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空白の甲板

甲板が空であるという事実ほど、船を卑しく見せるものはない。空母の甲板は、本来なら風を抱いて、翼の匂いをさせていなければならない。翼の匂い——それはガソリンの甘さと、焼けたゴムの苦さと、人間の汗の塩気が混ざった、どこまでも生々しい匂いだ。ところが私たちの甲板は、その匂いを失っていた。翼の代わりに、白線だけが残り、白線の上を潮風が撫でるたび、甲板は「形だけのもの」になった。

形だけ——という言葉は便利だ。便利な言葉ほど危険だ。便利な言葉は、血の臭いを消してしまう。臭いが消えた瞬間、死は様式になる。様式になった死ほど、次の死を呼ぶ。

私がいたのは瑞鶴だった。あの名を口にするとき、いまでも舌の上に鉄の味が出る。真珠湾の朝、瑞鶴の甲板がどれほど生き物のように震えていたかを、私は覚えている。震えは誇りではない。震えは恐怖だ。だが恐怖の震えほど、人間の身体を正直にするものはない。正直になった身体は、しばしば「美しい」顔をしてしまう。美しさは、残酷な仮面だ。

それから三年。海は広くなったのではない。私たちが痩せたのだ。艦隊の輪郭が、どこか薄くなった。薄くなった輪郭は、風景に溶けやすい。溶けたものは、歴史の中で簡単に「必然」になる。必然という言葉ほど、人を殺すものはない。

捷一号作戦——と呼ばれた。名は端正だった。端正な名は、いつでも不潔だ。端正な名は、泥を嫌い、汗を嫌い、咳を嫌い、呻きを嫌う。嫌っているのに、結局それらの上に立つ。

「囮になる」

そう言われたとき、私の腹の底が冷えた。囮という語は魚の匂いがする。生きているものを、別の生きているもののために餌にする匂いだ。餌になる者が、餌であることを知っている——その知り方は、どこか上品で、どこか下品だった。上品と下品が混ざるとき、人はだいたい「大義」を口にしたくなる。大義は甘い。甘い大義ほど腐る。

私は甲板の端に立ち、海を見た。フィリピンの海は青い。青は無関心の色だ。無関心の青の上で、艦だけが「意味」を持ちたがっていた。意味を持ちたがるのは、人間の卑しさだ。海は意味を持たない。持たないからこそ、海は残酷で、そして正しい。

艦内の通路で、同じ部署の相良が私を呼び止めた。相良は甲板員で、背が低く、肩がやけに張っていた。肩の張りは若さの証だ。若さは、まだ世界を身体で信じている。

「先任」

彼はそう言って、笑いかけた。笑いは薄い。薄い笑いは恐怖の裏返しだ。

「俺たち、ほんとに囮なんですか」

囮という言葉を口にした瞬間、相良の唇がわずかに乾いた。乾きは、涙を拒むための皮膚の工夫だ。泣けば、心がほどける。ほどけた心は、命令を受け取れなくなる。

「そうだろうな」

私は答えた。答えの短さは、逃げだ。逃げは卑怯だが、卑怯でないとここでは立てない。

相良はしばらく黙ってから、内ポケットを叩いた。紙の音がした。

「手紙、書きました。……でも、これ、出せるんですかね」

紙は軽い。軽い紙が人を生かすことも殺すこともある。私は相良のポケットの薄さを見て、胸の奥が痛んだ。痛みは感情移入だ。感情移入は、戦場では毒だ。毒は甘い。甘い毒ほど、真面目な者を殺す。

「出せるさ」

私は嘘をついた。嘘は優しい。優しい嘘ほど罪深い。相良は頷いた。頷きは楽だ。頷けば、未来を薄くできる。薄い未来は怖くない。怖くないふりができる。

その夜、艦内放送で「皇国の興廃此の一戦に在り」といった文句が流れた。流れた言葉は整っていた。整った言葉は現実に追いつけない。現実は、もっと臭く、もっと滑稽で、もっと湿っている。湿った現実を、乾いた標語で押しつけるとき、言葉は刃になる。刃は、いつも持ち主の手も切る。

私は寝台で目を閉じ、耳の奥で「囮」という言葉の生臭さを反芻した。囮は、釣り針の先にある。釣り針は小さい。小さいものほど残酷だ。小さい針が、大きな艦を沈める。その不釣り合いが、この戦争の本質だった。

