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第一章 契約という結界


午前五時二十一分。

アステリオン・ホールディングス本社三十七階の大会議室には、普段とは違う種類の沈黙が落ちていた。

決算前の沈黙ではない。買収交渉前の沈黙でもない。不祥事の記者会見前に漂う、あの重く湿った沈黙でもない。

それは、まだ名前を与えられていない災厄を前にした沈黙だった。

会議室の中央には、長い楕円形のテーブルがある。そこに社長の椎名、CFOの黒川、CISOの遠野、広報部長の飯倉、IR責任者の野々村、個人情報管理責任者の瀬尾、そして法務部長の真柴怜子が座っていた。

全員の前に、同じ資料が配られている。

表紙には、怜子が打ったばかりの文字があった。

アステリオン情報セキュリティ重大事案第一回 重大インシデント対策会議

その下に、太字で一文。

本会議は、事実を隠蔽しないことを前提として開始する。

黒川は、その一文を何度も見ていた。目で削り取ろうとしているようだった。

「この文言は強すぎる」

やがて黒川が言った。

「隠蔽しない、という言葉を議事録に残す必要があるのか。まるで、隠蔽する可能性があったみたいに見える」

怜子は、ペンを置いた。

「可能性はあります」

会議室の空気が、わずかに硬くなった。

「人は、危機のときに自分を守ろうとします。組織も同じです。だから最初に線を引いておく必要があります」

「線?」

「ここから先は、会社を守るために事実を曲げない、という線です」

黒川は椅子に深くもたれた。

「理想論だな」

「初動対応です」

怜子は言い切った。

遠野が壁面のモニターにログの要約を映していた。彼の顔には疲労の色があったが、声は平坦だった。

「現時点で確認できていることを共有します。第一に、外部への大容量通信がありました。第二に、その通信は法務部管理者アカウントを経由したように見えます。第三に、攻撃者が提示したサンプルには、当社の顧客情報基盤に含まれるデータと一致する項目があります。第四に、初期異常は六十四日前に検知されていました」

「六十四日前というのは、確定なのか」

椎名が聞いた。

「初期アラートの時刻としては確定です。ただし、その時点で侵害が成立していたかどうかは調査中です」

「なぜ、そのアラートは上がってこなかった」

遠野の手が止まった。

「社内AIシステム、ミュトスのリスク判定で低優先度に分類されました」

飯倉が顔を上げる。

「AIが判断した、ということですか」

「最終判断は人間です。ただ、現場の一次分類ではミュトスの推奨が使われています」

「つまり、AIのせいにできる?」

黒川が言った。

その瞬間、遠野の目がわずかに鋭くなった。

怜子が先に答えた。

「できません」

「なぜだ」

「AIを使うと決めたのは会社です。AIの出力を業務フローに組み込んだのも会社です。監督しなかったのも会社です」

黒川は口を閉じた。

椎名は両手を組み、じっとモニターを見ていた。その横顔からは、感情が読めない。

「ミュトスは、なぜ低優先度にした」

椎名が聞いた。

遠野は手元の資料をめくった。

「判定理由のログによると、法務部管理者アカウントによる夜間アクセスは、過去にも決算期やM&A案件で発生しているため、異常度を下げたようです。また、アクセス先が契約書保管領域と委託先管理台帳に近い領域だったため、業務上の一括抽出と誤認した可能性があります」

