白い花の見えない声
- 山崎行政書士事務所
- 6月16日
- 読了時間: 4分

第一章:春のほころび
幹夫がその花を見つけたのは、小学校の昇降口の横にある植え込みだった。新学期が始まって一週間ほど経った、少し汗ばむ春の午後だった。
誰も気に留めないような場所に、それはぽつんと咲いていた。白い五弁の花。中心にかけてほんのり黄色く、薄く紅色の筋が花弁を縁取っている。幹夫はその色を「消えかけた声みたいだ」と思った。
幹夫は六年生になっていたが、心のどこかに去年のままの空白があった。
祖母が亡くなってから、季節の移り変わりに対して、どこかで鈍くなっていた。春が来ても、花が咲いても、ただそれが「今年も来た」としか感じられなかった。
だが、その白い花だけは違った。
それはまるで、誰にも聞かれずにそっと置かれた“手紙”のように、彼の目に飛び込んできたのだ。
第二章:名前のないもの
幹夫はその日から、学校の帰りにこっそりと植え込みに寄るようになった。
白い花は、風の日も、雨の前の日も、変わらずそこに咲いていた。
「名前、あるのかな……」
祖母が好きだった花図鑑を引っぱり出して、幹夫は調べた。
ページをめくるたびに、祖母の声が脳裏に響く。
──“花にはね、意味があるんじゃなくて、意味を見つけてもらうのを待ってるのよ。”
やっとのことで見つけた名前は「アカバナユウゲショウ」。英語では"White Flax Flower"。
だが、名前を知った途端、幹夫は少しだけ寂しくなった。
まるで誰にも知られずにいた友達が、急に有名になって遠くへ行ってしまうような──そんな感覚。
第三章:話せないこと
幹夫には、誰にも話していないことがあった。
母との間に、小さな亀裂がある。
父は早朝に出て夜遅く帰ってくる。母はパートで日中いない。話すことといえば、明日の持ち物や、今日の献立。それだけ。
学校では元気そうにふるまっているけれど、本当は空っぽのような気がしていた。
そんなとき、白い花は話しかけず、ただそこにいてくれた。
何も求めず、咲くだけのその姿は、幹夫にとって「自分がまだここにいていい」と思わせてくれる唯一の証だった。
第四章:消えそうな春
ある日、幹夫がいつものように花の前に立つと、茎が折れていた。
誰かが無造作に踏みつけたようだった。
花はまだ、かろうじて咲いていた。
幹夫は思わず、そっと両手で茎を支えた。
「ごめん……守れなかった」
その日、彼は家で泣いた。
声を押し殺して、枕に顔をうずめた。
祖母を亡くした日よりも、ずっと深い痛みだった。
それは「もうここにいない」ことよりも、「目の前で壊れていく」ことのほうが、心をえぐると初めて知った日だった。
第五章:種
翌朝、幹夫は図工室から小さなスコップと鉢を持ち出した。
折れた茎をそっと植え替え、土をかぶせ、水をやる。
生き延びる保証などない。
でも、何もしないよりはいい。
それが“祖母ならそうした”と、彼の中で自然に思えたからだった。
それから幹夫は、毎朝早く起きて鉢の様子を見るのが日課になった。
数日後、折れた花は静かに枯れた。
だが、枯れた先に小さな種がひとつ、残されていた。
幹夫はその種を両手で包みながら、微笑んだ。
「また、会えるよね」
第六章:声のない声
梅雨が明ける頃、幹夫は一度だけ、母とゆっくり話す時間を持てた。
食器を洗う母の背中に、小さな声で言った。
「……ねぇ、おばあちゃんの花、咲かせてみたいんだ」
母は手を止めて、振り返る。
「おばあちゃんの?」
幹夫はうなずいた。
「名前があるんだ。アカバナユウゲショウ。小さいけど、きれいな白い花」
母は少し驚いたように、笑った。
「そんな花、好きだったんだ。……庭の端に、植えてみようか?」
そのやり取りは、それきりだった。だが、それだけでよかった。
母の声が、久しぶりに耳に入ってきたような気がしたから。
第七章:秋のはじまりに
秋風が吹きはじめたころ。
幹夫の家の庭に、ひとつの芽が顔を出した。
それは、白い花の種から育ったものだった。
彼は水やりを日課にしながら、そっと声をかけるようになった。
「今日はね、学校で『命の授業』があったんだよ」
「ぼく、来年は中学生になるんだ」
「おばあちゃんに見せたかったな……制服」
花はまだ咲かない。
でも、幹夫の中ではすでに満開だった。
それは、誰にも聞こえない、でも確かにそこにある“見えない声”だった。
第八章:また春に
そして、また春が巡ってきた。
庭の隅に、白い花がひとつ、静かに咲いた。
去年と同じ、でもどこか違う。
幹夫はランドセルの代わりに、少し大きめのリュックを背負って、花の前にしゃがむ。
「咲いてくれて、ありがとう」
彼の目に、もう涙はなかった。
あるのは、穏やかな決意だけ。
白い花は揺れていた。
その揺れは、たしかに“誰か”の声を連れてきていた。
──“よく、咲かせたね”
幹夫は、そっとうなずいた。
そして、歩き出した。
見えない声とともに、新しい春へ向かって。





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