十月二十五日の朝は、妙に明るかった。明るさは祝福ではない。明るさは、破滅の舞台装置になる。甲板に出ると、東の空が薄く割れ、割れ目から光が滲んでいた。滲む光は美しい。美しいものほど危険だ。美しさは、殺しを清めた気にさせる。

索敵機が戻る前に、空がざわついた。ざわつきは音ではない。空気の密度が変わる。光が硬くなる。影が鋭くなる。鋭い影ほど不吉だ。影が鋭いとき、空は何かを落とす。

「敵機!」

叫びが走った。叫びはすぐ、対空砲の轟音に飲まれた。轟音は骨に来る。骨に来る音は思想を剥がす。剥がれた思想の下に残るのは、喉の渇きと、掌の汗と、「生きたい」という裸の声だけだ。

私は甲板の端で、空の点を見上げた。点が増える。増えた点が、羽音を持つ。羽音が、黒い雲の花を咲かせる。対空砲火の黒い破裂は、花に似ている。花に似るものほど危険だ。花は祭りを呼ぶ。祭りは陶酔を呼ぶ。陶酔は死を軽くする。

爆弾が落ちた。甲板が揺れ、鉄が鳴り、空気が焼けた。焼けた空気の匂いは甘い。甘い匂いは腐敗の前触れだ。腐敗の前触れが、なぜこんなにも生き物の匂いをするのか。生き物の匂いほど、死を呼ぶものはない。

「火だ!」

甲板のどこかで炎が上がり、黒煙が風に引きちぎられた。黒煙は、青い空を汚す。青は無関心の色だ。無関心の青の中で、黒は異様に正直だった。正直なものは、こちらの嘘を剥ぐ。

相良が走ってきた。顔が煤で黒い。目だけが澄んでいる。澄んだ目は危険だ。澄んだ目は、死を美に変えやすい。

「先任! 格納庫が!」

彼の声は途中で割れた。割れた声は人間の声だ。人間の声ほど、命令より強い。

私は相良の肩を掴んだ。肩は熱い。熱は生の執着だ。

「落ち着け。水だ、水!」

水。水という言葉は救いの象徴のように聞こえる。だがここでは水は、ただの作業だ。作業になった救いほど残酷なものはない。救うのではない。ただ、燃える速度を遅らせるだけだ。

それでも私たちは走った。走る背中は美しくない。美しくない背中は物語にならない。物語にならないことが、いまの私の唯一の防波堤だった。

格納庫の入口で、熱が頬を叩いた。熱は空気を重くする。重い空気は言葉を鈍らせる。鈍った言葉の代わりに、咳が出る。咳は、身体が現実を拒む音だ。拒んでも、現実は入ってくる。

爆弾がもう一発。今度は近かった。近い爆発ほど静かに感じる。静けさは、耳が壊れた証拠だ。白い閃光が一瞬、世界の影を消した。影が消えると、世界は一瞬だけ完全になる。完全は美しい。美しい完全ほど危険だ。危険なのに、私はその一瞬の完全に、胸の奥が軽くなるのを感じた。軽さは罪だ。

揺れの中で、誰かが「万歳」を叫んだ。叫んだ声は、煙に削られて細くなった。細い万歳ほど惨めなものはない。惨めさが、かえって胸を刺す。胸を刺すものは、嘘を許さない。

私は相良を見た。相良は笑っていなかった。その顔に、恐怖と怒りと未練が混じっていた。未練の色は人間の色だ。人間の色が、戦争の中でいちばん嫌われる。

「先任……」

相良は唇を動かした。唇の動きだけで、私は分かった。——生きたい。声にすれば、誰かに叱られる言葉。叱られることが、ここでは「正しさ」になる。正しさほど人を殺すものはない。

私は咄嗟に言った。

「生きろ」

言ってしまった。生きろ、という言葉ほど無責任なものはない。無責任だからこそ胸に刺さる。刺さる言葉は、こちらの逃げ道を塞ぐ。

相良は一瞬、泣きそうな顔をした。泣きそうな顔は醜い。醜い顔ほど誠実だ。誠実さは救いではない。誠実さは、ただ長く続く。

次の瞬間、天井のどこかが崩れ、熱い風が格納庫の奥から吹き出した。風が熱を運ぶのではない。熱が風そのものになる。相良の身体が、私の手から抜けた。

抜けた感触が、いまでも掌に残っている。残るものほど残酷だ。残るものは洗えない。洗えないものほど、後で「意味」を求めたくなる。

私は相良の名を呼んだ。呼び声は煙に飲まれた。飲まれた叫びほど虚しいものはない。虚しさはすぐ罪になる。

傾きが始まった。空母は、傾くときがいちばん綺麗に見える。綺麗に見えるからこそ、私は吐き気を覚えた。美しさは危険だ。美しさは死を清めた気にさせる。清められた死は、後世に飾られやすい。飾られた死ほど、次の若者を呼ぶ。

