白い軌条の独り歩き
- 山崎行政書士事務所
- 2月9日
- 読了時間: 3分

1. 時刻表を失った空間と静けさ
線路とは本来、電車が走るための軌道であり、列車の時刻表に従って多くの人や物を運ぶ使命を帯びている。しかし、雪に覆われた線路を「人が歩く」という状況は、一種の予定外を暗示する。 そこでは、列車の喧噪(けんそう)はなく、時刻表によるリズムさえも止まっているかのよう。冬の冷たい静けさが軌条(レール)を包み込み、いつもなら賑わう交通路が、この瞬間だけは私的な歩道へと変貌している。それはまるで、社会的に定められた“運行”や“予定”から解放された自由を感じさせる光景だ。
2. 線路という“縛られた直線”と雪の白さ
線路は原則的に一直線か、緩やかなカーブを描いて続く。左右や上下に大きく逸れることはない。この“決まった方向への軌道”という象徴は、社会のシステムや人生のレールをイメージさせることが多い。 しかし、そのレールが雪で覆われ、どこまで続くのか先が見えにくい状況では、歩く人は**“未知の直線”**を探りつつ進むことになる。透き通る雪の静寂とレールの頑固な直線が交差し、柔らかい白と硬い鉄が同居する様子は、人間の自由意志と社会構造の衝突をも暗示しているかもしれない。
3. 自分の足跡が消えていく儚さ
雪道を歩けば、足跡が残る。しかし、降りしきる雪や風が強ければ、その足跡もやがて消されていく。線路上に刻んだはずの歩みが、数分後には跡形もなく埋もれてしまうのだ。 人が残そうとする形跡(足跡)が、自然によってあっさり上書きされる光景は、人生の儚さや記憶の消失を暗喩する。どんな行為や実績も、時の流れや自然の圧倒的力にかかれば、簡単に消え去りうる。しかし、その瞬間にこそ、美しさや尊さを感じるのも事実だ。
4. “禁止された道”への踏み入りと背徳感
多くの国や地域では、線路内を歩くことは危険であり、基本的に“禁止”されている。にもかかわらず、雪で電車が運休したり、周囲に人がいないときに歩く行為は、背徳的な解放感を伴うかもしれない。 これは、社会が定めたルールを一時的に逸脱して、別の景色を得ようとする人間の本能かもしれない。雪が敷いた線路の上を一人きり歩く行為は、自由への小さな冒険を象徴し、“安全策に縛られない人間の可能性”を感じさせる。
5. 未来と過去を結ぶ軌道、いまここを歩む
線路は多くの場合、過去から現在、そして未来へと行き来する列車を運ぶ存在として捉えられる。だが、ひとたび人がそこを歩くとなると、過去に向かうのか未来に向かうのか――そうした時間の概念すら雪で曖昧になる。 人は今、白い軌道の上を歩む。後ろに足跡を残しながら前へ進むが、その足跡すら雪に消えていく。そこに生じるのは“過去も未来も不確かで、ただいまここだけが確実”という、刹那的な感覚なのだ。人生においても、「先を見通すことができない中で、一歩ずつ踏み出す」ことの象徴のようでもある。
エピローグ
雪の線路を歩く――それは、列車の運行が停止している非常時か、余白の時間でなければ起きにくい出来事かもしれない。だが、その光景には、
社会的ルールと個人的自由のはざま
生のレール(決まった道)と人間の意志
過去や未来を失い、ただいまこの瞬間を刻む足跡
などが溶け合う、深いメタファーが隠れている。
白い雪に消される足跡は儚くも、“歩く”行為自体が尊い。進むたびに消えていく足跡を見るとき、“今”を一歩一歩楽しむしかないんだという真理に近づくかもしれない。
禁止された道を歩く背徳感や、線路という人工的システムを雪が覆いつくす自然の力など、この短い体験には人間がコントロールできるものとできないものの対峙も見えてくる。
雪が溶けた頃にはまた列車が走り始め、線路は本来の役割を取り戻す。その移ろいを見届ける私たちは、ほんのひとときの間に、人生や自由、時間の儚さを思い起こすのだろう。
(了)





コメント