第七章 声になった紙
- 山崎行政書士事務所
- 1月31日
- 読了時間: 7分

花火の翌朝は、空がやけに澄んで見えた。澄んでいるのに、喉の奥にはまだ薄い膜が残っている。火薬の匂いが完全に消えないまま、茶の匂いだけが上から重なって、どちらでもない味になる。歯を磨いても、うがいをしても、「昨日」という日付だけが、舌の根元に小さく貼りついたままだった。
幹夫(みきお)は洗面所で袖口を引っ張り、指先で確かめた。塩のざらつきはもうない。水で洗ったからだ。でも、洗ったあとの布の感じが「ここにあった」を覚えている。消えたものの痕だけが残ると、残っているほうが本物みたいに思えてしまう。
机に向かうと、原稿用紙が待っていた。昨夜書き足した行の上に、鉛筆の粉がほんの少し落ちている。粉は軽い。軽いのに、払うとき指先が慎重になる。慎重になるのは、紙を汚したくないからではなく、汚れが「今日の自分」を吸ってしまいそうだからだった。
原稿用紙を一枚、引き寄せる。升目の白は、相変わらず整いすぎている。整いすぎている白は、言葉を置くときに勇気が要る。置いた瞬間、言葉がその場所を“自分の場所”にしてしまうからだ。
幹夫は鉛筆を持って、ゆっくり続きを書いた。
「煙は、見上げる人の上を通って、町のほうへほどけていった」
書いて、止めた。“ほどける”という言い方が、少しだけ嘘くさく見えた。煙はほどけるのではなく、ただ薄くなって消えるだけだ。けれど薄くなって消える、という言い方をすると、昨日のことも同じように消えてしまいそうだった。消えるのが怖いのか、消えないのが怖いのか、自分でも分からないまま、幹夫は消しゴムを取らず、その行を残した。
次の行は、もっと短くなった。
「帰り道は、声より先に、匂いで混む」
書いてから、幹夫は自分の手を見た。鉛筆を握る指は汚れていない。汚れていないのに、書いた行は汚れた白を作る。白が汚れると、紙は軽くなくなる。軽くなくなった紙は、持ち上げるとちゃんと“重さ”を返してくる。
その重さが、少しだけ安心だった。
登校の途中、国一の車の流れはいつもより遅かった。花火の翌日だからだろう。片付けのトラック、いつもより多い人の動き、眠りの残った顔。雨上がりではないのに、アスファルトの匂いがどこか湿っていた。湿っている匂いは「昨日」を引きずる。引きずるから、今日が始まりにくい。
教室はすでに暑かった。窓が開いていて、風が通っているのに、風は涼しくない。夏が本気を出す手前の、ぬるい風。黒板の粉の匂いに混じって、誰かの制汗剤の匂い、弁当箱の匂い、消しゴムのゴムの匂いが重なる。匂いが重なると、言葉は薄くなる。薄い言葉は、出しやすい。出しやすいくせに、胸の奥までは届かない。
ホームルームで、先生が言った。
「作文、今日出して。机の上に置いて」
机の上、という言い方は、逃げ道が少ない。手渡しじゃないぶん軽いようで、軽くない。机の上は、みんなの目が通る場所だ。通る目は、紙の表面をなぞるだけなのに、なぞられると中身まで見られる気がしてしまう。
幹夫は鞄から原稿用紙を出した。書いた紙は、昨夜より少しだけ波打っている。手の汗を吸ったせいかもしれない。汗は透明なのに、紙は正直に形を変える。幹夫はそれをそっと伸ばして、机の角を揃え、上に置いた。
置いた瞬間、胸の奥がひゅっと軽くなった。軽くなるのが嫌だった。軽くなるのは、手放した証拠だから。手放したものは、もう自分だけのものじゃない。
先生が机の列を回って、紙を集め始めた。紙が擦れる音が、教室の中でやけに大きい。さらさら、という音。茶町の店で聞いた茶葉の音に少し似ている。似ているのに、ここでは匂いが立たない。匂いが立たないぶん、音だけが裸で残る。
先生が幹夫の机のところで手を伸ばしたとき、ふいに言った。
「幹夫、いい字だね」
それだけ。評価でもない、励ましでもない。ただ、紙の上の“形”に触れた一言。
幹夫は「ありがとうございます」と言えなかった。言えば丁寧なのに、丁寧な言葉ほどここでは浮く気がした。代わりに、小さく頷いた。頷いたことが、自分でも分かる程度の動きだった。
昼休み、俊が机の横に来て、弁当の蓋を開けながら言った。
「昨日、花火行った?」
幹夫は箸を持ったまま、一拍遅れて「うん」と答えた。うん、の中身はたくさんあるのに、うん、しか出ない。出ないことが、今日の自分にはちょうどよかった。
俊は「いいな」と言って、唐揚げを口に入れた。それ以上は聞かない。聞かないことが、雑な優しさになるときがある。
午後の授業が終わるころ、先生が作文の束を持って戻ってきた。束になった紙は、遠目にも重そうだった。紙は一枚では軽いのに、集まると急に重い。集まる重さは、教室という箱の重さにも似ていた。
「何枚か、読ませてもらうね。名前は言わないから」