怜子は、指先が冷えるのを感じた。

法務部の働き方が、攻撃者の隠れ蓑になった。

深夜作業。大量の文書抽出。機密ファイルへのアクセス。一部役員だけが知る案件。不自然に見えるものが、法務では自然に見えてしまう。

会社の癖が、会社を傷つけたのだ。

「つまり、攻撃者は当社の業務パターンを知っていたということか」

椎名が言った。

「少なくとも、知っているように振る舞っています」

遠野が答える。

そのとき、会議室のスピーカーから電子音が鳴った。

秘書室が接続した外部回線だった。

『山崎です。音声、届いておりますか』

怜子は、卓上マイクに身を寄せた。

「届いています。山崎先生、早朝からありがとうございます」

『先生は不要です。状況が状況ですから、実務で進めましょう』

山崎行政書士事務所の山崎は、声だけで会議室に入ってきた。

派手な名刺交換もない。重々しい前置きもない。ただ、混乱した部屋の中に、一本の定規を置くような声だった。

『まず、私の立場を明確にします。私は行政書士として、御社の行政手続、届出書類、社内規程、委託先管理台帳、個人情報関連文書の整理を支援します。紛争性のある法的判断、損害賠償交渉、刑事対応は弁護士の領域です。そこは必ず弁護士と連携してください』

「承知しています」

怜子が答えた。

黒川が小声で言った。

「今それを確認する必要があるのか」

山崎は聞こえていたのか、静かに続けた。

『必要です。有事ほど、誰が何をする人間なのかを曖昧にしてはいけません。役割の混線は、判断の遅れになります』

会議室に、短い沈黙が落ちた。

怜子は、心の中で小さくうなずいた。

これが山崎だった。

危機の場で自分を大きく見せようとしない。できることと、できないことを最初に分ける。その姿勢自体が、信用になる。

『では、委託先管理台帳を開いてください』

山崎の声に従い、怜子は自分の端末でファイルを開いた。

ミナセ・データリンク株式会社。

登録日、契約開始日、担当部署、取扱情報、再委託の有無、監査履歴、事故報告窓口。

項目は整っている。

整っているように見える。

山崎が言った。

『最新版の更新日はいつですか』

「昨年四月一日です」

『その後、契約変更は?』

怜子は、契約管理システムを検索した。

「昨年十月に変更覚書があります。対象業務の追加です」

『台帳には反映されていますか』

怜子は画面を見た。

対象業務欄には、旧来の記載しかない。

自治体向け健康管理システムの運用補助。データ移行支援。問い合わせ一次対応。

昨年十月に追加されたはずの、クラウド監視補助業務がない。

「反映されていません」

山崎は責めなかった。

『ないものは、ないと記録してください』

怜子は議事録に打ち込んだ。

委託先管理台帳は、昨年十月の変更覚書を反映していない。

文字にした瞬間、事実は牙を持った。

瀬尾が額に手を当てる。

「その変更覚書で、ミナセが触れる情報の範囲は広がっていますか」

遠野が答えた。

「監視補助なので、直接データベースを操作する想定ではありません。ただ、ログ閲覧権限が追加されています」

「ログには個人情報が含まれる?」

「一部、含まれます」

怜子は目を閉じた。

契約書は結界だ。

だが結界には、更新が必要だった。古い地図のまま線を引いても、門が増えていれば意味がない。

『次に、ミナセとの契約書本体と個人情報取扱特約を確認してください』

山崎が言った。

怜子はファイルを開いた。

契約書は、よくできていた。

秘密保持義務。目的外利用の禁止。再委託の事前承諾。安全管理措置。事故発生時の速やかな報告。監査権。損害賠償。契約終了時の返還・消去。

法務部が好む言葉が、そこには整然と並んでいる。

黒川が画面を覗き込んだ。

「十分じゃないか。これなら責任はミナセにある」

怜子は答えなかった。

山崎が代わりに言った。

『契約条項としては、相応に整っています』

黒川の表情が少し緩んだ。

だが山崎は続けた。

『問題は、条項が実際に運用されていたかです』

黒川の表情が戻った。

『監査権はあります。では、監査しましたか』

誰も答えない。

『再委託の事前承諾条項はあります。では、再委託先リストは最新ですか』

瀬尾が資料をめくる音がした。

『事故発生時の報告義務はあります。では、報告窓口の担当者は現在も在籍していますか』

怜子は契約書の末尾を見た。

ミナセ側事故報告窓口。情報管理部 白鳥雅也。

「この方が現在も担当かどうかは未確認です」

『確認事項に入れてください』

怜子は打った。

ミナセ側事故報告窓口担当者の在籍・有効性は未確認。

山崎の声は、淡々としていた。

『契約書は、平時には約束の束です。有事には、確認事項の束になります。書いてあるから大丈夫、ではありません。書いてあることを、誰が、いつ、どのように実行していたかが問われます』

