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第九章 消された声の回廊


午前八時十一分。

文書保管室の奥にあるキャビネットは、これまで開けたものよりも小さかった。

灰色の塗装はところどころ剥げ、鍵穴の周囲には細かい傷がある。扉の上部には、白いラベルが貼られていた。

内部通報・監査関連

その文字は、他のラベルよりも新しかった。

だが、怜子には、それが古い墓標のように見えた。

内部通報。

会社が自らに対して設ける、もう一つの耳。現場の声、違和感、告発、相談、悲鳴。それらを拾い上げ、正式な会議体や上司の承認を通らなくても、危険を知らせるための制度。

制度としては、アステリオンにもあった。

社内ポータルには、内部通報窓口の案内が載っている。匿名可。不利益取扱い禁止。通報者保護。外部窓口あり。調査結果の通知。是正措置。

言葉は整っていた。

あまりにも整っているために、怜子はこれまで、それが機能していると信じていた。

佐伯が記録端末を開いた。

「開始します」

怜子はうなずいた。

遠野が保全用カメラを構える。須堂弁護士はオンラインで接続している。山崎行政書士事務所の山崎は、資料整理支援として音声参加していた。

山崎が静かに言った。

『内部通報関連は、通報者保護を最優先にしてください。氏名、部署、個人が特定される情報は、必要最小限の範囲で確認しましょう』

怜子は答えた。

「わかっています」

『もう一つ。通報内容が事実かどうかと、通報があったこと自体を分けてください』

「はい」

『通報は、会社の中で危険がどう見えていたかを示す資料です。すべてが正しいとは限りません。ただ、無視された声があったかどうかは重要です』

怜子は、その言葉を胸に置いた。

通報は、真実そのものではない。しかし、会社がどこで痛みを感じていたかを示す。

彼女は鍵を回した。

扉が開く。

中には、三つのファイルが並んでいた。

内部通報受付台帳監査委員会報告資料リスク管理委員会議事録

そして一番下に、薄い黒いファイルがあった。

ラベルはない。

佐伯がそれを見て言った。

「これは?」

怜子は手に取った。

表紙の内側に、手書きで一行。

分類不能

怜子は、その言葉を見つめた。

分類不能。

組織が扱えない声は、しばしばそう呼ばれる。苦情でもない。不正告発でもない。ハラスメントでもない。情報漏えいでもない。ただ、どの箱にも入らない違和感。

そして、箱に入らないものは、棚の下に置かれる。

午前八時二十六分。

最初に、内部通報受付台帳を開いた。

台帳は電子化されていたが、紙の出力も保管されていた。山崎の助言に従い、怜子たちは個人名部分を付箋で伏せ、通報番号と概要だけを確認した。

三年前から現在までの通報件数は、多くない。

労務相談。ハラスメント。経費不正。取引先との癒着疑惑。情報管理に関する相談。Project Orpheusに関する懸念。ミュトスの誤判定に関する指摘。ミナセ外部サービス利用に関する相談。

怜子は、最後の三つで手を止めた。

「ありますね」

佐伯の声が低くなった。

山崎が言った。

『通報番号、受付日、分類、対応状況を読み上げてください。通報者情報は伏せたまま』

佐伯が読み上げる。

「通報番号二〇二四—一一七。受付日、一年前の十一月十四日。分類、情報管理に関する相談。概要、Project Orpheusにおいて、自治体関連データの利用目的が現場説明と異なる可能性がある。対応状況、経営企画へ確認。問題なしとして終了」

怜子は、ペンを置いた。

「問題なしとして終了」

佐伯は続けた。

「通報番号二〇二五—〇三二。受付日、八か月前。分類、AI運用に関する相談。概要、ミュトスのアラート優先度判定が、役員案件や経営企画案件に関して低く出る傾向がある。対応状況、情報システムへ確認。仕様上の問題なしとして終了」

遠野の顔が険しくなった。

「私は見ていません」

怜子は遠野を見た。

「情報システムへ確認、とあるけれど」

遠野は首を振った。

「少なくともCISOである私には上がっていません。運用課止まりか、DX推進室かもしれません」

佐伯は次を読む。

「通報番号二〇二五—〇七九。受付日、半年前。分類、委託先管理に関する相談。概要、ミナセ・データリンクが外部クラウド監視サービスを利用しているが、再委託承認が不要と整理されていることに疑問がある。対応状況、事業部へ確認。ツール利用であり再委託に該当しないとして終了」