名前を言わない。それは一見、優しい。でも幹夫は、その優しさの中に別の怖さを見た。名前が言われないなら、文章だけが裸で歩く。裸で歩いた文章は、誰のものでもない顔をする。誰のものでもない顔をされると、戻ってくる場所がなくなる。
先生が一枚、読んだ。誰かの“夏”が教室に落ちた。海の話。部活の話。祖父母の家の話。教室は静かだった。静かだけれど、完全には静かじゃない。誰かが息を吸い、誰かが椅子を少しだけ鳴らす。生活の音の上に、他人の夏が乗る。
先生が次の紙を取って、読み始めた最初の一行で、幹夫は分かった。分かってしまったのは、文章の匂いが自分の匂いに似ていたからだ。匂いは紙からは立たないはずなのに、頭の中で匂いが立つ文章がある。
「夏は、匂いが先に帰り道を作る――」
先生の声は均一だった。均一な声が、幹夫の言葉を教室の真ん中に置く。置かれた言葉は、もう引き返せない。引き返せないのに、思ったほど怖くなかった。怖さはある。あるのに、身体が固まらない。固まらない怖さは、昨日の“持ち手に添えた指先”の怖さに似ていた。
先生は淡々と読み進めた。火薬の匂い。煙のほどける方向。帰り道の渋滞。教室の誰かが小さく息を吸うのが聞こえた。笑いでもため息でもない、ただの吸い込み。吸い込みは、ちゃんと聞いている人の音だ。
読み終えると、先生は紙を束の上に戻し、短く言った。
「ありがとう。匂いの文章は、記憶の入り口が上手いね」
褒め言葉の形をしているのに、幹夫の胸の奥では、褒められたというより“触れられた”という感じが強かった。触れられると、薄い壁が一枚だけ動く。動くのに、壊れない。壊れないまま動く、ということがあるのだと、幹夫はそのとき知った。
授業が終わり、チャイムが鳴り、椅子が一斉に鳴る。教室はすぐ「いつも通り」に戻った。いつも通りに戻る速さが、少しだけ助けだった。助けられる程度の余韻で、自分の言葉が置き去りにならずに済む。
俊が廊下で、すれ違いざまに言った。
「さっきの、なんか良かった」
なんか、という言葉が軽くて、でも軽いからこそ本当っぽかった。幹夫は「ありがと」と言えなかった。代わりに、ほんの少しだけ口角を動かした。それが返事の形になったかどうかは分からない。分からないままでも、俊は去っていった。
帰り道、しずてつの踏切が鳴った。鳴る前の一拍が、今日はいちばんうるさくなかった。うるさくないのは、耳が慣れたからじゃない。教室で自分の言葉が一度、外に出てしまったからだ。外に出ると、胸の中の段差が少しだけ低くなることがある。
家に着くと、祖母が湯を沸かしていた。やかんが鳴く前の気配。湯気が立つ前の揺れ。その“前”の静けさが、踏切の一拍に似ているのに、ここでは怖くない。怖くないのは、続きが分かるからだ。湯が沸く。茶を淹れる。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残るものがある、という順番が決まっている。
父は居間でテレビをつけたまま、音量を一段下げていた。幹夫が帰ってきた気配に気づいても、すぐには振り向かない。振り向かないまま、短く言った。
「作文、出したか」
「……出した」
「……読まれたか」
父の声は、そこで少しだけ止まった。止まった時間が短いほど、その止まり方は目立つ。
幹夫は一拍置いてから答えた。
「……読まれた」
父は「そうか」とだけ言い、湯飲みに手を伸ばした。湯飲みの底が畳に触れて、小さく鳴る。その音は、先生の「ありがとう」と同じ種類の重さで胸に落ちた。言葉は少ないのに、ちゃんと“受け取った”が混ざる音。
幹夫は湯飲みを両手で包み、ひと口啜った。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、今日の教室の静けさにも似ていた。読まれた直後には何も感じないのに、帰り道になって、家に着いて、湯気の中でようやく分かってくる。
スマホが震えた。母からだった。
「今日は暑かったね。 作文、どうだった?」
幹夫は返信欄を開き、指を止めた。どうだった、の後ろに答えはたくさんある。怖かった、でもよかった、でも分からない。分からない、と打つと、分からない自分が確定してしまう気がした。
幹夫は、短く打った。
「読まれた」
それだけ打って、さらに一語足した。
「大丈夫」
送信したあと、画面を伏せる。暗い画面に映る自分の目は、朝より少しだけ「聞かれた人」の目をしていた。聞かれた人は、答えを持っていなくてもいい。少なくとも、今日のところは。
幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、紙が声になって外へ出たあとに残る“遅い甘み”の重さなら、もう指先で測れるようになっていた。





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