黒川が苛立ったように言った。

「つまり、当社にも落ち度があると言いたいのか」

山崎は少し間を置いた。

『今は、落ち度という言葉を使う段階ではありません』

「では何だ」

『空白です』

「空白?」

『記録の空白、確認の空白、運用の空白です。空白は、事故後に誰かの都合で埋められます。だから今、事実として固定する必要があります』

怜子は、胸の奥に重いものを感じた。

山崎行政書士事務所が半年前に納品した委託先管理台帳は、単なる一覧表ではなかった。委託先ごとに、契約、個人情報、再委託、許認可、事故報告、更新履歴を紐づける設計になっていた。

山崎はそのとき言っていた。

「有事のときに探す書類は、平時に迷子になっています。だから、迷子にならない形で置いておくんです」

怜子は、その言葉を思い出した。

書類はあった。だが、更新されていなかった。

棚は作った。だが、誰も片付け続けなかった。

結界は張った。だが、門番はいなかった。

午前五時四十二分。

ミナセ・データリンクに対する正式照会文が完成した。

怜子が読み上げる。

「件名、情報セキュリティインシデントに関する緊急照会。本文、当社システムにおいて、貴社業務範囲に関連する可能性のある不審な外部通信および第三者からの接触を確認しております。つきましては、以下の事項について、本日午前七時までに一次回答を求めます」

黒川が眉をひそめた。

「午前七時? 早すぎないか」

「攻撃者の期限は二十四時間です。こちらの確認は一分でも早いほうがいい」

「相手も寝ているだろう」

遠野が言った。

「攻撃者は寝ていません」

その一言で、誰も何も言わなくなった。

怜子は続けた。

「確認事項。一、貴社環境における不正アクセス、マルウェア感染、認証情報漏えい、異常通信の有無。二、当社業務に関連するデータ、ログ、認証情報、設定情報へのアクセス状況。三、再委託先の利用状況および当社承諾の有無。四、事故発生またはそのおそれを認識した日時。五、当社への報告を実施していない場合、その理由。六、証拠保全措置の実施状況。七、現時点での復旧、隔離、停止措置の内容」

山崎が言った。

『よいと思います。ただし、“不正アクセスの有無”だけだと、相手が認識していなければ「無」と返してきます。“その兆候、疑い、未確認のアラートを含む”と入れてください』

怜子は修正した。

『それと、“本照会に対する回答は、後続の当局対応、本人通知、取引先説明の基礎資料となるため、推測と確認済事実を区別すること”も入れてください』

「入れます」

飯倉が小さく息を吐いた。

「当局対応、本人通知、取引先説明……それを文字にすると、もう決まったみたいに見えますね」

怜子は飯倉を見た。

「決まっていないからこそ、今から準備します」

「広報としては、初動の表現を統一したいです。社内にも問い合わせが来ます」

「社内向けには、“重大な情報セキュリティ事案を調査中。関連部署以外は本件について外部発信禁止。問い合わせは対策本部へ集約。記録保全のため、関連メール・チャット・ファイルを削除しない”。まずはこれです」

飯倉はメモを取った。

「顧客向けは?」

怜子は一瞬迷った。

顧客向け。その言葉の中には、まだ顔がない。

病院。自治体。保険者。介護施設。そして、その先にいる個人。

「現時点では、まだ出せません。ただし雛形は作ります」

山崎が静かに言った。

『雛形は、三種類に分けてください』

「三種類?」

『確認中の段階での一次連絡。漏えいまたはそのおそれが判明した場合の通知。影響なしと確認された場合の報告。この三つです。危機の広報文は、結論が出てから書くと遅れます』

