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白鳥にならない男


伝説は白い。白は潔白ではない。白は、汚れを目立たせるための背景だ。だから伝説の白さは、血の色をいちばん鮮やかにする。

伊勢の風は、塩と松脂の匂いを運んでいた。海が近い土地は、いつも人の喉を乾かす。乾いた喉は、命令に従いやすい。命令は耳より先に骨へ入る。骨へ入った命令は、考える前に足を動かす。私はその足音の後ろを歩く役だった。

日本武尊は、生きていた。——ここが“もしも”の入口だった。

伊吹の神に出会ったあの山で、尊は死ぬはずだった。冷たい霧、硬い石、荒い息、痺れる脚。人はあそこで、白鳥になる。白鳥とは、死の清潔な呼び名だ。清潔な死ほど危険なものはない。清潔な死は、すぐ物語になる。物語は甘い。甘い物語は腐る。腐った物語の上で、次の若い胸がまた熱くなる。

だが尊は、白鳥にならなかった。尊は歩いて戻ってきた。歩いて戻るという行為は、勝利ではない。負けの継続だ。負けを継続することほど、人間を人間に戻す。

その身体は軽く、しかし眼だけが重かった。眼の重さは、見てしまったものの重さだ。見てしまったものは、洗えない。洗えないものほど、後で「名誉」と呼ばれる。名誉という言葉ほど不潔なものはない。

尊は草薙の剣を腰に帯びていた。鞘の木は汗を吸い、汗の匂いが木に残っている。匂いは時間を知らない。知らない匂いほど残酷だ。剣は血を吸う。血の匂いは鉄にだけ残る。鉄は人間をよく覚える。人間のほうがすぐ忘れる。

「戻ってきたのだな」

伊勢の宮の庭で、使者が言った。言葉は丁寧だった。丁寧さは礼儀に似る。礼儀は心の汚れを一瞬隠す仮面だ。尊は頷かなかった。頷きは楽だ。楽な頷きは、すぐ“承諾”になる。承諾は次の死を呼ぶ。

「父が呼んでいる」

使者は続けた。父——景行天皇。父の名は、尊の胸の奥でいつも硬い。硬いものは折れる。折れるものほど、後で美談になる。尊は目を伏せ、砂利の白を見た。白は潔白ではない。白は、汚れの輪郭をくっきりさせる。砂利の上に、尊の影が落ちていた。影は細い。細い影ほど、刃に似る。

「大和へ」

尊は短く言った。短い言葉ほど真実だ。真実は甘くない。甘くないから腐らない。

大和の宮は、香が濃かった。香は血を隠す。隠すための香ほど卑しい匂いはない。簾の向こうの声は、あまりにも整っていた。整った声は、死の数え方を知っている声だ。

「東の平らぎ、よく成せり」

父の声が言った。褒め言葉は甘い。甘い言葉は腐る。腐った褒め言葉の上で、人は平気で次の命令を出す。

「西にもまだ、騒ぐところがある」

来た。来るはずの言葉が来た。命令はいつも、褒美のあとに来る。褒美は飴で、命令は縄だ。縄は首を締める。首が締まると声が出ない。声が出なければ、従うしかない。

尊は、そこで初めて顔を上げた。目は澄んでいなかった。澄んだ目は正義の目だ。尊の目には濁りがあった。濁りは恐れでも迷いでもない。濁りは、何度も「生き残った」者の色だ。

「父上」

尊は言った。“父上”という呼び方が、これほど冷たく聞こえることがある。冷たさは正しい。正しい冷たさが、甘い忠義を叱る。

「次の“平らぎ”は、誰が行く」

空気が止まった。止まった空気は、刃が入る瞬間の空気だ。父は沈黙した。沈黙は断罪にも赦しにも似る。似ているから怖い。

尊は、腰の草薙に手を置いた。剣は冷たい。冷たさは正しい。正しい冷たさは、余計な感傷を叱る。だが剣の冷たさは、尊の手の熱に負けて、ほんの少しだけ温まった。温まる金属ほど不吉なものはない。金属が温まるとき、それは肉に近づく。肉に近づいた刃ほど危険だ。

「草薙は、もう……抜かぬ」

尊はそう言った。言った瞬間、私は喉の奥が締まった。締まる喉は感情移入だ。尊の拒絶が、私の喉へ移ってきた。拒絶は美しい。美しい拒絶ほど危険だ。美しさはすぐ“物語”になる。

父の声が硬くなった。

「お前は何を言う」

尊は答えなかった。答えれば議論になる。議論は言葉の戦だ。言葉の戦は、いつか本当の戦を呼ぶ。尊はただ、鞘ごと剣をほどき、畳の上に置いた。

畳の匂いに、鉄の匂いが混じった。混じる匂いは現実の匂いだ。現実はいつでも臭い。臭い現実は、香の仮面を剥ぐ。

「これが欲しかったのだろう」

尊は言った。声は乾いていた。乾いた声は涙を許さない。涙は湿っている。湿り気は決断の刃先を鈍らせる。尊は泣かぬために乾いたのではない。泣いてはいけない場所に立ってしまったから乾いていた。

「剣が欲しかったのなら、剣を置く。命が欲しかったのなら、命はもう……貸せぬ」

貸す。命を貸す、という言い方が恐ろしかった。命は本来、誰のものでもない。だが国家はいつも命を借りたがる。借りた命を、返さない。返さないから国が続く。続く国ほど、よく人を殺す。

簾の向こうで、父が言った。

「お前は、白鳥になり損ねたのだな」

白鳥。死の清潔な呼び名。尊の肩が、ほんのわずかに揺れた。揺れは人間の証拠だ。人間の証拠ほど、権威は嫌う。

「なり損ねたのではない」

尊は静かに言った。

「白鳥になれば、楽だ。白くなれば、汚れを忘れられる。だが私は、忘れぬ」

忘れぬ。その言葉は鎖のように重かった。重い言葉ほど腐らない。腐らない言葉だけが、美談に抵抗できる。

その夜、尊は宮を出た。出る背中は美しくない。美しくない背中は物語にならない。物語にならないことが、時に最大の抵抗になる。

私は追わなかった。追えば、私は忠義の形をしてしまう。忠義は美しい。美しい忠義ほど危険だ。忠義は、逃げる者を引き戻してしまうからだ。

翌朝、草薙の剣だけが残った。人は言った。「尊は倒れた」「尊は白鳥になって飛び去った」噂は軽い。軽い噂ほど現実を重くする。重くなった噂の上で、人は安心する。安心に似たものほど危険だ。安心は、ひとりの人間の拒絶を消してしまう。

だが私は知っている。尊は白鳥にならなかった。尊はただ、剣を置いて去った。白くなるのではなく、無名になる道を選んだ。無名は暗い。暗さは正しい。正しい暗さが、清潔な物語を拒む。

後の日、熱田の社に草薙が納められたとき、私はひとりで思った。剣は鞘に戻ったのではない。剣は、持ち主の“拒否”を鞘にしたのだ。拒否という鞘は薄い。薄い鞘ほど破れやすい。破れやすいから、物語はまた剣を抜きたがる。

私は、その物語を止める力を持たない。ただ匂いを覚える。汗の匂い。鉄の冷え。香の不潔さ。そして、白鳥にならない男の、乾いた声の重さを。

伝説は白い。白いままでは、また誰かが剣を抜く。だから私は、白の裏側の汚れを覚えている。覚えていることだけが、この国の「美しい物語」が次の刃になるのを、ほんの少しだけ遅らせる。

 
 
 

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