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百八のほどけ

 十二月の終わりの蒲原は、朝の空気が薄い硝子みたいに澄んでいて、息を吸うと胸の奥へ白い道が一本すうっと通ります。畦道の土は夜のあいだに固くなり、踏むと、こりっ、と小さく鳴りました。薩埵峠の影は長い帯になって町の端を撫で、駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光っています。波は低く、しゅう……ざあ……と、控えめに息をしていました。

 大晦日でした。

 家の中はいつもより少しだけ忙しくて、でも忙しさが怒っていない日でした。祖母が雑巾をしぼる音、釜の蓋がこつんと鳴る音、包丁がまな板へとん、と当たる音。音がいくつもあって、それが一つの縄になって、家の中をぐるりと巡っているようでした。

 幹夫は八つ。玄関のしめ縄を見上げました。譲り葉の艶はまだ失われず、裏白は冬の光を受けてさらりと光っています。床の間には鏡餅、その上に橙がひとつ、深い色で座っていました。

 橙は「待つ実」だと祖母は言いました。 譲り葉は「守ってから譲る」葉だと祖母は言いました。

 幹夫はそれを知っているのに、胸の奥のどこかが、まだ硬いまま残っていました。

 ――正月、父さんは帰れない。

 電報の短い字が、胸の底に小さく立っている。短いのに、立っているあいだずっと、足もとを冷やす字。

 台所で祖母が言いました。

「幹、年越しそばの葱、刻んでおくれ」

 葱は白くて、白いのに、切ると目がつんとします。つん、は涙の前触れです。涙の前触れを見せられると、幹夫の胸は、変に身構えてしまうことがあります。身構えると、息が浅くなる。浅くなると、胸の空洞の壁が固くなる。

 幹夫は葱を刻みながら、胸の内側のポケットに指を入れました。そこにあるのは、父から来た「匂いのしおり」。みかんの匂いに、焦げの冬が少し足された紙片。

 指先で端を触ると、紙が体温で少し柔らかくなって、匂いが丸くなる気がしました。

 ――きょうは、これで息をする。

 葱がとん、とん、とん。 釜が、ことこと。 外の波が、しゅう……ざあ……。

 音がつながっていくと、幹夫の胸の奥の硬さが、少しだけほどけました。ほどけると、葱のつん、も「痛い針」ではなく「縫い目の痛み」になります。痛いけれど、ほどけないための痛み。

 夕方、こういちが来ました。袖をまくった手首は冬の風で赤く、でも目はいつもどおり慎重で、踏みこみすぎない目でした。

「今夜、鐘、行く?」 こういちが言いました。

 鐘。除夜の鐘。

 寺の鐘は、海のほうまで届く、と祖母が言っていました。薩埵峠の影の下も、みかん畑の向こうも、踏切の音の上にも、鐘はゆっくり降りてくる。

 幹夫の胸の奥が、こつん、と鳴りました。こつんは、嬉しさだけではありません。嬉しさのすぐ隣に、きゅっと縮むところがある鳴り方でした。

「行く」と幹夫は言ってしまいました。 言った途端、胸の中に“父さんがいない鐘”の絵が立ち上がりそうになって、幹夫は慌てて息を吸いました。

 こういちが、いつもの二文字を言いました。

「幹夫、息して」

 幹夫は頷き、匂いのしおりを指で押さえました。 みかんの弱い匂いが、胸の奥へすうっと入って、空洞を冷たい穴ではなく、息の通る筒にしました。

 その夜、祖母は火鉢を少し強く熾しました。炭が、ぱち、と瞬いて、灰の空に小さな星が生まれます。火鉢の温かさは、待つ心が凍らないための温かさでした。

「鐘へ行く前に、これを持っていきな」 祖母はそう言って、幹夫の手に小さな袋を握らせました。中に入っているのは、父の銀の輪。

 輪は冷たくて、冷たいのに、手のひらの中でなぜだか熱を持ちました。父の町の匂いが、ほんの少し残っている気がして、喉の奥がじん、としました。

「鐘はごおん、と鳴る。銀の輪はきん、と鳴る」 祖母が言いました。「大きい音と小さい音が重なると、心は迷子になりにくい。幹は、きんを持っていきな」

 幹夫は、輪を握って頷きました。握りしめるのではなく、包むように。

 夜が深くなると、空は星を少しだけ見せました。雲があるのに、雲の切れ間に、冬の星は鋭く光ります。海は黒い硝子の皿になって、波は低い声で、しゅう……ざあ……を繰り返していました。