飯倉が顔を上げた。

「山崎さん、広報も見られるんですか」

『広報文の表現そのものは御社と専門家の判断です。ただ、行政対応文書や本人通知に必要な事実項目は整理できます。何を入れるべきか、何を未確認と書くべきか。そこは、平時の規程整備と同じです』

飯倉は、少しだけ安心したようにうなずいた。

怜子は、その反応を見逃さなかった。

危機の場では、誰もが専門家を求める。だが、本当に必要なのは、万能の神ではない。自分の担当領域に、静かに明かりを置いてくれる人間だ。

午前五時五十六分。

ミナセへ照会文が送信された。

送信記録を保存。宛先、CC、時刻、添付ファイル、本文をPDF化。山崎の助言で、別途、送達記録用の管理表も作られた。

「ここまで必要ですか」

若手法務の佐伯が、寝起きの顔で会議室に駆け込んできて言った。彼女は怜子の直属の部下で、三年前、ミナセとの変更覚書を担当した一人だった。

「必要よ」

怜子は言った。

佐伯は青ざめていた。

「私が、何かミスをしたんでしょうか」

怜子は、即座には答えなかった。

ここで「違う」と言えば、慰めになる。だが、慰めは事実ではない。ここで「そうだ」と言えば、責任の押し付けになる。それもまた、事実ではない。

「今はミスを探す段階ではないわ」

怜子は言った。

「事実を探す段階。あなたには、昨年十月の変更覚書の経緯を整理してほしい。誰から依頼が来て、誰が承認して、台帳更新がどのフローになっていたか」

佐伯は唇を噛んだ。

「台帳更新は……私の担当だったかもしれません」

「かもしれない、でいい。まず記録して」

「でも、それが原因なら」

怜子は佐伯の言葉を遮らなかった。

会議室の端に置かれた大型モニターには、攻撃者のメールがまだ映っている。

We are inside your myth.

佐伯はそれを見て、震える声で言った。

「私たちは、被害者ですよね」

その問いは、誰に向けられたものでもなかった。

怜子は静かに答えた。

「被害者であることと、責任がないことは同じではない」

佐伯は目を伏せた。

「でも、攻撃したのは私たちじゃない」

「そう。攻撃したのは私たちではない。でも、守ると約束したのは私たち」

怜子の声が、少しだけ揺れた。

「その約束がどこまで守られていたのかを、今から確認する」

佐伯は小さくうなずいた。

山崎がスピーカー越しに言った。

『佐伯さん、責任を恐れて記録を曖昧にすると、あなた個人ではなく会社全体が危うくなります。記憶が不確かなところは、不確かと書いてください。それは逃げではありません。正確さです』

佐伯は驚いたようにスピーカーを見た。

「はい」

その返事には、少しだけ力が戻っていた。

午前六時十二分。

ミナセから最初の返信が届いた。

件名は、怜子たちが送った照会文への返信ではなかった。

Re: 緊急のご連絡について

本文は、わずか五行だった。

アステリオン・ホールディングス株式会社法務部 真柴様 ご照会の件、現時点で弊社において不正アクセスおよび情報漏えいの事実は確認されておりません。一部サーバにおける通信障害は発生しておりますが、現在復旧対応中です。詳細確認のうえ、追ってご連絡いたします。 ミナセ・データリンク株式会社経営管理部

黒川がすぐに言った。

「ほら見ろ。不正アクセスは確認されていない」

遠野がモニターを見たまま言った。

「“確認されていない”だけです」

「それは、ないという意味だろう」

「違います」

遠野の声が、少しだけ低くなった。

「まだ見つけていない、という意味でもあります」

怜子は返信文を読み返した。

一部サーバにおける通信障害。復旧対応中。

危険な言葉だった。

「復旧対応中」とは、何をしているのか。再起動か。初期化か。ログ削除を伴う作業か。証拠を消している可能性はないのか。

「山崎さん」

『はい』

「再照会します」

『すぐに』

怜子は新しい文面を作り始めた。

復旧対応によりログ、メモリ、設定情報、通信記録その他調査に必要な証跡が失われるおそれがあります。当社業務に関係する環境については、証拠保全を優先し、事前協議なく初期化、削除、上書き、再構築その他証跡を失わせる作業を行わないでください。既に実施した作業がある場合、作業日時、作業者、対象機器、作業内容を直ちに回答してください。

