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石のワルツに合わせて――ウィーン国立歌劇場の中庭で

  • 山崎行政書士事務所
  • 9月16日
  • 読了時間: 4分
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カールスプラッツのUバーンを出ると、リング通りの風がほほを冷やした。角を曲がった先で、砂糖を振ったビスキュイみたいに淡い石の建物がぱっと視界に広がる。窓枠は赤く、装飾はきめ細かいレース。中庭に進むと、女神の像を抱いた噴水が細い糸で空を縫っている。しぶきはウィーン子の発音みたいにやわらかく、どこかでヨハン・シュトラウスのワルツがかすかに鳴っている気までしてくる。

最初の“やらかし”は、日陰のベンチに座ってアプフェルシュトゥルーデルの粉砂糖をふっと飛ばしたとき。白い粉が黒いシャツのように落ちた。慌てて手で払うと、通りがかったおじさんが「Keine Panik」と笑って、ポケットから炭酸水で湿らせた紙を差し出す。「トントン、こすらない」。指の合図に合わせると、白い点々が嘘みたいに薄くなった。礼に、ストゥルーデルを半分こ。おじさんは一口で頷き、噴水の水音に合わせて靴先で1-2-3と踏む。ワルツの拍は、胃のあたりまでやわらかくする。

噴水の縁で写真を撮ろうとして、二度目の“やらかし”。カメラのストラップの金具が緩んで、ぶらりと危うい角度に。冷や汗をかいた私の横で、ヴァイオリンケースを持った学生が小さなキーリングを差し出し、金具に通して即席ロックを作ってくれた。「So ist’s sicherer.(これなら安全)」。金属の輪がチリと鳴り、噴水のしぶきが少し明るく見えた。

開場まで時間があるので、裏手の立ち見席の列をのぞきに行く。常連らしい人たちが、手すりにスカーフを結んで場所取りをしているのを見て、私は鞄から細い手ぬぐいを出し、教わった通りに八の字でひと結び。隣のご婦人が結び目を見て「Perfekt.」と親指を立て、私の結び目の端をすっと整えてくれた。ウィーンでは、音楽の前にまず結び方が正しいかどうかが大事らしい。

列に戻る途中、三度目の“やらかし”。噴水のしぶきでポストカードがふやけ、端がくるんと丸まってしまう。植え込みのそばでスケッチしていた若者が洗濯ばさみをひとつ貸してくれて、カードの角を留めた。「文房具は世界を救う」とでも言いたげな顔。私は日本から持ってきたのど飴を半分に割って手渡す。彼は「Danke」とポケットに落とし、紙の上で歌劇場を一本ずつ線で撫でていた。

夕方、光の向きが変わって、建物の影が芝に長く伸びる。私のスカーフはまだしっかり八の字で手すりに残っている。中庭へ戻ると、小さな女の子がベンチで靴ひもと格闘していた。結び目がすぐほどけるという。私はしゃがみ込んで、舞台の裏方に教わった踏んでも解けにくい八の字を作ってみせる。彼女は真似をして、ひと歩きしてもほどけない。「Super!」とお母さんが拍手。私は思わずうれし泣きみたいな笑いをこぼした。

夜が近づくと、人がどこからともなく歌劇場に吸い込まれていく。私は当日券を一枚だけ手に入れ、入口でQRをかざす。ここで最後の小さな“やらかし”。画面が暗い。係のマダムが無言で最大輝度にして「Bitte」と微笑む。席に落ち着く前に、立ち見の手すりの結び目をひと撫でし、噴水のほうに向かって小さく会釈した。

幕が上がると、オーケストラのがホールの空気を同じ高さにそろえる。隣席の紳士がオペラグラスを「半分の時間どうぞ」と差し出し、私は代わりにさっきのストゥルーデルの端っこを半分こ。視界を分け合うと、歌手の息継ぎや指揮者の肩の呼吸まで、音楽の内側が見えてくる。外の噴水はきっと、いまもワルツの3拍子で水を落としているのだろう。

ホテルに戻る前に、中庭をもう一度だけ通る。今日のメモを書き足した。・粉砂糖は炭酸水でトントン。・ストラップはキーリングでチリ。・場所取りはスカーフの八の字。・紙は洗濯ばさみで風と和解。・いいものは半分こにすると、音がやわらぐ。・困ったら最大輝度と「Bitte」。

ウィーンの歌劇場は、壮麗さの前に小さな直し方を教えてくれる場所だった。結び、叩き、分け合い、そして1-2-3と胸の中で刻む。次にまたここを訪れたら、私はきっと同じ準備をする。噴水のしぶきとワルツの拍に合わせて、今日みたいにこの街はやさしく鳴るはずだから。

 
 
 

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