 寺へ行く道は、いつもより静かでした。静かすぎると、胸の中の声が大きくなる。けれど、今夜は静かさの中に、火鉢の温かさと、銀の輪の冷たさと、匂いのしおりの甘さが並んでいたので、静かさが怖くなりすぎませんでした。

 寺の門の前で、列ができていました。大人の肩が並び、子どもの頭がその間に揺れます。息が白くなるほどではないのに、みんな吐く息を少し大事にしているようでした。息は、今夜は特別のものです。

 鐘楼の下に行くと、太い綱が垂れていました。綱は大きな蛇みたいで、蛇なのにおとなしく、ただ「引かれるのを待っている顔」をしていました。

 僧が言いました。

「順に、ゆっくり引いてください。鐘は急がせると、心も急ぐ」

 急がせると心も急ぐ。 その言葉で、幹夫の胸が少し落ち着きました。急いだら切れるものがあると、幹夫は知っていました。糸電話も、藁も、息も。

 こういちが幹夫の袖をちょん、と引きました。 「ここだよ」という引き方。 押すのではなく、道を指す引き方。

 順番が近づいてきたとき、幹夫の胸の奥の硬い字が、また少し立ち上がりました。

 ――ショウガツ カエレズ。

 立ち上がると、喉が紙みたいに乾きます。乾くと声が出ない。声が出ないと、胸の中で言葉が溺れる。

 幹夫は銀の輪を、掌の中でそっと転がしました。ころり、と金属が動く。動くだけで、胸の奥が「ここにある」と返事をしました。

 そのとき、寺の鐘が鳴りました。

 ごおん——。

 音は丸く、重く、ゆっくり空へ広がりました。広がる音は、薩埵峠の影の向こうへも、駿河湾の黒い皿の上へも、まっすぐではなく、でもちゃんと届いていく感じがしました。祖母の言った湯気の道みたいに。曲がって、でも行き先がある道。

 幹夫の胸の奥の硬い字が、その音に撫でられて、少しだけ角を落としました。角が落ちると、冷たさは冬の冷たさになって、刺さらなくなります。

 順番が来ました。 幹夫は綱に手をかけました。手は小さくて、綱は太い。太すぎて、綱のほうが世界の筋肉みたいに見えました。

 こういちが小さく言いました。

「幹夫、息して」

 幹夫は息を吸って、吐きました。 吐いた息は白くならない。でも胸の中では白い道になって、綱へ通じました。

 引く。

 綱は重たく、重たいのに、重さが“押しつぶす重さ”ではありませんでした。重さは「ちゃんとここにいる重さ」。地面が足を支える重さと似ています。

 鐘が鳴りました。

 ごおん——。

 鳴った瞬間、幹夫は、思わず銀の輪を指で弾きました。ほんとうは弾くつもりなんてなかったのに、胸の奥が勝手にそうさせました。大きい音の中に、小さい音を置きたかったのです。

 きん。

 銀の輪の音は、鐘のごおんに吸われて消えそうなのに、幹夫の胸には、ちゃんと届きました。届くと、胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、音の通る筒になりました。

 ごおん(大きい返事)。 きん(小さい返事)。

 二つが重なると、幹夫はふっと思いました。

 ――父さんが帰れないのは、切れたんじゃない。 ――いまは“次の葉が育つまで残っている葉”の時間かもしれない。

 譲り葉の艶が、胸の中で光りました。

 鐘は百八つ、鳴ると言います。 幹夫は数えるのが得意ではありません。数の途中で、音が音に溶けて、どこからどこまでか分からなくなる。でも今夜の幹夫には、数より大事なことがありました。