山崎が言った。

『よいです。さらに、“貴社における一部サーバとは、当社業務に関連するサーバを含むか”を明確に聞いてください』

「入れます」

『“通信障害を最初に認識した日時”も』

「入れます」

『それと、“経営管理部”ではなく、契約上の事故報告窓口または情報セキュリティ責任者から回答するよう求めてください』

怜子は打ち込みながら、山崎の声を聞いていた。

一つずつ、曖昧さを潰していく。抽象的な危機を、確認可能な項目に変えていく。それは地味で、目立たず、誰からも称賛されない作業だった。

だが、会社を救う可能性がある作業は、たいていそういう顔をしている。

午前六時二十九分。

遠野の部下から、新しい解析結果が上がってきた。

遠野はそれを見た瞬間、表情を変えた。

「真柴さん」

「何」

「外部通信の経路に、もう一社います」

会議室にいた全員が、遠野を見た。

「再委託先か?」

椎名が聞いた。

遠野は画面を切り替えた。

そこには、見慣れない会社名があった。

オルフェ・クラウドサービス合同会社

佐伯が小さく声を漏らした。

「その会社……」

怜子が振り向く。

「知っているの?」

佐伯は、自分の端末を慌てて操作した。

「ミナセから、昨年の十二月に相談がありました。夜間監視の一部を外部のクラウド監視サービスに移したいと。ただ、正式な再委託ではなく、ツール利用だという説明で……」

「承諾したの?」

佐伯の指が止まった。

「記憶では、事業部が“軽微なツール利用なので承諾不要”と判断したはずです」

怜子は胸の奥が沈むのを感じた。

承諾不要。

その四文字は、企業の中でよく使われる小さな抜け道だった。軽微だから。一時的だから。直接データに触れないから。コストが安いから。他社も使っているから。クラウドだから。

その言葉の先に、今、見知らぬ会社名が浮かんでいる。

山崎の声がした。

『その判断記録はありますか』

佐伯は画面を見つめた。

「チャットで……残っていると思います」

『削除しないでください。すぐにエクスポートして、原本性を損なわない形で保全してください。スクリーンショットだけでなく、可能なら管理者に依頼して履歴ごと保全を』

遠野がうなずく。

「情報システムで対応します」

黒川が机を叩いた。

「待て。再委託ではないツール利用なら、契約違反とは限らないだろう」

怜子は、ミナセとの契約書をもう一度開いた。

再委託条項。

受託者は、本業務の全部または一部を第三者に委託し、または第三者のサービスを利用して本業務に関する情報を取り扱わせる場合、事前に委託者の書面による承諾を得なければならない。

怜子はその条文を読み上げた。

黒川は黙った。

契約書は、そこにあった。条文は、そこにあった。警告は、そこにあった。

だが誰かが、それを読まなかった。あるいは、読んだうえで軽いと判断した。

結界の門は、内側から開けられていた。

午前六時四十四分。

社内AIミュトスの管理画面に、遠野がアクセスした。

怜子は最初、ミュトスに本件情報を入れることを禁じていた。だが今必要なのは、ミュトスの出力を得ることではない。過去にミュトスが何を出力したかを確認することだった。

遠野が、六十四日前のアラート判定履歴を開く。

画面には、機械的な日本語が表示された。

判定:低優先度理由:対象アカウントは法務部管理者権限であり、過去の業務履歴に照らして夜間アクセスは異常とは言い切れない。対象ファイル群は契約・委託先関連文書であり、決算期・監査期における一括処理と類似。推奨対応:翌営業日の定期確認で足りる。

