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白い天使のまち針――チューリッヒ歌劇場の午後

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月16日
  • 読了時間: 3分
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トラム2番で湖の匂いを連れてきた風が、車内の「Grüezi」という挨拶をやわらかく揺らした。Opernhaus/Stadelhofenの停留所で降りると、目の前が突然ひらけてゼクセロイテン広場。その奥に、アイボリーの外壁がすっと立ち、ペディメントの上では勝利の女神が月桂の輪を掲げている。ファサードにはラテン数字でMDCCCXCI、そしてSTADTTHEATER ZÜRICHの文字。アーチの間にはWEBER/MOZART/WAGNERの胸像――教科書で知っていた名前が、今日は壁の飾りとして風に晒されていた。

最初の“やらかし”は、広場の真ん中で起きた。湖からの風に帽子がふわりと浮き、石畳の上を転がっていく。追いかける私より早く、キックボードの男の子のお父さんが器用に足でストップ。「s’git guet(大丈夫)」と笑って、リュックから余ったシューレースを取り出し、帽子の内側に通して八の字で即席のあご紐を作ってくれた。結び目ひとつで、オペラ座が急に自分の場所になった気がした。

開場まで時間があったので、広場のベンチでグレンツィ・カフェ(紙コップのエスプレッソ)をひと口。ここで二度目の“やらかし”。熱いしずくがプログラムの表紙にぽとり。あっと固まった私の横で、隣に座っていた学生が炭酸水を含ませたハンカチを出し、「Kei Stress(ノーストレス)」と言いながら文字の上をトントン。しみは薄く、胸のざわめきも薄くなった。

客席へ入ると、柔らかなスイスドイツ語の「Grüezi mitenand」が左右から降ってくる。私の席の隣に座った年配の紳士は、オペラグラスを首から下げていた。開演前、彼が「半分の時間、どうぞ」とグラスを差し出し、私はお礼にSprüngliのLuxemburgerli半分こ。幕が上がると、弦の第一音が天井の装飾に跳ね返り、弧を描いてこちらの胸に落ちてくる。分け合った視界でのぞくと、指揮者の肩の呼吸や歌い手の息の白さまで、音楽の内側に見えてくる。

休憩時間、私は外のバルコニーへ出て、湖からの風をもう一度吸い込む。ここで三つめの“やらかし”。マフラーの端がコートのファスナーに噛んでしまった。困っていると、係のマダムが胸元をちらりと見て、胸ポケットから小さな安全ピンを取り出し、端をひとねじりして八の字で留めてから静かに引き抜く。「Voilà…じゃなくて、Bitte schön」とウィンク。スイスのやさしさは、国語の垣根をひょいと越える。

終演後、拍手は白い列柱をのぼって天井に吸い込まれ、また粉雪みたいに降ってきた。広場へ出ると、空は紺に近く、オペラ座の明かりだけが蜂蜜色で人の肩を照らす。さっきの紳士が階段で立ち止まり、「Merci vilmal」と握手。私は帽子の八の字を確かめ、彼に残りのLuxemburgerliを一つ手渡した。「Half for luck」。紳士は笑って、**「Guet Nacht」**と小さく手を振る。

帰りのトラムを待つ間、私はファサードの胸像をもう一度見上げた。ヴェーバー、モーツァルト、ワーグナー――その下に立つ人たちは、さっきまで名前も知らなかった隣人と飴や視界や小さな困りごとを分け合っている。豪華な建物の前でいちばんよく効くのは、やっぱり小さな直し方なのだ。

今日のメモ。・帽子は八の字で風と和解。・プログラムのしみは炭酸水でトントン。・いいものは半分こにすると、音がやわらぐ。・困ったらまず「Grüezi」、お礼は「Merci vilmal」。

次にまたここへ来るときも、私はきっと最初に結び目を作り、深呼吸をして、何かを分ける準備をする。そうすれば、歌と光はまた同じように、チューリッヒの夜をやさしく鳴らすはずだ。

 
 
 

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