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登呂の焚火、火花で『おめでとう』

 幹夫青年が登呂へ行かうと思ひ立つたのは、古代に心を洗はれたい――などといふ、いかにも作文の冒頭に似合ふ理由からではない。 実際、心など洗へば洗ふほど、洗ひ残しの汚れが目につく。目につくと、また自分を責める。幹夫はその仕組みを、もう嫌といふほど知つてゐた。

 ただ、今夜の部屋が厭に静かだつたのである。 クリスマスといふ呪文が町を走り回つたあと、部屋だけが取り残されて、白い灯が正確に机の上を照らしてゐる。正確な灯の下では、返信し損ねた文も、言ひ損ねた挨拶も、きちんと整列して見える。整列して見えるものほど、人を疲れさせるものはない。

 そこで幹夫は、整列の外へ出た。 出て、なるべく「立派でない場所」へ行きたかつた。立派でない場所――言ひ換へれば、湯気と灯りがあつて、誰もこちらに「楽しめ」と命令しない場所。 さう思つてゐるところへ、昼間どこかで見た小さな札が胸に浮かんだ。

 登呂 冬の夕べ 焚火と火起こし(体験)

 体験、と書いてある札は、立派さを要求しない。 要求しないものほど、幹夫にはありがたい。要求されると、すぐに「それが出来ない自分」を数へ始めるからだ。

 バスで登呂へ向ふ途中、窓の外の町はまだ少しだけクリスマスの顔をしてゐた。 ケーキの箱、赤い紙袋、チキンの匂ひ。 だが登呂へ近づくにつれて、匂ひが変る。土の匂ひが増え、水の匂ひが混じり、どこかで焚いた木の匂ひがうつすら漂つて来る。木の匂ひは、理由を問はない。理由を問はない匂ひは、人の胸の裁判を休廷させる。

 会場に着くと、灯りが低かつた。 街のイルミネーションのやうに高く明るくはない。足元を照らす程度の灯が、道に沿つて点々と置かれてゐる。 登呂の家の復元の屋根が、夜の中で黒く見え、その黒の縁が灯りに縁取られてゐる。 派手でない。派手でないから嘘が利かぬ。嘘が利かぬのに、息が苦しくない――それが、ここにはあつた。

 人はそれなりにゐたが、祭りの人波ではない。 子ども連れ、年配の夫婦、仕事帰りらしい一人客。 幹夫はその「一人客」の列に、こつそり自分を紛れ込ませた。紛れ込ませる、などと言ふとまた卑屈だが、今夜は卑屈も据ゑ置きにしてよかつた。ここは登呂だ。人間の立派さより、土と火の方が年上である。

 焚火の場所はすぐ分かつた。 煙が見える。煙が見えると、人間は勝手に吸ひ寄せられる。煙は理屈を聞かぬ。 焚火は小さく、しかし確かに赤い。木がぱち、と鳴り、火花が一つ飛ぶ。飛んだ火花はすぐ消える。消えるが、消える瞬間が妙に明るい。

 幹夫は、その「すぐ消える明るさ」を見て、ふと安心した。 明るさは、長く続かなくても役に立つ。 長く続く明るさは、かへつて人を疲れさせる。祝ひの日の「ずつと楽しくあれ」といふ命令のやうに。 火花は、命令しない。ただ、瞬間だけ光る。

 焚火のそばに、係の男がゐた。 年配で、声が大きいのに威張らない。威張らぬ人は、だいたい火の世話が上手い。火は威張る人間を嫌ふ。

「こんばんは。寒いね。近く、寄んな」

 幹夫は、先に返した。

「こんばんは」

 挨拶を先に出すと、胸が少し軽くなる。最近覚えた稽古が、ここでも勝手に働いた。

 男が、藁を束ねたものを指さした。

「火起こし、やる? クリスマスでも、火は同じだよ」

 クリスマスでも火は同じ。 その言ひ方がよかつた。祝ひの名前が何であれ、身体は冷えるし、火は温い。生活は、立派な名前の下でも、結局それだけである。

 幹夫は一瞬迷つた。 迷ふと、いつもの裁判が始まる。 ――うまく出来ない。 ――失敗したら恥づかしい。 ――失敗する自分を見たくない。 だが、焚火の火花がまた一つ飛んだ。飛んだ火花が、裁判の書類の角を焦がすやうに見えた。焦げると、書類は読めなくなる。読めなくなれば、裁判は止まる。

「……やります」

「いいね。じゃ、兄さんはここ」

 幹夫は板と棒を渡された。棒を板の穴に差し込み、両手で回す。 最初は勢ひよく回した。勢ひよく回すと、やつてゐる顔が出来る。やつてゐる顔は、すぐに崩れる。 棒は回る。腕が疲れる。掌が熱くなる。だが、煙が出ない。

 隣では小学生ぐらゐの子が、父親に励まされながら回してゐる。 子どもはすぐ「疲れた」と言ふ。言ひながら、また回す。 大人は「疲れた」と言はない代りに、すぐ心の中で自分を叱る。叱るから、手が硬くなる。硬くなると、火が逃げる。 幹夫の中の裁判官が、もう机を叩きかけた。

 ――ほら、遅い。 ――ほら、向いてない。 ――クリスマスなのに、何をしてゐる。

 そのとき、係の男が幹夫の手元を覗き込み、笑ひもせず叱りもせず、ただ言つた。

「兄さん、手が“急ぎの手”になつてる」

 急ぎの手。 幹夫は、その言ひ方にどきりとした。 急ぎの手は、普段の自分の手だ。返事を急ぎ、決断を急ぎ、急ぐくせに動かない。急ぐから動けない――そんな矛盾を、手の形で見せられた気がした。