飯倉が呟いた。

「神託みたいですね」

「神託ではありません」

遠野が言った。

「統計です」

怜子は画面を見つめた。

翌営業日の定期確認で足りる。

その一文が、六十四日間の沈黙を作ったのか。

いや、違う。

AIは沈黙を作っていない。AIの一文を、誰かが沈黙として採用した。

「この判定を見た担当者は?」

怜子が聞いた。

遠野はログを追った。

「情報システム運用課の三名。うち一名が確認済みにしています」

「コメントは」

「あります」

遠野が読み上げた。

ミュトス判定に従い低優先度。法務繁忙期の可能性あり。翌週確認。

翌週確認。

怜子は、その四文字に目を奪われた。

その翌週、何があったか。

株主総会準備。新規自治体案件の入札。M&Aの秘密保持契約。内部通報制度の改定。そして、彼女自身が出張していた。

翌週確認は、翌々週確認になった。翌々週確認は、月次レビューになった。月次レビューは、重大でないものの一覧に埋もれた。

危機は、爆発音とともに来るとは限らない。

小さな先送りの積み重ねが、ある朝、災厄という名前に変わる。

椎名が低い声で言った。

「ミュトスの導入責任者は誰だ」

遠野が答えた。

「全社DX推進室です。経営会議承認案件です」

「経営会議の資料は残っているか」

「はい」

山崎が言った。

『その資料も保全してください。導入目的、リスク評価、監督体制、出力の利用範囲。すべてです』

黒川が不快そうに言った。

「何でもかんでも保全すればいいというものではないだろう。見られたら困る資料もある」

怜子は黒川を見た。

「見られたら困る資料ほど、消したらもっと困ります」

黒川は黙った。

その沈黙の中で、椎名が初めて深く息を吐いた。

「真柴さん」

「はい」

「この件は、取締役会を開くべきか」

怜子は、すぐに答えた。

「開くべきです。少なくとも臨時取締役会、または全取締役への緊急報告は必要です」

「まだ全容は不明だ」

「だから報告します。全容が不明であることも、経営上の重要な事実です」

椎名は目を閉じた。

おそらく彼は、頭の中でいくつものものを並べている。株価。決算説明会。金融機関。取引先。メディア。社外取締役。従業員。そして、自分の責任。

経営者は、危機のときに初めて、自分が何を信じてきたかを知らされる。

「わかった」

椎名は目を開けた。

「午前九時に臨時取締役会を招集する。社外取締役にも入ってもらう」

黒川が驚いたように顔を向けた。

「社長、本気ですか」

「本気だ」

「まだ早い」

椎名は黒川を見た。

「さっきから、君は早いと言う」

黒川の顔がこわばった。

「早いという判断が間違いとは限りません」

「そうだな」

椎名は静かに言った。

「だが、遅いという判断は、間違いだとわかったときには取り返しがつかない」

会議室に、朝の光が差し込み始めていた。

窓の外では、首都高速を車が流れている。街は完全に目覚めようとしている。

そのとき、怜子の端末に新しいメールが届いた。

送信者は、ミナセ・データリンクではなかった。

件名も、攻撃者のものとは違う。

【内部通報】六十四日前のアラートについて

怜子は一瞬、画面を見つめた。

内部通報窓口に転送されたメールだった。差出人は匿名化されている。

本文は短い。

六十四日前のアラートは、低優先度として処理される前に、一度、重大候補として上がっていました。しかし、ある役員案件に関係する法務ファイルへのアクセスだったため、「騒ぎにするな」と言われました。ミュトスの判断だけではありません。ログを見てください。消される前に。

