砂の相づち、スフィンクスの横顔
- 山崎行政書士事務所
- 9月15日
- 読了時間: 5分

カイロの朝は、クラクションが薄い霧みたいに空に溶けていく。タクシーのラジオから流れるポップスに合わせて運転手が指でハンドルを叩き、「ギーザは風が強いよ、ハットに気をつけて」と笑った。ゲートを抜け、熱の膜をいくつか破った先で、砂の斜面のむこうにそれは突然現れる。岩の塊からそのまま起き上がったような身体、どこか眠たそうな横顔。スフィンクスは、思っていたより背が低くて、でも近づくとやっぱり大きい。
最初の失敗は、ほんの数分後だった。風が一段上がった瞬間、帽子がふわりと浮き、地面を転がり始めた。走って追いかける私より早く、若い乗馬ガイドが手綱をひょいと引き、馬の前足でそっと進路を遮ってくれた。彼は帽子を拾い、私の顎の下を見て首をかしげると、自分のポケットから細い紐を一本抜き取り、あご紐にして結んでくれた。
「ウエルカム・トゥ・ギーザ。風は友だち、でも時々いたずら」彼はそう言ってウインクし、手のひらを軽く打ち合わせて去っていった。帽子の結び目はちょっといびつだが、砂漠の風には十分だ。
スフィンクス回りの遊歩道に下ると、石段の影がようやく涼しい。柵の向こうで、石灰岩の層が縞模様を描き、ところどころに新しい石のパッチが貼られている。ポケットからスマホを取り出して写真を撮ろうとしたら、画面が真っ黒のまま反応しない。熱でダウンだ。困っていると、売店の兄ちゃんが薄い段ボールを一枚裂き、私のスマホに即席の日よけを作ってくれた。ボトルの冷たい水を段ボールの上に乗せ、「これでハンモックみたいに冷やすんだ」と得意げだ。数分で画面が息を吹き返し、兄ちゃんは「シュクラン(ありがとう)はこっちの台詞」と笑って、薄いミントティーを小さな紙コップで一口くれた。
石の縁に腰を下ろして横顔を眺めていると、管理スタッフのハッサンが腰をかがめて話しかけてきた。腕には布の小さな包帯。「昔、砂に埋もれていた首の周りを掘り出したのは祖父の世代だよ」と、指でスフィンクスの層をなぞりながら言う。「ほら、ここは包帯。人と同じ、石にも手当てがいる」。彼の指の包帯が気になって、バッグから日本の絆創膏を一枚差し出すと、彼は目を細めた。「同じだね」と言って貼り替え、今度は自分の水筒からカルカデ(ハイビスカスの甘酸っぱいお茶)を紙コップ半分だけ分けてくれた。舌に残る酸味に、砂の匂いがちょっと和らぐ。
そのとき、別の“やらかし”が起きた。しゃがんだ拍子に、カメラのメモリーカードがポロリと砂に落ちたのだ。砂はカードより軽快に動いて、端が見えなくなる。あわてて指で探っていると、小さな手がすっとのびて、カードをつまみ上げた。目を上げると、ポストカードを売っていた女の子。彼女は得意げに胸を張り、「サラーム」と言ってカードを返してくれた。礼にポストカードを数枚買おうとすると、彼女は一枚だけ選び、裏に私の名前をアラビア文字でさらさらと書いた。「記念、ね」と笑う。ぐにゃりと曲線を描く見慣れない綴りが、今日の風の線と重なる。
柵の前では、学校の団体が先生の合図で輪になっていた。先生が「いち、に、さん」の代わりに「マスル!(エジプト!)」と掛け声をかけ、子どもたちが手を叩くと、スフィンクスの前で音がふくらんで、すっと空へ抜けていく。言葉のない相づちみたいに、風が一度だけ弱まった。誰かがナポレオンのせいで鼻がないのだと言い、別の誰かはもっと昔からだと首を振る。真偽はさておき、ここでは物語が砂の粒の数だけある。スフィンクスはどれにも反論しない。ただ、昼寝の続きに少しだけ目を細める。
日差しが傾き始め、地面の影が長くなった。私は売店に戻って、薄いパンのターメイヤ(そら豆のコロッケ)サンドをひとつ買う。手に持ったままかじると、外はさくっと軽く、中はふわふわで、クミンの香りが立つ。すると先ほどの乗馬ガイドが馬を引いて戻ってきて、「写真、撮ってあげる」と親指を立てる。帽子の紐のおかげで、今度は風にも負けない。彼は私を一歩だけ下げて立たせ、スフィンクスの横顔と私の影がちょうど重ならない位置を見つけるのがやけに上手かった。シャッターのあと、彼は「あとは待つだけ」と指で空を指す。ほんの十数秒、風がふっと止まり、砂の舞いが消える。彼はその瞬間、二枚目を切った。「ギーザでは、風と仲直りできる人がいい写真を撮るんだ」
帰り道、門の近くの警備員が砂落とし用のブラシを貸してくれた。靴底から砂を払うと、重さが半分になる。礼を言うと、彼は「マアレッシュ(気にするな)」と肩をすくめ、逆に私の絆創膏を見て「どこで手に入る?」と聞く。ポケットから残りを三枚渡すと、彼は胸ポケットに大事そうにしまった。砂漠では、水と同じくらい、小さな手当てが価値を持つ。
ゲートを出ると、三色旗が風をつかみ、空は少しだけ蜂蜜色に傾いていた。メモリーカードはちゃんとポケットの奥、帽子の紐は結び目が汗で固く、紙コップのカルカデは底に赤い線を残したまま。今日の小さな出来事――帽子を結んだ紐、段ボールのハンモック、包帯の貼り替え、砂から救い出されたカード、輪になって響いた手拍子――それぞれが、スフィンクスのそばで砂の層に薄く重なった気がする。
旅の記憶は、建物の大きさよりも、風との折り合いで残るのかもしれない。急がず、影を探し、誰かの親指の合図を待つ。スフィンクスの横顔は相変わらず黙っていたが、その沈黙は冷たくない。私の「シュクラン」に、小さくあくびで答えた――そんな気がして、砂の上の足どりが少し軽くなった。





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