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砂は足跡を数える

  • 山崎行政書士事務所
  • 8月21日
  • 読了時間: 5分

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久能の海は、昼になると水平線が一本の鉛筆のように固くなり、波の白い字がその上でほどけては書き直されました。砂は焼きたてのパンくずみたいに軽く、そこへ人の歩幅や貝の模様や犬の跳ねた点線が、いっぺんに押しこまれてゆきます。

 幹夫は方位磁針とノート、それから短い棒切れを持って、誰もいない浜の真ん中へしゃがみました。表紙に〈静岡市・風と水の地図〉と書いた地図帳の、空いていた四ページ目をひらきます。


 ——砂の章:記憶。

 幹夫がそう書いたとたん、足もとで砂の粒がさらさら寄り合い、内緒話のように言いました。

「ようこそ、幹夫くん。きみは風の地図も、水の字も、海の拍子も集めた子だね。ここでは私たちが、歩き方を覚えている番だよ」

「砂が覚えるの?」

「うん。重さは深さに、急ぎは歩幅に、ためらいは踵の角度に。私たちは一粒ずつ、きみらの時間を粒度で写す。——でもね、ただ覚えるだけじゃない。潮が来たら、いったんぜんぶ消すんだ」

「どうして?」

「忘れるためじゃない。運ぶためさ。私たちの仲間が沿岸流に乗って、隣の浜へ、港のはずれへ、三保の影の先へ、記憶の細切れを配達する。そうやって浜同士が、歩き方の辞書を貸し借りするんだよ」


 幹夫は目を細め、波打ちぎわに並んだ足跡を見ました。深くて大きいのと、浅くて跳ねるのが二筋、海に向かったり、折り返したりしています。

「これは?」

「朝の親子。大きいのは四拍子で慎重、小さいのは五拍子で気まぐれ。ほら、右のつま先が少し外へ開いているだろう。貝殻を拾って、すぐ見せに戻っている」


 幹夫は棒で、足跡の脇に小さな記号をつけました。〈深さ=重さ〉〈歩幅=急ぎ〉〈角度=ためらい〉。

「ぼくのも、書いてみる」

 彼は砂の上に、ふつうの歩き方、早足、横歩き、くるりと回る印を順に残していきました。波がほどけて来て、いちばん古い印の輪郭を甘くします。

「きみの横歩きは、森で覚えたね」と砂。「根っこのある地面の癖がつま先に出ている」

「わかるの?」

「粒度は耳と同じさ。土で歩いた音と、砂で歩いた音は違う」


 そこへ、浅い穴からスナガニが一匹、シャカシャカと出てきました。目を高く上げ、幹夫の印を見回して言います。

「足跡は、文字だけじゃなくて信号にもなる。わたしたちは点線で『危険なし』、ジグザグで『鳥来る』、丸の連打で『ごはん』。ほら、こうだ」

 スナガニは砂の上に小さな点を素早く打ち、丸いスタンプを二つ走らせました。

 幹夫は笑い、ノートに〈蟹の信号=点線/丸〉と書き足します。ページが海風でふくらみ、紙の匂いが潮に混ざりました。


「じゃあ、波が消してしまう前に、きょうの浜を写し取ろう」

 幹夫は棒で、海に沿って長い線を引き、その内側へ「いまある足跡」を絵のように並べました。砂はくすぐったそうにさらさら鳴り、スナガニは時々うれしそうに口をぱちぱちさせます。

「そうだ、風のページとも重ねておこう」

 方位磁針の北を確かめ、足跡の向きに矢印を入れました。海からの風は東南、歩く人はたいてい西へ。〈向い風=細歩〉〈追い風=大股〉。

「拍子の印も忘れずに」と砂が言います。

「うん。タン・タン・タン・タン。きょうは四だ」

 幹夫は足跡列の脇へ四つの点を打ち、午後に五へ変わるかもしれない、と小さく注を添えました。


 やがて雲が薄く張り出し、海がエメラルドのところで濃くなります。波が少しだけ斜めに寄せるようになりました。

「そろそろ、配達の時間だ」と砂。

「配達?」

「足跡の記憶を、崩れないように小分けして運ぶのさ。ほら、見てごらん」

 波が来て、いちばん古い足跡をさらいました。けれど消えたのは形だけで、深さの起伏はまだ線の下に薄く残っています。そこへ新しい砂が乗って、層をつくりました。

「それが写し。私たちの薄い写しは、沿岸流で移動して、別の浜に重なる。あっちでは別の歩き方の薄い写しが重なって、砂のアルバムになる」


 幹夫は胸の奥に冷たく甘い風が通るのを感じました。

「じゃあ、ぼくの歩き方も、どこかの浜へ届く?」

「もちろん。用宗へも、広野へも、三保の影の縁へも。届いた先で、誰かの歩き方と重なって、新しい歩きやすさになる」

「歩きやすさ?」

「安心の形さ。拍子と同じ。町の道だって、砂のアルバムをまねすると、迷いにくくなる」


 幹夫はノートの余白に大きく書きました。〈砂=配達人/薄い写し→重ねて安心〉。

 ふと見ると、自分の足跡の先に、丸い穴が三つ並んでいます。さっきのスナガニが、こちらをふり返りました。

「きみも何か配達する?」と幹夫。

「うん。殻の欠片を。干潮線のむこう側にいる親戚へ、おみやげだ」

「じゃ、ぼくもひとつ配達するよ」

 幹夫はポケットから、小さな封筒を取り出しました。駅北口のひまわりの種が一粒、そこに眠っています。

「海には蒔かないけれど、砂の上をとおして、影の指揮を思い出してもらうんだ。波にも、影の合図があるでしょう?」

「あるとも」と砂。「夕方の長い影は、帰り支度の合図だ」


 午後、拍子が確かに五へ寄りました。タン・タタン。幹夫は砂の五線譜をもう一度描き、端に〈きょうの終止形〉と丸で囲みます。

 潮が上がってきました。砂のアルバムは静かにページを閉じ、波の白い指が余白を撫でていきます。

「またね、幹夫くん」

「うん。また来る。こんどは『足跡の地図』を作って持ってくるよ。深さ、歩幅、角度、拍子、風向。——それと、砂の字で書くありがとう」


 帰り道、久能山の斜面の茶畑が風でさざめき、遠くに清水港のクレーンがゆっくり頭を振っていました。

 橋を渡ると、安倍川は低い三拍子で石を撫で、空は夕方の淡い色に変わります。幹夫はノートをひらき、四ページ目の下に小さく付け足しました。

〈足跡は町の練習。砂は記憶の配達人。波は消して、覚える。〉


 その夜、窓のそとで駿河の風が、ページの端をやさしくめくりました。紙は一枚ふくらみ、砂の細かな息が部屋に入ってきます。

 幹夫は目を閉じ、掌でその息を受けながらつぶやきました。

「風の地図、水の字、海の拍子、砂のアルバム。——ぼくは、その間に線を引く鉛筆だ。」

 波は遠くでひとつだけ、きれいなタンを打って、返事をしました。

 
 
 

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