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田のオルガン


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 安倍川の扇の端、茶畑の緑が山の肩にのぼって、ひらけたところがみごとな田であった。夏の終わり、幹夫はランドセルも持たずに朝の用水路をのぞきこみ、指で水温をはかった。ひんやりとした流れは、日本平の影から来た星の屑のように、光の粒を運んでいる。 風が通るたび、稲がいっせいに首をふり、見えないオルガンのパイプが鳴った。――シュー、シュー。幹夫には、その音が「きょうもよろしく」と言っているように聞こえた。

 学校へ行くまでに少し時間がある。幹夫は畦を歩きながら、稲の穂先をそっとのぞいた。まだ乳のように柔らかい粒が並んでいる。そこへ、青いトンボが一匹やって来て、幹夫の手の甲にとまった。「風の郵便局です。南の海はしけ模様。夕方から強い雨、とのこと」 トンボはそう言って、すぐ巴川の方へ飛び去った。幹夫はうなずく。田には雨も要るが、強すぎると根が苦しくなる。

 用水の分岐の小さな木の堰が、藻と落ち葉でつまっていた。水が片側に偏って、向こうの田が乾きはじめている。幹夫は竹の棒でつついたが、うまく外れない。「ねえ、幹夫くん」 稲がかすかに鳴った。「わたしたちは、首まで水に浸かるのは苦手です。けれど、喉が渇くのもたいへんです」「わかった」幹夫は言って、納屋から古いゴムホースを持って来た。 ホースに水を満たし、片端を高い方の田に沈め、もう片端を低い方の田へ導く。口で少し吸ってやると、水はやがて自分の重さで流れ出した。細い虹のような通路が生まれ、二つの田はたちまち呼吸をそろえた。

 昼、雲が厚くなり、駿河湾の方から黒い風が駆けて来た。夕方には雨。幹夫は町内の用水組合のおじさんたちと一緒に、水門の見張りを手伝った。「坊、よく気がついたな。さっきの工夫で助かった田があるぞ」 おじさんは笑って長靴の泥をはらった。雨は夜半にかけて本降りになり、屋根と葉のあいだから、無数のドラムが叩かれるような音がした。田のオルガンは、深い低音でゆっくりと鳴りつづけた。

 夜更け、幹夫は窓を開け、暗い田を見た。遠く清水の港の灯が小さくまたたいている。「山の水、海の風、どうか無事に通りすぎてください」 幹夫がそうつぶやくと、雨の帳の向こうで、トンボの郵便屋が小さく羽を鳴らした気がした。

 翌朝。雲は割れ、富士が白い息のようにのぞいた。田はこぼれそうな光でいっぱいになり、穂は雨粒の手紙を一枚ずつ揺らしていた。畦に出ると、稲が小さく音を立てた。「幹夫くん、きのうはありがとう。水の礼儀は守られました」 幹夫は、胸の中が温かくなるのを感じた。「こちらこそ。ぼくの方こそ、みんなに教えてもらってばかりだよ」

 その日から、幹夫は毎朝、温度、風向、用水の速さを記していった。指先で流れを測り、耳でオルガンを聞き、目で雲の動きを読む。ノートには数字と小さな絵がならび、ページの余白にはトンボの郵便印が押されていった。 台風の夜には水門をひらき、からっとした日には堰を少し閉める。稲はすこしずつ色を変え、九月の光をうすい金に熟させた。

 稲刈りの日、田のオルガンは最上の和音を鳴らした。束ねられた稲は、空に向かって干され、鳥たちが礼をいうように低く輪を描いた。幹夫は脱穀の手伝いをしながら、こっそり一粒の米をポケットにしまった。夜になってその一粒を掌にのせると、まるで小さな星の石のように、ひかりの記憶を持っていた。「山から水、風から雲、雲から雨、雨から田、田からぼくのごはん」 幹夫は声に出して、ゆっくりたどった。線はぐるりと円になり、どこにも切れ目がなかった。

 新米の湯気は、雨あがりの畦の匂いがした。茶碗の白さは、駿河湾のひるの反射に似ていた。幹夫は箸を置き、窓の外の暗がりに耳を澄ました。 ――シュー、シュー。 田のオルガンはもう収まっているはずなのに、確かに聞こえる。たぶんそれは、幹夫の胸の中で鳴っている。明日の天気の調べ、風の郵便の合図、そして「きょうもよろしく」という稲の挨拶。

 静岡の秋が深くなるまで、幹夫は毎朝、田の音を聞きに出かけた。星の石は彼のポケットで転がり、ノートは数字と歌でふくらんでいった。やがて冬が来ても、田のオルガンは止まらない。土の下で音は低く、しかし確かに続いている――春へ向けて、次の手紙をしたためながら。

 
 
 

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