登呂の夕べ、火起こしの火花は未来
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月23日
- 読了時間: 6分

幹夫青年が登呂の方へ出て来たのは、古代に憧れて胸を清める――といふやうな殊勝のためではない。 殊勝といふものは、胸へ入れた途端に湿つて重たくなり、帰り道には説教に化ける。幹夫は、その化け方だけはよく知つてゐた。
ただ――この頃、何をするにも「遅れる」のである。 返事が遅れる。起きるのが遅れる。決めるのが遅れる。 遅れるたびに、遅れた自分を責める声が、どこからともなく出て来る。責める声は、どこか他人の顔をしてゐるくせに、結局、幹夫の喉の奥から出る。厄介な腹話術である。
その腹話術を一晩黙らせるには、煙の匂ひが要る――と、幹夫は勝手に思ひ込んだ。 煙の匂ひは、言ひ訳より先に鼻へ来る。鼻へ来るものは、裁判を開かせない。 登呂遺跡の夕べに「火起こし体験」がある、といふ札をどこかで見た。札は、いつでも人を動かす。札に「体験」と書いてあると、なおさら動く。体験といふ言葉は、立派さを要求しないからである。
夕暮れの静岡駅からバスに乗ると、窓の外の町が、白い顔から橙いろの顔へ、するりと着替へて行つた。 街灯が早めに点き、車の尾灯が川のやうに流れ、どこかの店から煮物の匂ひが洩れて来る。そういふ匂ひは、生活の匂ひで、生活の匂ひは人を前向きにする。前向きといふより、少なくとも「帰つてもいい」と思はせる。
登呂へ着くと、空気がすこし違つた。 土の匂ひが濃い。水の匂ひもある。 舗装の上を歩いてゐるはずなのに、足の裏の方が、先に柔らかくなるやうな気がした。古代といふものは、歴史の本の中にあるのではない。土の匂ひの中に、まだ居残つてゐる。
会場は、小さな灯りで区切られてゐた。 提灯ほど派手ではないが、足元をあたたかく照らす灯り。 その灯りの下に、家族連れがゐて、子どもが走つて、係の人が笑つてゐる。笑つてゐるが、祭りの笑ひではなく、仕事の笑ひでもなく、ちやうどその中間――「ここでやるよ」といふ生活の笑ひである。
「火起こし体験」と書かれた札の前に、長机が並び、木の板と棒が置かれてゐた。 幹夫はその道具を見て、胸の奥が少しだけひきしまるのを感じた。道具といふものは、使はれるのを待つてゐる顔をする。使はれるのを待つ顔は、こちらの逃げ道を塞ぐ。
受付の女が、明るい声で言つた。
「こんばんは。火起こし、やります? ひとりでも大丈夫ですよ」
また「ひとりでも大丈夫」である。 静岡の町は、ひとりを責めない言葉を、時々さらりと置いて行く。それがいやらしくないから、こつちもさらりと乗れる。
「こんばんは。……お願いします」
幹夫は、先に挨拶をしてから申し込んだ。 挨拶が先に出ると、胸が少し軽くなる――駿府の湯気の中で覚えた稽古が、ここでも勝手に動いた。
席につくと、係の年配の男が説明を始めた。 男は声が大きいが、偉ぶらない。偉ぶらぬ人は、教へ方が上手い。
「いいかい。火はね、急がすと逃げる。押しつけると逃げる。――でも、放つておくと来ない」
来ない。逃げる。 幹夫はその二語が、妙に胸に刺さつた。まるで自分の返事みたいだ。急ぐと余計にこじれ、放つておくと消える。人間関係と火は、どこか似てゐるらしい。
幹夫は木の棒を手に取り、板の穴に差し込み、両手でくるくると回し始めた。 最初は、いかにも「やつてゐる顔」をした。やつてゐる顔は、いつでも少し得意げで、そして得意げな顔ほど、すぐに崩れる。
棒は回る。 回るが、煙は出ない。 腕だけが疲れる。掌だけが熱くなる。 隣の子どもが、先に小さな煙を出し、「出た!」と叫ぶ。母親が拍手をする。ぱち、ぱち。 幹夫の胸がきゆつとなる。大人が子どもに抜かれる、といふ滑稽が、突然、現実になる。
――ほらみろ。 ――遅い。鈍い。向いてない。 幹夫の頭の中の裁判が、いつものやうに開廷しかけた。
そのとき、係の男が幹夫の手元を覗き込み、ふつと言つた。
「兄さん、いいね。真面目に回してる。――でもね、力が“勝ちたい手”になつてる」