「火はな、急がすと逃げる。押しつけると逃げる。……でも、放つと来ない」

 男は続けて言つた。 どこかで聞いたやうな言葉だが、今夜はその言葉が、焚火の匂ひと一緒に胸へ落ちた。説教ではない。煙の言葉である。

「息、吐いて。肩、落として。回すのは丁寧に。押すのは、ほんのちょっと」

 幹夫は息を吐いた。 白い息が闇に溶ける。溶けると、胸の中の裁判官も一緒に溶けたやうに感じた。 肩を落とし、棒を回し直す。回す音が一定になる。一定になると、気分が落ち着く。落ち着けば、火も逃げない。

 しばらくすると、薄い煙が出た。 煙の匂ひが鼻へ来る。鼻へ来た瞬間、頭の中の言ひ訳が黙る。 煙は、言ひ訳より先に生きてゐる。

「いいよ。そのまま、止めない」

 男が小さく言つた。 止めない――その一言が、妙に効いた。 幹夫は、よく止める。途中で止める。返事を途中で止め、話を途中で止め、楽しむ顔を途中で止める。止めるのが癖になると、何でも止めたくなる。

 幹夫は止めずに回した。 煙が増え、板の脇に黒い粉が溜まる。黒い粉は、まだ火ではない。だが火の手前の顔をしてゐる。火の手前の顔は、未来に似てゐる。未来は、いつも粉みたいに頼りない。

 男が火口の藁を差し出した。

「その粉、そつと落として。で、ふう、ってやる。ふうは、優しく。命令しない息」

 命令しない息。 幹夫は、その言葉が好きだと思つた。命令する息は苦しい。命令しない息は長持ちする。

 黒い粉を藁に落とし、両手で包み、ふう、と息を送る。 最初は何も起きない。 だがもう一度、ふう。 その次のふうで、黒の一箇所が、ふつと赤くなつた。

 赤い点が、生き物みたいに少しずつ広がる。 幹夫は思はず息を止めた。止めると消える。 男が笑つた。

「息していい。息があるから火がある」

 幹夫は息を送り続けた。 赤い点が、ぱつ、と小さな炎になつた。

 その瞬間、男が言つた。

「おめでとう」

 おめでとう。 幹夫は、その一言に面食らつた。 火がついただけで、おめでとう。たつた火花一つで、おめでとう。 だが、面食らつた次の瞬間、胸の奥がふつと温かくなつた。

 幹夫は思ひ出した。 自分は、ここしばらく「おめでとう」を言つたことがない。 誰かの誕生日にも、昇進にも、何かの達成にも、いつも遅れて、結局言へないまま「今さら」と言ひ訳して来た。言ひ訳すると、ますます言へなくなる。 祝ひの日に、祝へない男――それが自分だと、どこかで決めてゐた。

 けれど今、火花一つで「おめでとう」と言はれた。 火花は、立派な成果ではない。 立派でないのに、祝つていい。 祝つていいなら、遅れても祝へる。遅れても、言つていい。

 隣の子どもが、羨ましさうにこちらを見てゐた。 幹夫はその目を見て、考へる前に言つた。

「……次、やります? 僕、手、押さへます」

 子どもは目を輝かせ、父親が笑つた。 幹夫は、子どもの手元をそつと支へた。支へるといふのは、教へるより軽い。軽いから、こちらも威張らずに済む。 子どもが煙を出し、赤い点を作り、火がついた。 幹夫は、今度は自分の口で言へた。

「おめでとう」

 子どもは笑つた。 笑ひは、焚火の音より少し高い。 その高さが、夜を明るくする。

 焚火のそばでは、紙コップの甘酒が配られてゐた。 幹夫はそれを受け取り、掌の温度でコップを包んだ。木の煙と、米の甘さと、土の匂ひが混ざると、妙に「暮し」が出来上がる。暮しは立派ではないが、続く。続くものは前向きである。

 係の男が、ぽつりと言つた。

「クリスマスだろ。……メリークリスマス、でもいいし、“おめでとう”でもいい。火がつけば、だいたい祝ひだ」

 幹夫は、笑ひながら頷いた。 火がつけば祝ひ。 ならば、返事が送れれば祝ひ。 長文でなくてもいい。一行でいい。 火花みたいに短くていい。

 幹夫は焚火の明るさの中でスマホを取り出した。 画面の白い灯は、部屋の灯ほど厳しくない。焚火の赤が、白を一枚やわらげるからだ。 幹夫は短く打つた。短いものは乾く。乾けば届く。

 ――「メリークリスマス。登呂で火がついた。遅れても祝えるって思った。おめでとう。」

 送信してしまふと、胸の内がすとんと静かになつた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、今日はそれで十分だ。こちらが先に祝へたのだから。

 帰り道、登呂の低い灯りは相変らず足元を照らしてゐた。 派手ではない。だが転ばせない。 派手ではないが転ばせない灯り――幹夫は、あれがいちばん生活に効く灯りだと思つた。

 クリスマスの特別は、ツリーの頂上にあるのではない。 登呂の土の匂ひの中で、火花が一つ飛び、「おめでとう」と言へてしまふところにある。 幹夫青年は今夜、立派な祝ひ方を覚えたのではない。 遅れても、短くても、祝つていい――その実用を、焚火の匂ひと一緒に持ち帰つただけである。

 火花はすぐ消える。 けれど、消える火花ほど、明日を点ける。

 
 
 

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