうな、あの「きれいで、すこし恥づかしい」びっくりです。

 ――今夜の星のニュース。 ――言葉は、ためると凍る。 ――凍ると重くて、風に乗らない。 ――だから、ひとことにして、息みたいに出せ。

 ふるへは、そんなふうに言ってゐるやうに聞こえました。 幹夫の胸の裁判官が、また机を叩きかけました。

 ――そんなの、都合のいい空耳だ。 ――水が喋るはずがない。 ――お前は疲れてゐる。

 けれど、草薙の用水は、裁判官の机よりずっと古く、ずっと静かで、ずっと正確に流れてゐます。 裁判官は、幹夫の胸の中にしかゐません。 用水は、草薙の土の上にほんたうにゐて、夜でも休まず働いてゐます。

 幹夫は、用水の縁の石をひとつ拾ひました。 白い石で、少し透明で、角が丸く、冷たく、きらりと光を返します。 幹夫はその石を掌にのせて、ふうっと息を吐きました。 白い息が石に当たって、石が一瞬だけ曇り、すぐにまた澄みました。

 (息で曇って、息で澄む。) (言葉も、そんなふうならいい。)

 用水の上流の方から、小さな足音が来ました。 見ると、ランドセルの子どもが二人、手袋をはめて、肩をすぼめて歩いてゐます。 子どもたちは、用水をのぞきこんで、声をあげました。

「ほら、光ってる」「銀の魚みたい」

 魚ではありません。 街灯の光がちぎれて流れてゐるだけです。 けれど“銀の魚”と呼べば、それはもう銀の魚になります。 世界は、呼び方で、すこしだけやさしくなります。

 子どもたちは笑って走って行きました。 笑ひは短い。短いから、ちゃんと届きます。 幹夫は、その届き方を見て、胸の中の「長い言ひ訳」の列を、そっと横へよけました。

 幹夫は、スマホを取り出しました。 画面の白い光は、相変らず正確で、すこし厳しい。 けれど今夜は、用水のさらさらと、風の曲がりと、白い石の透明さが、画面の白に薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。 にじむ白は、叱りません。 にじむ白は、息を通します。

 幹夫は長い文を書きませんでした。 水晶ラジオは、電池がなくても鳴るかわりに、音が小さいのです。 小さい音には、短い言葉が似合ひます。 短い言葉なら、風に乗って、草薙の夜を越えて行けます。

 幹夫は、たった一行だけ打ちました。

 ――「草薙の用水が、星のニュースを流してるみたい。元気?」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、水晶ラジオのイヤホンに入る、あのかすかな音みたいに、確かに鳴ったのです。

 幹夫は、白い石を用水へそっと戻しました。 石は、ぱちん、と小さく水に触れ、すぐに音がさらさらに吸ひこまれました。 吸ひこまれて、流れて、見えないところへ行きます。 けれど、見えないからといって無くなるわけではありません。 用水は、草薙の下のどこかで、ちゃんとつながってゐるのです。

 幹夫青年は、草薙の用水で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、水の音を水晶ラジオと思ひ、短い言葉をひとつ流しただけです。 けれど、その“だけ”があると、冬の夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。 草薙の用水は今夜もさらさら流れながら、星のふるへと、人の息と、ひとことの勇気を、同じ水の道にそっと混ぜてゐたのです。

 
 
 

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