艦内放送が「総員退艦」を告げた。命令は、意味を運ぶ前に音になる。音だけの命令ほど残酷なものはない。私は梯子を上がり、甲板へ出た。海が見えた。海は青い。青は無関心の色だ。無関心の青の上で、瑞鶴が燃えていた。

甲板の白線が、斜めになっている。白線の斜めは、世界の斜めだ。世界が斜めになると、人間の正しさも斜めになる。斜めの正しさほど危険なものはない。人は斜めの正しさで、平気で人を踏む。

私は手すりを掴んだ。金属が冷たい。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私に「これは現実だ」と告げる。現実は臭い。油の甘い焦げ、焼けた布、汗、血、蒸気。臭いは物語を拒む。物語は臭いを消す。臭いが残る限り、死は飾られない。

海へ飛び込んだ。水は冷たい。冷たさは正しい。だが水は同時に油を抱いていた。油は黒い。黒い油は昼の海を夜にする。夜になった海は、皮膚に貼りつき、呼吸を奪う。息を奪うものほど現実だ。

振り返ると、瑞鶴の艦島が傾いていた。あの巨大な構造物が、ゆっくりと「終わりの姿勢」を取っている。終わりの姿勢は、整っている。整っているから怖い。整った終わりは美しく見える。美しい終わりほど危険だ。

どこかで、誰かが歌を歌い始めた。歌は、海に削られて途切れ途切れになる。途切れた歌は、祈りに似る。祈りに似たものほど、叶わぬ。

私は泳いだ。泳ぐという動作は、英雄の動作ではない。必死の、醜い動作だ。醜い動作だけが、生き延びる。

背後で、低い轟音がした。瑞鶴が、海へ滑り込む音だった。滑り込むとき、海面に白い泡が立った。白は潔白ではない。白は血の色をいちばん鮮やかに見せる背景だ。泡の白さが、真昼の光に照らされて、ひどく清潔に見えた。清潔に見える沈没ほど残酷なものはない。清潔さは罪の臭いを消してしまうからだ。

私は、油の中で咳をした。咳は、身体が現実を拒む音だ。拒んでも、現実は入ってくる。肺の奥まで、甘い焦げが入ってきた。甘いものは腐る。腐った甘さの上で、人はまた「名誉」を語りたがる。私は名誉を語りたくなかった。語れば、相良の未練が薄くなる。薄くなる未練ほど残酷なものはない。

夕方、駆逐艦に拾われた。甲板の木が冷たかった。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私に「生き残った」と告げた。生き残るという事実は、いつも恥だ。恥は、死者より長生きする。

毛布をかけられ、湯を飲まされ、誰かが名を問うた。私は名を言った。名を言う声が、ひどく他人の声に聞こえた。他人の声ほど残酷だ。声が他人になると、人間は自分の人生を「物語」にしてしまいやすい。物語は甘い。甘い物語は腐る。

夜、薄い灯の下で、私は相良のことを思った。相良のポケットの紙。出せるはずだった手紙。軽い紙が、海より重い。

私は自分の内ポケットを探った。皺だらけの紙があった。私の手紙の控えだ。「元気」「心配するな」優しい嘘の列。私はその紙を破かなかった。破けば、いまの自分が「きれい」になる気がした。きれいになるのは危険だ。きれいになれば、臭いが消える。臭いが消えれば、また次の戦争が来る。

私は紙を戻した。紙の角が指に刺さった。刺さる痛みは生の証拠だ。生の証拠がある限り、私はまだ、相良の未練を裏切りきっていない。

レイテ沖海戦、と後で人は呼ぶ。呼べば、ひとまとめになる。ひとまとめになれば、整う。整えば、美談になる。美談は甘い。甘い美談ほど、次の若い胸を熱くする。

私は、熱くしたくない。だから、空白の甲板を忘れない。翼の匂いを失った甲板。囮という魚の匂い。油の甘い焦げ。相良の唇の「生きたい」。

海は今日も青い。青は無関心の色だ。無関心の下で、私はただ息をする。臭いまま、恥のまま、未練のまま。美しく語られないために。そして、空白の甲板が二度と「様式」にならないために。

 
 
 

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