由比の桜干しの色針

朝の由比（ゆい）は、港の道いっぱいに広げられた青い干し簀（す）の上で、桜色の粉が目をさまそうとしていました。桜海老（さくらえび）は薄い硝子（がらす）の欠片みたいに透け、ひとつひとつが朝の光を小さな匙（さじ）で受けとめます。八歳の幹夫は、干し簀の端にしゃがみこみ、指で網の目をなぞって、そこに小さな川の地図を描いていました。薩埵（さった）峠の肩には、まだ眠そうな雲が二枚。遠くの富士は、裾（すそ）で海の青をわずかに折り返しています。

　そのとき、港の柱の影から、薄い桃色の封書が一枚、風に押されて幹夫の足もとへすべり込みました。紙は笹の葉の手ざわりで、金いろの細い字が葉脈みたいに走っています。

　—　至急　湊（みなと）の風郵便　由比分室　　昨夜の潮替わりにより、「桜干しの色針（いろばり）」一本脱落。　　このままでは正午の天日（てんぴ）配りが薄紅（うすべに）に片寄り、　　味の秤（はかり）が揺れます。　　正午までに新しい色針を撚（よ）り合わせ、港の色見櫓（いろみやぐら）へ装着のこと。　　

採取物：　　　

① 夜の漁火（いさりび）の残り豆（まめ）ひとつ　　　

② 干し簀の上を渡る風の「さらり」の拍（はく）ひと欠片　　　

③ 富士川河口の潮目（しおめ）で生まれる「糸」ひとすじ　　

提出先：由比港　色見櫓

「読み書き、上手だね」

　手摺（てすり）の上から、黄色い脚をしたウミネコが一羽、ひゅいと降りました。目は豆電球みたいに明るく、嘴（くちばし）の先には赤い点がひとつ。「港案内係のネコ」と、翼の根もとに細い名札が結ばれています。

「色針が一本抜けると、桜が桜でなくなる。今日は君に、針をこしらえてもらいたい。大丈夫、桜海老は君の手の『ただいま』が好きだ」

　幹夫はうなずき、ポケットの白いハンカチと、ランドセルの余りひもを確かめました。

　　　＊

　まずは「漁火の残り豆」。防波堤の外、夜明けの海はまだ眠気をひと匙残していて、漁船の灯はその眠気の縁で小さく瞬（またた）きます。灯りが消える、その間際。幹夫は息を合わせ、ハンカチの角をそっと持ち上げました。豆のような灯が「り」と一度だけ細く鳴って、布の糸目のあいだに、小さな温度となって座りました。

「一本め、上等」　ウミネコは翼で富士川のほうを指しました。「次は潮目の糸。川の甘みと海の塩が会釈（えしゃく）する場所に、細い線が一本、浮かぶ」

　河口は広い舌のようにひらけていて、水は左右で色をわずかに変えています。境い目は目では見えないのに、指先でなでると、ひんやりとした一本の「これから」が触れました。幹夫は余りひもで小さな輪をつくり、「いま」と囁（ささや）いて、その線を輪の中に受けとめます。ひもは軽くふくらみ、指先に塩と甘みの両方の約束が移りました。

「二本め、良い糸だ」　ウミネコは港の干し簀のほうへ、すいと滑りました。「最後は、さらりの拍。桜の身がかるく笑う、その一瞬の拍子」

　干し簀の上を風が渡ると、海老は万華鏡の小片のように小さく身じろぎして、「さらり」と粒の言葉をこぼします。幹夫はハンカチを広げ、その「さらり」の端をひとかけらだけ受けました。布は一瞬だけ、青い影の涼しさでひやりとしました。

　　　＊

　色見櫓は、港の端の高い柱の上にありました。昼の光を量るための小さな台で、そこに色針を立てる細い受け座（ざ）が空（あ）いています。櫓の足もとには、青い干し簀がひろがり、桜海老は港じゅうの窓みたいに並んで昼を待っています。

