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畑のうねは天の川

 蒲原のはずれの畑へ行く道は、いつも少しだけ潮の匂いがまじっていました。 海が近いからです。けれど畑の入口まで来ると、その潮の匂いの上に、土の匂いがどっと重なって、幹夫少年の胸をまっすぐ叩きました。

 土の匂いは、甘くも苦くもなく、けれど何かを約束する匂いでした。 雨が前の晩に少し降ったので、黒土はまだしっとりして、陽が当たると、ぬれた石のように光りました。 うねは、きちんと並んで、遠くへ遠くへ続いていました。まるで地面に書かれた、太い楽譜の線のようでした。

 そのうねの間に、茄子の葉が広がっていました。 葉は大きく、少しざらざらして、裏に白い毛が生えていました。 茄子の実は、まだ小さかったのに、もう夜の色を持っていました。紫の黒。 幹夫は、指先でそっと実に触れてみました。 つめたくて、つるりとして、何か考えごとをしているような沈黙がありました。

 「きみ、もう夜のこと知ってるの。」

 幹夫が小さく言うと、葉がカサリと鳴りました。 風が来たのです。薩埵のほうから、熱を少し冷ました風が、畑の上をすべっていきました。

 そのとき幹夫は、畑の音が、思ったよりたくさんあることに気づきました。 葉のこすれる音。 どこかで虫が鳴く音。 水路の水が、ちょろちょろと石を叩く音。 そして、いちばん小さく、いちばん大事そうな音――土の中で、何かがゆっくり動く音。

 幹夫は、うねの端にしゃがみこんで、手のひらを土に当てました。 土はひんやりしていました。 ひんやりしているのに、奥からやわらかい熱が、じわっと返ってくるようでした。

 (こっちへおいで。) (耳を近づけてごらん。)

 そんなふうに、土が言った気がしました。 もちろん、土がしゃべるはずはありません。 けれど幹夫には、土が黙っているとは、どうしても思えなかったのです。黙っているふりをして、じつはずっと働いている――そういう黙り方があると、幹夫は知っていました。

 うねの向こうに、一本の細い棒が立っていました。 古い着物を着せられて、縄で縛られた、かかしでした。 顔は墨で描いた目と口だけで、どこを見ているのかわからないのに、畑の全部を見張っているようでした。

 幹夫が近づくと、かかしの袖が、風でぱたぱたと鳴りました。

 (鳥はね、きれいなんだよ。) (でも、きれいなままじゃ、畑が空っぽになる。)

 そう言われたような気がして、幹夫は思わず笑いそうになりました。 かかしは、こわい顔の役をしているのに、どこか寂しそうでした。役というのは、いつも少し寂しいのです。

 かかしの足もとを見ると、縄がほどけかけていました。 幹夫はしゃがんで、その縄を結び直しました。 指に縄の毛羽が刺さって、ちくりとしました。

 「よし。これで、しっかり立てる。」

 その瞬間、風がもう一度吹き、かかしの袖が大きくふくらみました。 ぱあん、と旗のように。 幹夫には、それが拍手みたいに聞こえました。

 畑の端の水路へ行くと、土手に小さな穴がいくつも空いていました。 ミミズが通った穴です。 幹夫は、穴のそばの土の粒を指でそっと崩し、穴の中へ顔を寄せました。

 暗い匂いがしました。 暗いのに、いやな匂いではありません。 落ち葉が溶けて、草が溶けて、雨がしみて、土になる匂い。 幹夫はその匂いを嗅ぐと、胸の奥が少し苦しくなりました。 ――消えることが、終わりじゃない。 ――消えたものが、次のものを支える。 それがわかると、うれしいのに、切ないのです。

 ちょうどそのとき、うねの間から、ちいさな赤い点が動きました。 てんとう虫でした。 赤い背中に黒い星がいくつもあり、その星は、畑の空みたいに並んでいました。

 てんとう虫は、葉の上で迷い、うねの溝へ落ちそうになりました。 幹夫は指を一本出して、葉のふちへそっと近づけました。 てんとう虫は、ためらうように止まり、それから幹夫の指先へ乗りました。