怜子は、体の内側から音が消えていくのを感じた。

会議室の声が遠くなる。キーボードの音も、空調の音も、朝の車の音も。

ある役員案件。

法務ファイル。

騒ぎにするな。

怜子は遠野を見た。

遠野も、同じメールを見ていた。彼の顔から、血の気が引いている。

「遠野さん」

怜子の声は、自分のものではないようだった。

「六十四日前のアラートに紐づくアクセス先を、もう一度出して」

遠野は無言で操作した。

数秒後、モニターにファイルパスが表示された。

契約書保管領域。委託先管理台帳。自治体案件資料。そして、一つだけ、別のフォルダ。

/Legal/Board/Project_Orpheus/

オルフェウス。

再委託先の名は、オルフェ・クラウドサービス。

偶然にしては、あまりに整いすぎていた。

怜子は喉の奥が乾くのを感じた。

神話の中で、オルフェウスは冥府へ降りる。失ったものを取り戻すために。しかし振り返った瞬間、すべてを失う。

椎名が低く聞いた。

「Project Orpheusとは何だ」

誰も答えなかった。

黒川だけが、わずかに目を逸らした。

その小さな動きを、怜子は見逃さなかった。

山崎の声が、スピーカーから静かに響いた。

『真柴さん。ここからは、記録の扱いをさらに慎重にしてください。内部通報、役員案件、情報漏えいが交差しています。弁護士への即時連携が必要です』

「わかっています」

怜子は答えた。

だが、視線は黒川から離さなかった。

黒川は、いつものように数字で武装した顔をしていなかった。一瞬だけ、何かを失った人間の顔をしていた。

椎名が言った。

「真柴さん。Project Orpheusの資料を開け」

怜子は、キーボードに指を置いた。

法務部長として、彼女には権限がある。だが今、その権限そのものが侵害経路だった可能性がある。

自分が開くことで、何かが動くかもしれない。自分が開かないことで、何かが消えるかもしれない。

遠野が短く言った。

「隔離端末で開きます」

怜子はうなずいた。

山崎が言った。

『開いた時刻、端末、操作担当者、同席者を記録してください』

佐伯が、震える手で議事録に入力する。

午前六時五十八分。Project Orpheusフォルダを隔離端末にて確認開始。操作担当、遠野CISO。同席者、椎名社長、黒川CFO、真柴法務部長、飯倉広報部長、野々村IR責任者、瀬尾個人情報管理責任者、佐伯法務担当。外部支援、山崎行政書士事務所。