「撚ろう」　ウミネコが羽の先で軽く拍（はく）を打ちました。

　幹夫は膝にハンカチをひろげ、漁火の豆、潮目の糸、さらりの拍を、指先でそっと合わせました。最初はそれぞれが別々の海へ帰りたがりましたが、撚るたびに小さく「り」「ん」「り」と鳴って、やがて一本の細い針になっていきます。針の中を、灯のぬくもり、潮の糸、さらりの拍が、三つ綾（あや）になってゆっくり流れていました。よく見ると、針先は薄い桜色で、針身は海の青を一本だけ含んでいます。

「さ、立ててごらん。固すぎず、ゆるすぎず」

　幹夫は深呼吸をして、色見櫓の受け座に色針をそっと差し込みました。針はひと呼吸して、「り」とひと鳴り、真っ直ぐに立ちます。次の瞬間、港の上の光が、目に見えない秤（はかり）の皿に広がり、桜海老の身の一つひとつへ、ちょうどの紅が配られました。干し簀の影は濃すぎず、薄すぎず、風は海老の背に小さな座布団を置くように通り抜けます。

　遠くの国道の音は少しやさしくなり、東海道の列車の窓は、ふと港の方向を一度だけ丸く見ました。薩埵峠の肩では雲が片袖を下ろし、富士の裾は白をひと筋だけ増やして立っています。港の人たちの掛け声は、干し簀の端と端でぴたりと合い、手のひらにのった桜色は、目をさましてからようやく微笑（ほほえ）みました。

「できた」　幹夫が息をはくと、ウミネコは空で小さな輪になって戻りました。「ありがとう、幹夫くん。色針が立てば、桜は桜になる。お礼に、切手を一枚」

　ウミネコが嘴（くちばし）で差し出した切手は、透明で、小さな干し簀の形をしていました。光にかざすと、角の一つに漁火の豆、別の角に潮目の糸、もう一つの角にさらりの拍が、うすく描かれているのが見えます。中央には、極細の桜色の針が一本。

「『桜』の切手。君の一日の色が薄すぎたり濃すぎたりしたら、胸の地図に貼ってごらん。『ただいま』が、ちょうどの紅で出てくる」

　　　＊

　帰り道、幹夫は港のベンチで、お弁当の白いおにぎりをひとつ食べました。口の中で海が小さく笑い、舌の上で、さっきのさらりの拍が、砂糖の粉みたいに軽くほどけます。干し簀の向こうでは、風が天気図を一枚だけ描き直し、桜色はその地図の上にきれいに座りました。

　家の門をくぐると、幹夫は声を丸くして言いました。「ただいま」

　その「ただいま」は、いましがた色見櫓を通ってきたみたいに、ちょうどの紅さでした。台所からの「おかえり」は、味噌汁の湯気に海の息を一匙（ひとさじ）混ぜて返り、柱の木目はいつもよりまっすぐに上へ走りました。胸の中の切手がいちどだけ淡く光り、見えない細い針が、心の前でそっと立った気がしました。

　正午。港の風はしばらく座り、桜海老はそれぞれの殻で短い午睡（ひるね）をしました。干し簀の影は自分の背丈をたしかめ、自販機の缶は冷たさを少しだけやわらげ、犬はあくびを半分でやめました。

　夕方。青い干し簀は桜色の粉をやさしく畳（たた）み、港の人たちは箕（み）で風を一杯だけすくいました。沖へ出る船の灯は、今度は夜に向かって豆を並べ、薩埵峠の上に新しい月の白が細く立ちます。色見櫓の針は最後の風を受けて「り」と一度だけ鳴り、港の影は家々の中へ、桜の色をほんの少しずつ配っていきました。

　夜。由比の空は、干し簀の目で星をとめ、海は黒い皿の上でやわらかく息をしました。幹夫が枕に頭をのせると、胸の色針が小さく呼吸し、遠くで漁火の豆が、夢の端を一度だけ明るくしました。

　—　灯の豆　　潮の糸　　さらりの拍　　それらを撚って一本の針にすれば、　　今日の紅は、　　ちゃんと君の舌へ降りてくる。

　朝。港はまた新しい光を一枚受け取り、干し簀は青を広げました。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくりと学校へ向かいました。背中のどこかで、小さな色針が、今日の最初の桜色を静かに指していました。