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白いトンネル

朝の光が、雪の上でいちばんきれいに割れる時間がある。まだ人の体温が道に染みていない、冷え切った白の表面に、陽が斜めから薄い刃みたいに差し込む瞬間。私はその時間を逃したくなくて、ホテルのドアを静かに閉め、肩までマフラーを引き上げて公園へ向かった。

外気は痛いほど澄んでいた。息を吸うと、鼻の奥がつんとする。吐いた白い息が、口元でふくらんで、すぐに薄くほどけていく。足元の雪は昨日の名残なのか、道の外側にはふかふかと残っているのに、散歩道の中央だけは除雪されて固く締まり、ところどころ氷がガラスみたいに光っていた。靴底が踏むたび、きゅ、と短い音がして、体の重みがそのまま地面に伝わるのがわかる。冬の朝は、歩くという行為がこんなにも“物理的”になる。

公園の並木道は、まっすぐに伸びていた。左右に等間隔で並んだ木々が、枝を高く広げて、空に向かって黒いレースの骨組みを作っている。その枝の上に、昨夜降った雪が部分的に残り、白い塊が不規則に張り付いていた。木の幹は黒褐色で、雪の白と並ぶと、墨で描いた線みたいにくっきりする。枝先の細いところまで白が乗っている部分もあって、まるで木が自分で光っているみたいに見えた。

視界の左側に、木のベンチが一つあった。座面は木目が見えるほど雪が払われていて、背もたれの縁にだけ薄く白が残っている。ベンチの隣の小さなゴミ箱の蓋には、丸い帽子のように雪が積もり、陽射しで表面が少しだけ溶けて、つやっとした膜になっていた。近づくと、木のベンチから微かに濡れた木材の匂いがした。冬の匂いは無臭だと思い込んでいたけれど、実際は違う。雪は音を吸い取るかわりに、匂いの輪郭を際立たせる。土の冷たさ、樹皮の湿り気、遠くの家から漂ってきたであろう暖房の匂い――それらが薄い層になって鼻の奥に残る。

並木道の奥には、数人の影が小さく動いていた。黒いコートの背中、帽子の丸み、腕を振るリズム。距離があるせいで声は届かない。ただ、歩調だけが見える。人がいるのに静かだ、という不思議な感覚が胸に広がった。街の冬は、賑やかさを奪うわけではなく、賑やかさの“余分”だけを削ぎ落として、必要なものだけを残す。だから、少し怖いほど正直になる。

私はベンチの前で立ち止まった。座ろうかと思ったけれど、座面が冷たそうで、今日はまだその冷たさを受け止める自信がなかった。手袋越しにベンチの背もたれをそっと触る。木は固く、ひんやりしていて、触れたところから体温が奪われるのが分かる。触れた指先が、じわっと鈍くなる。その鈍さが、なぜだか安心に近かった。ここにいる、という事実が皮膚から確かになる。

陽は思ったより強かった。空は青というより淡い白で、冬らしい薄い天井のように広がっているのに、光だけはまっすぐ地上へ落ちてくる。道の氷の部分がきらきらと反射し、目を細めると、雪の粒がいくつも小さな星みたいに見えた。木の枝から、時折、雪がさらさらと落ちる。風のせいではない。陽に温められて、雪がゆるんだのだ。落ちる雪は音を立てず、ただ白い粉のように舞って、コートの肩に触れて消える。消えたあと、冷たい点だけが残る。その点が、刺すようで、でもすぐに慣れていく。

歩き出すと、並木道は“トンネル”になった。左右の木の列が視線を中央に導き、遠くの一点へ吸い込まれていく。どこまでも続くように見えるのに、実際は公園の一角に過ぎない――そのことを頭では知っていても、歩く身体は、終わりのない道を歩いているように錯覚する。私はその錯覚が好きだった。旅先で感じる孤独は、普段抱えている孤独とは種類が違う。普段の孤独は、人の多さの中で際立って痛むけれど、旅先の孤独は、景色に溶けて薄まり、むしろ心を静かにしてくれる。

ふと、胸の奥に積もっていたものが、少しだけ緩むのを感じた。忙しさに追われている間は、自分が何に疲れているのか、何に怯えているのかさえ曖昧になる。けれど、雪の並木道は、そんな曖昧さを許してくれない。足音が少ない分、心の音が聞こえる。私は今日、何も達成しなくていい、と初めて素直に思えた。どこかへ急がなくても、誰かに説明しなくても、ただこの白い道を歩いているだけで充分だ、と。

前方から一人、犬を連れた人が近づいてきた。犬は小さく、雪に足を取られながらも嬉しそうに跳ねる。飼い主の口元が少し上がり、すれ違う瞬間、短い挨拶の言葉が風に混じって落ちた。私も小さく返す。ほんの一秒のやり取りなのに、胸の内側が温かくなる。冬の中では、些細な人の気配が、いつもより強く心に残る。

しばらく歩いて、振り返ると、さっきのベンチはもう小さくなっていた。木々の列の間に、茶色い点として残っている。そこに誰かが座ったわけでもないのに、妙に“場所”としての存在感があった。誰かが疲れたときに腰を下ろし、誰かが待ち合わせをし、誰かが雪を眺めたのだろう。ベンチは語らないのに、冬の光の下では、そういう人の時間が薄く透けて見える気がする。

私はまた前を向き、足元の氷に注意しながら、ゆっくり歩いた。冷たい空気は相変わらず頬を刺す。でも、その刺す痛みが、むしろ私を現実に戻してくれる。冬の晴れた公園の並木道は、派手な感動をくれる場所ではない。代わりに、心の中の余計なざわめきを静かに沈め、いまこの瞬間の輪郭だけを残してくれる。

遠くの木々の間から、陽射しがまたひときわ強く差し込み、雪がきらりと光った。私はその光を見て、理由もなく「来てよかった」と思った。旅の価値は、壮大な景色や特別な出来事だけで決まるものじゃない。こうして、何気ない一本道と、使われるのを待つベンチと、霜をまとった枝と、自分の呼吸だけがある時間が、あとになっていちばん深く効いてくる。

歩みを止めずに、私は白いトンネルの奥へ進んだ。足元の雪がきゅ、と鳴り、音はまた冬の静けさに吸い込まれていった。

 
 
 

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