勝ちたい手。 幹夫は、青葉の夜市の親方の言葉を思ひ出して、思はず笑ひさうになつた。 勝ちたい手は、すぐ破れる。負けてもいい手が、案外うまく行く。
「……どうしたらいいですか」
「肩の力を抜く。息を吐く。押すのは、ほんの少し。回すのは、丁寧に。――火はさ、遅い方が好きなんだ」
火は遅い方が好き。 その言ひ方が、茶の湯気みたいに胸へ入つた。 遅いのは駄目だ、と幹夫はずつと信じてゐた。だが、遅いのが好きなものもあるなら、遅い自分にも居場所がある。
幹夫は息を吐いた。 吐くと、肩が下りた。 そして、棒を回し直した。今度は、勝ちたい顔をやめる。勝ちたい顔をやめると、手が少し静かになる。静かになると、摩擦の音がよく聞こえる。 きい、きい、と木が鳴く。鳴く音が、だんだん一定になる。一定になると、気持ちが落ち着く。落ち着けば、火も逃げない。
ふと、薄い煙が、ほんの一筋、立つた。
幹夫は、そこで動きを止めさうになつた。止めると消える。 係の男が、横から小さく言つた。
「止めない。続ける。――遅れても、点く」
遅れても点く。 幹夫は、その言葉に背中を押され、さらに丁寧に回した。
煙が増えた。 煙の匂ひが鼻へ来た。鼻へ来た瞬間、頭の中の裁判が、しん、と黙つた。 板の脇に、黒い粉が溜まる。黒い粉は、まだ火ではない。だが、火の手前の顔をしてゐる。火の手前の顔は、未来に似てゐる。
「はい、ここまで。粉、そつと移して」
係の男が、藁の小さな束――火口――を差し出した。 幹夫は黒い粉をそつと落とし、両手で包むやうにして、ふう、と息を送つた。ふう、といふ息は、声の出ない挨拶に似てゐる。
すると、黒い粉の一箇所が、ふつ、と赤くなつた。 赤い点が、じわりと広がる。 幹夫は、思はず息を止めた。 止めるな、と係の男が笑つた。
「息していい。息があるから火がある」
幹夫はふう、ともう一度息を送り、藁をそつと閉ぢたり開いたりした。 赤い点が、ついに、ぱつ、と小さな炎になつた。
炎は小さい。 小さいが、確かだ。 確かなものは、いつでも少し明るい。
周りから、控へめな拍手が起こつた。ぱち、ぱち。 幹夫も、笑つてしまつた。 笑ひは大きくない。だが、逃げの笑ひではない。掌の熱と煙の匂ひとが、ちゃんと自分の中に残つてゐる笑ひである。
「ほらね。遅い火ほど、いい火だよ」
係の男が言つた。 幹夫は、胸の奥がふつとほどけるのを感じた。遅い火ほどいい火――ならば、遅い返事も、遅い決断も、全部が駄目ではない。遅いなら遅いなりに、点け方がある。
体験が終ると、紙コップの温いお茶が配られた。 幹夫はそれを受け取り、火の残り香のする指先でコップを包んだ。 茶の湯気と、煙の匂ひが一緒になると、妙に「暮し」が出来上がる。暮しは立派ではない。だが、暮しは続く。続くものは、前向きである。
帰り際、係の女が小さなカードを渡した。 そこには短く書いてある。
「火花は、未来。」
幹夫はその字を見て、少し照れた。未来などと言ふと、たちまち立派になる。立派になると、また重たくなる。 だが今日は、立派にせずに受け取つた。未来は、火花ぐらゐの大きさでいい。火花なら、掌に残る。
外へ出ると、登呂の夕べの空は、もう藍いろに沈みかけてゐた。 足元の灯りが、静かに道を照らし、遠くで子どもの笑ひ声がする。 幹夫は、ポケットからスマホを取り出した。長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。今日は火花の日だ。短くて、熱だけが残ればいい。
彼は打つた。
――「登呂で火起こしした。遅れても点いた。返事も、ちゃんと出す。」
送信すると、胸の内がすとんと静かになつた。 静かになるのは、問題が消えたからではない。 問題の前に、ひとつ火を点けたからである。火を点けた手は、次の手も動かしやすい。
幹夫青年は登呂の夕べで、古代を学んだのではない。 遅れても点く、といふ、暮しに役立つ小さな火を覚えた。 その火は、帰りの夜風の中でも消えず、掌の奥で、しばらくあたたかく燃えてゐた。





コメント