 ごおん——のたびに、胸の中の何かが一つずつ、ほどけていく感じ。 糸が切れるのではなく、結び目がほどける感じ。

 ほどけると、息が通る。 息が通ると、言葉が溺れない。

 幹夫は、途中でこっそり、匂いのしおりを鼻の先に近づけました。人に見られたら恥ずかしい。でも今夜は、恥ずかしさが針になりませんでした。恥ずかしさも、鐘の音に撫でられて、角が落ちていました。

 みかんの匂いが、小さく胸へ入って、そこに火鉢の焦げの匂いが混ざり、寺の線香の匂いが加わりました。匂いが混ざると、胸の奥が、ひとつの暖かい部屋になる気がしました。

 こういちが、隣で小さく言いました。

「鐘ってさ、返事しないのに、返事みたいだね」「……うん」と幹夫は言いました。 返事がない時間を、返事の形で包んでくれる音。 包んでくれるなら、待てる。

 帰り道、空の色が少し変わっていました。真っ黒ではなく、黒の端にうすい青が混じり始めている。海の上に、まだ見えないのに“道ができる気配”がありました。

「初日の出、見る?」とこういちが言いました。 幹夫は一瞬、胸がきゅっとしました。父のいない初日の出。父に見せられない初日の出。

 でも、銀の輪が掌にあり、匂いのしおりが胸にあり、鐘のごおんがまだ耳の奥で鳴っている。

 幹夫は、息を吸って言いました。

「……見る」

 岬のほうへ少しだけ行って、東の空を待ちました。寒いのに、寒さが嫌ではありませんでした。寒さは、眠りから目を覚ますための冷たさでした。

 やがて、空の端が、ほんの少し橙色になりました。橙色は、床の間の橙の色と同じ仲間でした。待つ実の色。落ちない実の色。

 海の黒い皿の上に、細い光の道が一本、すうっと伸びました。 掬えないのに見える道。 見えるから、胸が息をする道。

 幹夫は、銀の輪をそっと持ち上げました。輪の穴の向こうに、海の光の道が見えました。穴は空なのに、空の中に道が入ると、穴がただの穴ではなく、窓になります。

 幹夫は、声に出さずに言いました。

 ――父さん。 ――たぶん、そっちでも朝になる。 ――同じ光の道が、どこかでできる。

 こういちが横で、松葉を親指の間に置いて、ひい、と短く鳴らしました。 幹夫も、銀の輪を指で弾きました。

 きん。

 ひい、ときんが、海の光の道の上で、ほんの一瞬だけ重なった気がしました。重なったのは本当かもしれないし、幹夫の胸の想像かもしれない。けれど、どちらでもよかったのです。想像でも、胸が息をするなら、それは道になります。

 家に帰ると、しめ縄の譲り葉が、風にさわさわと揺れていました。床の間の橙は、深い色で、黙って座っていました。窓辺では青い星と銀の輪と松葉が、からり、きん、ひゅう、と短い会話を続けています。

 幹夫は机に向かって、父へ短い手紙を書きました。

 「とうさん」 「じょやのかねを ききました」 「ごおん と きん が かさなりました」 「かぞえられませんでした」 「でも ほどけた きがしました」 「はつひのでが うみの みちを つくりました」 「とうさんのところも あさですか」 「こっちは からり と きん と ひゅう と ごおん でした」

 “早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。 でも今夜は、その書けなさが、糸を張りすぎないための加減に思えました。

 鐘は、全部を直す音ではありません。 父が帰る道を、今日すぐ作る音でもありません。 けれど、胸の中の結び目を一つずつほどいて、息を通す音でした。

 布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。窓辺で青い星がごく小さく、からり。銀の輪が、それに返して、きん。松葉が、ひゅう。

 幹夫の胸の空洞は、今夜も冷たい穴ではなく、 百八のほどけが通っていく、あたたかい筒のままでした。

 
 
 

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