怜子は、その行を見た。

山崎行政書士事務所。

さりげない一行だった。だが、有事の記録の中に、その名は確かに残った。

混乱の中で、何を確認し、何を保存し、何を行政対応に結びつけるべきか。その道筋を示す存在として。

遠野がファイルを開いた。

最初に表示されたのは、取締役会向けの提案資料だった。

表紙には、こう書かれていた。

Project Orpheus医療・介護データ利活用に関する戦略的提携案

怜子は、息を止めた。

医療・介護データ利活用。

その言葉の意味を、法務部長である彼女は理解していた。

匿名加工。仮名加工。同意。第三者提供。共同利用。目的外利用。越境移転。本人通知。オプトアウト。委託か、提供か。研究か、営利か。

言葉の選び方一つで、合法にも違法にも、信頼にも裏切りにも見える領域。

椎名が黒川を見た。

「これは何だ」

黒川は、答えなかった。

モニターの次ページに、提携先候補の一覧が表示された。

その中に、見覚えのある名前があった。

オルフェ・クラウドサービス合同会社

飯倉が手で口を覆った。

瀬尾が小さく言った。

「ミナセの再委託先ではなく……」

怜子が引き取った。

「当社の戦略提携候補だった」

遠野がさらにページを送った。

そこには、赤字のコメントが残っていた。

法務確認要。現行同意文言で二次利用可能と整理できるか。取締役会前に外部への露出を避けること。情報システム部門への共有は最小限とする。

コメント作成者の名前は、黒川だった。

会議室の空気が凍った。

黒川は、ゆっくりと椅子から身を起こした。

「これは、まだ検討段階の資料だ」

怜子は黒川を見た。

「六十四日前のアラートと関係がありますか」

「知らない」

「“騒ぎにするな”と言いましたか」

「知らないと言っている」

声が大きくなった。

椎名が低く言った。

「黒川」

黒川は椎名を見た。

「社長、これは会社のための案件です。データ利活用は、次の成長戦略だった。法務が慎重すぎるから、検討を分離しただけです」

「情報システム部門への共有を最小限にした理由は」

「情報漏えいを防ぐためです」

遠野が静かに言った。

「その結果、情報漏えいの兆候も共有されませんでした」

黒川は遠野を睨んだ。

「君は技術屋だ。経営を知らない」

遠野は答えなかった。

代わりに怜子が言った。

「経営を知らないことと、記録を消していいことは違います」

「消してなどいない」

「では、残っている記録を見ましょう」

黒川の顔に、怒りとも恐怖ともつかない色が浮かんだ。

そのとき、遠野の端末が警告音を鳴らした。

「何?」

怜子が聞く。

遠野の目が画面を走る。

「Project Orpheusフォルダ内の一部ファイルに、削除要求が出ています」

「今?」

「今です」

会議室の全員が、一斉に動きを止めた。

「誰が」

遠野はキーを叩いた。

「内部アカウントです」

「名前は」

遠野は画面を見たまま、硬い声で言った。

「legal-admin」

怜子の背筋に、氷の針が走った。

また、自分のアカウント。

攻撃者なのか。内部者なのか。それとも、両方なのか。

遠野が叫ぶように言った。

「削除を止めます。保全イメージを取る」

山崎の声が、いつになく強く響いた。

『操作記録を残してください。削除要求が出た時刻、対象ファイル、アカウント、停止措置。全部です』

佐伯が必死に入力する。

怜子は、モニター上で点滅する警告を見ていた。

結界は破られていた。

だが、外から破られたのか。内側から開けられたのか。まだ誰にもわからない。

ただ一つ、はっきりしていることがあった。

この事件は、単なるランサムウェアではない。

攻撃者は、会社のデータだけではなく、会社が隠していた物語そのものを握っている。

そしてその物語の中心には、法務があった。

怜子は、会議室の中央に立った。

「以後、Project Orpheusを本件の重要関連事項として扱います。関係資料はすべて保全。関係者への聞き取りは弁護士同席を原則。社内AIミュトスの使用は引き続き制限。ミナセ、オルフェ、当社内部の三方向で調査線を分けます」

誰も異論を唱えなかった。

黒川でさえ、口を開かなかった。

窓の外では、朝日がビルの硝子に反射していた。

明るくなれば、真実が見えるわけではない。むしろ、明るさの中でこそ、人は見たいものだけを見る。

怜子は議事録に、次の一行を加えた。

本件は、外部攻撃、委託先管理、AI判定、社内データ利活用案件が複合した事案である可能性がある。

山崎が、その一文を確認して言った。

『よいです。そこから逃げないことです』

怜子は画面を見つめた。

神話は、まだ崩れきっていない。だからこそ危険だった。

人は、崩れた神殿からは逃げる。だが、ひび割れただけの神殿には、まだ祈り続けてしまう。

アステリオンという神殿の中で、誰かがまだ祈っている。

まだ隠せる。まだ戻せる。まだ会社は守れる。まだ大丈夫だ。

怜子は、その祈りを断ち切るように、キーボードを叩いた。

次回会議予定:午前九時、臨時取締役会。議題:重大インシデント発生報告、初動対応、開示・通知方針、Project Orpheus関連資料の保全。

送信ボタンを押す直前、攻撃者から二通目のメールが届いた。

件名は、今度はあった。

Do not look back.

振り返るな。

本文には、画像ファイルが一つだけ添付されていた。

遠野が隔離環境で開く。

そこに映っていたのは、Project Orpheusの表紙ではなかった。顧客データの一覧でもなかった。身代金の要求書でもなかった。

それは、三十七階の大会議室を斜め上から撮った写真だった。

椎名。黒川。遠野。飯倉。瀬尾。佐伯。怜子。

全員が、そこに写っていた。

撮影時刻は、午前六時五十八分。

Project Orpheusを開いた、まさにその瞬間。

会議室には、誰も言葉を発しなかった。

怜子は、天井を見上げた。

監視カメラが一つ、赤い小さな光を点滅させている。

神託はログだけではなかった。

会社そのものが、すでに誰かに読まれていた。

 
 
 

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