眠気の向こう側
- 山崎行政書士事務所
- 1月31日
- 読了時間: 5分
第一章:退屈な出会い
夜の街。しっとりとしたジャズの流れるバー「リヴェラ」。フリーランスエンジニアの 矢代蒼一郎(やしろ・そういちろう) は、カウンター席で白ワインを傾けながら、隣に座る女性に声をかけていた。
「もう少しだけ、話していかない?」そう言いながらも、彼の声には弱々しさがにじむ。相手の女性、茉莉花(まつりか) はぼんやりと氷の溶けていないグラスを眺めている。「ごめん、そろそろ帰ろうかなって……明日早いから」唇を小さく尖らせながら、茉莉花はあくびを噛み殺すように言う。まるで矢代の会話がつまらないとでもいうように。
(ああ、やっぱり今日もダメか……)矢代は内心、半ばあきらめかけていた。フリーランスとしてそこそこ稼ぎはあるはずだが、女性との出会いでは「ITエンジニア? なんか地味そう」と判断されがち。せっかくバーに来てみても、どうも盛り上がらないことが多い。
第二章:ふと漏らした秘密
「でも最近、まあ…いろいろあって、法人化 したんだよね」矢代が唐突にそう漏らしたのは、ほんの弾みだった。飲み慣れない白ワインが、少し気の緩みを誘ったのかもしれない。「法人化? どういうこと?」「えっと、フリーランスでずっと開発やってたんだけど、この前、会社を作った んだ。いちおう社長ってやつ? まぁ資本金もそんなに大きくはないけど……」茉莉花は、その言葉を聞いた途端、グラスを置いて振り向いた。さっきまでの眠そうな表情が、微妙に変わっていくのを矢代ははっきりと感じる。「会社の社長さんなのね……。へぇ、すごいじゃない」明らかにトーンが変わった。ゆったりしたボディラインを強調する姿勢に変え、茉莉花は矢代の瞳を覗き込むようにして微笑んだ。
第三章:帰りたいはずが、急に……
「もう帰るって言ってなかった?」矢代が半信半疑で聞き返すと、茉莉花は首を振って、「うーん、急に眠くなっちゃったかも……」とぽそりと呟く。「うん、眠いの。今夜はちょっと気怠いし、疲れちゃって……」と言いながら、なぜか席を立とうとはしない。その瞳には眠気以上の“別の意図” が見え隠れしているように感じる。「ねえ、このあとはどうするの? もうちょっとだけ、一緒にいられたりする……?」さっきまでの「帰る、帰る」という雰囲気はどこへやら。腕を組み、首を傾げ、やたら艶めかしい視線を投げてくる茉莉花に、矢代は戸惑いを隠せない。
(まさか“法人化”の話をしただけで、こうも態度が変わるのか?)矢代は口には出さないが、内心、そのあまりに露骨な反応に苦笑いするしかなかった。それでも、美しい女性に甘い目線を向けられて、正直悪い気はしない。
第四章:言葉の裏側
「社長さんなんだ……すごいわね。どんな事業をしてるの?」茉莉花は急に上機嫌になり、身を乗り出すように矢代に質問を浴びせる。「えっと、まあ、Webアプリ開発とか……システムの設計もしてて。まだまだ規模は小さいけど、これから頑張って大きくしたいと思ってる」「へえ、素敵。やっぱりIT系って今後もっと需要が伸びるし、可能性無限大よね。そういうの、すごく魅力的だと思う」その言葉には真実味があるのか、単なる社交辞令なのか、矢代には判断がつかない。でも、全身に向けられる熱い視線は、少なくとも彼に“モテ” の感触を強烈に与えていた。「眠いなら帰る? もし大変なら、タクシー捕まえてあげるよ」「んー……。急に眠くなってきたし、なんだか酔いも回ってきたみたい。よかったら、少しだけ外の空気を吸いに行かない?」茉莉花の目は笑っている。矢代は一瞬戸惑うが、「じゃあ、ちょっと散歩する?」と声をかけることにした。
第五章:揺れる心と期待
二人は並んでバーを出る。夜風が心地良いが、その温度差に矢代は少しクールダウンした気分になる。(本当に、彼女は興味を持ってくれたのか。それとも、ただ“社長” という肩書きが気になっただけ……?)そんな疑問が脳裏を過る。だが、自分で言い出したとはいえ、“法人化” した瞬間に女性の対応が変わるのは複雑だ。フリーランスから会社経営者への転身は確かに大きなステップだけど、それだけで相手の心をコロリと変えてしまうものなのか?
一方、茉莉花は腕を軽く組むようにして、矢代の肩に寄り添う。「……あのさ、眠いって言いながら歩いてて大丈夫? 無理しないでね」「大丈夫よ。だってもうちょっと一緒にいたいもん。……ね、隼人さんって、そういう大事業、もっと広げる予定なの?」「隼人?」矢代は驚く。自分の名前は“そういちろう” だ。「隼人」はどこから……?
「…あれ?」「ううん、なんでもない。ごめん、そろそろ本当に頭がぼんやりしてきちゃって……」茉莉花は言葉を濁し、恥ずかしそうに頬を染める。そこには何か裏がありそうだが、矢代は今それを問いただす気にはならない。この奇妙な夜と、ほんのり甘い雰囲気を壊したくなかった。
最終章:とりあえず、今夜だけは
そうこうしているうちに、二人は人気の少ない路地裏へ差しかかる。街灯が少なく、薄暗い。茉莉花は眠そうなふりをして矢代の腕に寄りかかり、耳元で囁く。「ね、今夜はこのまま一緒にいられたり……しないの?」明らかに先ほどの“帰りたい”発言とは真逆の提案だ。矢代は、胸の奥に突き上げる戸惑いと、好奇心、そして微かな期待を感じる。「……明日は朝早く仕事あるんだけどな。でも、茉莉花さんが大丈夫なら、もうちょっとだけ……」
バーのネオンも、遠ざかる車の音も、今は彼らの耳には微かにしか届かない。路地裏に漂う甘い香りは、茉莉花のフレグランスと少しの酒の気配。それは「眠気」というより、どこか誘惑に似ていた。(本当に彼女は僕そのものに興味を持ってくれたのか。それとも、法人化したという肩書きに惹かれただけ……?)けれど、今夜だけはこの心地よい酔いに浸ってみよう。そう思って、矢代は茉莉花の手をそっと握る。
「……じゃあ、もう少しだけ、一緒にいようか」彼がそう告げると、茉莉花はにっこりと微笑んだ。足取りはふらついていて本当に眠そうだが、その眼差しは、闇夜に溶けるほど魅惑的だった。まるで「法人化したあなた」を継続的に見ていたいとでも言うように――。
闇の色が濃さを増す中、二人のシルエットが路地をゆっくりと進んでいく。矢代の胸には、小さな達成感と、同時に拭えない疑念が混在していた。だが、それは明日の朝になってもきっと解けない。――それでも今は、優しい虚飾に包まれながら、ほんのひとときのロマンスに溺れてもいいじゃないか。「眠気」の奥にある真意に気づくのは、もう少し先のことかもしれない。





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