 軽い。 けれど、軽さの中に、確かな重みがありました。 生きものはみんな、重みを持っています。生きているというだけで。

 幹夫は、てんとう虫を、いちばん青い葉の上へ戻してやりました。 てんとう虫はすぐに歩き出し、葉の背中の毛を踏みながら、畑の仕事へ戻っていきました。

 (ありがとう。) (こっちも、ちゃんと働くよ。)

 そんなふうに言われた気がして、幹夫は、また少し胸が熱くなりました。

 その熱さを冷ますように、遠くで汽車の音がしました。 東海道の汽車です。 ゴトン、ゴトン、と地面の奥を叩いて、畑の音の中へ入ってきました。 幹夫は汽車の音を聞くと、いつも不思議な気持ちになります。 畑は土の上にあるのに、汽車は土の下にも道を持っている――そういう“別の世界”が、すぐ隣に走っている気がするからです。

 陽が少し傾くと、畑のうねの影が長く伸びました。 影は、うねと同じ数だけ並んで、黒い縞になり、地面を星図みたいにしてしまいました。

 幹夫は、ふいに思ったのです。 ――うねは天の川だ。 ――苗は星だ。 ――水路は銀河の川だ。 ――そして土は、見えない星雲だ。

 目を細めて見ると、葉の表の細い筋が光り、ほんとうに星座の線みたいに見えました。 虫の羽音は、遠い電信のようでした。 風は、見えない汽車で、畑の上を走っていました。

 幹夫は、畑の端の小さな畝に、ひと粒の種を落としてみたくなりました。 畑の人に怒られるかもしれない、と一瞬思いました。 けれども、怒られるより先に、胸の中から“やってみなさい”という声が、静かに立ち上がってきました。

 幹夫は、ポケットの中の紙切れを開きました。 昼に母がくれた、かぼちゃの種が二つ入っていました。 幹夫は、そのうちの一つを、指先にのせました。

 種は、乾いていて、軽くて、硬い。 けれど、その硬さの中に、未来が詰まっていると思うと、幹夫は息をのむほどでした。 小さな未来。 けれど、たしかに未来。

 幹夫は、土を少し掘り、種を落とし、そっと土をかぶせました。 そして、手のひらで、その土をやさしく押さえました。

 (暗くても、だいじょうぶ。) (ここは、暗いけれど、あたたかい。) (夜の中で、君は準備をする。)

 そんな声が、土の奥から、ふわっと上がってきた気がしました。

 幹夫は、小さくうなずきました。 だれに返事をしたのかわからないのに、返事が必要だと感じたのです。

 「また来る。ちゃんと見る。ちゃんと聞く。」

 言い終えると、風がふっと止みました。 畑の音が、いったん静まりました。 そして次の瞬間、葉がいっせいに、さらさらさら、と鳴りました。 それは、畑の返事でした。 拍手のようでもあり、笑い声のようでもあり、雨上がりの光の衣ずれの音のようでもありました。

 空の端は、もう薄い紫になっていました。 富士の影が、遠くの雲にしずかに混ざりはじめ、駿河湾の上には、薄い銀の道が一本、まっすぐ伸びていました。 幹夫は、土のついた手のひらを見つめました。 そこには、黒い粒がいくつも光っていました。

 (ぼくは、いま、畑の一部になった。) 幹夫は思いました。 (畑は、ぼくの胸の中にも入った。)

 帰り道、草の間で、最初の虫が鳴きました。 その声は、たったひとつの点灯のように、夜を呼びはじめました。 幹夫は、振り返って畑を見ました。 うねはもう見えにくくなっていました。 けれど幹夫には、暗くなった畑の下で、種が静かに目を開け、土がゆっくり呼吸し、見えない銀河がちゃんと続いていることが、はっきりわかっていました。

 幹夫は、草履を履き、少しだけ早足になりました。 胸の中に、まだ土の匂いがありました。 それは、夜へ渡すための、小さな灯りの匂いでした。

 
 
 

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