怜子は、椅子の背に体を預けた。

声は、あった。

Project Orpheus。ミュトス。ミナセ。すべて、通報されていた。

しかし、すべて終了していた。

問題なし。仕様上問題なし。再委託に該当しない。

会社は、声を聞いた。だが、聞いたことにして閉じた。

山崎が言った。

『終了判断者は誰ですか』

佐伯が確認する。

「二〇二四—一一七は、内部通報事務局。確認先、経営企画部。最終承認、コンプライアンス室長」

「二〇二五—〇三二は?」

「内部通報事務局。確認先、DX推進室。最終承認、同じくコンプライアンス室長」

「二〇二五—〇七九は?」

「確認先、事業部。最終承認、コンプライアンス室長」

怜子は眉を寄せた。

「コンプライアンス室長は、誰の管掌?」

佐伯が答えた。

「CFO管掌です。当時は黒川さんの管掌部門です」

遠野が小さく息を吐いた。

「また黒川さんの下か」

須堂がすぐに言った。

「断定は避けましょう。管掌と個別判断の関与は別です」

山崎も続けた。

『はい。ここで重要なのは、通報がリスク所管部門ではなく、通報対象に近い部門へ照会され、その回答で終了している構造です』

怜子はうなずいた。

「つまり、狐に鶏小屋の安全を聞いた」

佐伯が、少し驚いたように怜子を見た。

山崎は静かに言った。

『比喩としては強いですが、議事録には書かないほうがよいです』

「わかっています」

怜子は、議事録に入力した。

内部通報の一部について、通報対象または関連部門への確認結果に基づき終了判断がなされており、独立したリスク所管部門へのエスカレーション状況は未確認。

午前八時五十二分。

通報番号二〇二五—〇三二の詳細ファイルが開かれた。

ミュトスに関する通報。

通報者名は伏せられている。ただし、文章には切実さがあった。

ミュトスのアラート判定について相談します。通常の従業員アカウントや一般システムでは中優先度になるアクセスが、役員案件、経営企画、法務の限定フォルダに関係すると低優先度に下がることがあります。「機密案件のため拡散を避ける」という理由が出ますが、本当に危険なアクセスも見逃すのではないかと不安です。現場では、ミュトスが低優先度にしたものを上に上げづらい雰囲気があります。これは仕様でしょうか。仕様なら、危険ではないでしょうか。

怜子は、文章を読み終えて目を閉じた。

その通報者は、六十四日前のアラートを予言していた。

いや、予言ではない。

現場では、すでに見えていたのだ。

山崎が言った。

『この通報は、極めて重要です。ミュトスの技術問題というより、低優先度判定に対する現場の心理的影響を指摘しています』

遠野は、悔しそうに言った。

「これが私に来ていれば」

怜子は遠野を見た。

「遠野さんには来ていなかった?」

「来ていません。少なくとも、私は見ていない」

佐伯が対応記録を読む。

DX推進室へ確認。ミュトスは機密案件の拡散防止を考慮して優先度を調整する設計であり、仕様上問題なし。現場運用については、必要に応じて教育を行う。本件は改善要望として処理し、通報案件としては終了。

怜子は、思わず声を低くした。

「改善要望」

通報が、改善要望になった。

危険の指摘が、仕様確認になった。不安の声が、教育の話にされた。そして終了した。

山崎が言った。

『通報分類の問題ですね。重大リスクの可能性がある通報を、問い合わせや改善要望として処理してしまう』

須堂が続けた。

「外部調査委員会へ共有します。内部通報制度の運用不備として重要です」

午前九時十三分。

通報番号二〇二五—〇七九。

ミナセ外部サービス利用に関する相談。

ミナセが夜間監視業務で外部クラウド監視サービスを使っているようです。事業部では「ツール利用」と説明されていますが、当社システムに関するログや設定情報が外部サービスに渡っている可能性があります。契約上、再委託承認が必要ではないでしょうか。法務に確認したいのですが、事業部から「軽微なので騒がないように」と言われています。

佐伯は、その最後の一文を読んで声を詰まらせた。

軽微なので騒がないように。

何度目だろう。

軽微。騒がない。後日。不要。保留。問題なし。仕様。改善要望。

会社は、危険を小さく呼ぶ言葉をたくさん持っていた。

対応記録には、こうあった。

事業部へ確認。外部サービスはミナセ社内の監視効率化ツールであり、当社データの第三者提供または再委託には該当しないとの回答。契約上の追加対応は不要。通報者へ一般論として、契約解釈は所管部門が行う旨回答。終了。

怜子は、佐伯に聞いた。

「法務に来ていましたか」

佐伯は検索する。

「来ていません。この対応記録上も、法務照会はありません」

怜子は、手のひらを握った。

契約解釈は所管部門が行う。

所管部門とは、事業部だった。

法務ではない。個人情報管理でもない。CISOでもない。

契約解釈を、契約上の制限を受ける側が行った。

山崎が言った。

『再発防止事項に、通報内容が契約・個人情報・セキュリティに関わる場合、事業部単独で終了判断できないことを入れましょう』

怜子はうなずいた。

「必ず入れます」

午前九時三十六分。

通報番号二〇二四—一一七。

Project Orpheusに関する通報。

Project Orpheusの説明では、自治体データを匿名化して統計的に利用するとされています。しかし、検証段階で使用しているデータは、地域、施設、介護度、疾患分類等を組み合わせると個人が推測できる可能性があります。現場には「正式リリース前だから問題ない」と説明されています。住民や利用者に説明していない使い方ではないでしょうか。法務確認中と聞いていますが、法務の確認が終わる前に検証が進んでいます。

怜子は、言葉を失った。

これは、自分にも関係する。

一年前、彼女は法務判断保留とした。だが、通報者は、その後も検証が進んでいることを知らせていた。

その通報は、法務に届かなかった。

対応記録。

経営企画部へ確認。Project Orpheusは検討段階であり、実運用ではない。検証データは個人を特定しない範囲で利用している。法務確認が必要な段階では正式に相談予定。現時点で法令違反等は認められない。終了。

怜子は、静かに言った。

「私に相談予定、と言っていたのに」

佐伯が聞いた。

「来なかったんですね」

「来なかった」

怜子は画面を見つめた。

「でも、通報は来ていた」

法務確認中。正式に相談予定。その言葉で、通報は閉じられた。

法務という名前が、危険を先送りするために使われた。法務自身は知らないまま。

山崎が、低い声で言った。

『真柴さん、この構造は重要です。法務確認中という言葉が、実際の法務判断ではなく、通報終了の理由として使われている』

須堂も言った。

「外部調査委員会に強く共有すべきです。法務部長が知っていたかどうかだけでなく、“法務確認予定”という言葉で統制が機能しているように見せていた可能性があります」

怜子は、心の奥に冷たい怒りを感じた。

法務は、会社のアリバイにされていた。

そして、法務はそれに気づかなかった。

午前十時五分。

監査委員会報告資料を開いた。

内部通報の集計は、年に一度、監査委員会へ報告されていた。

しかし、報告資料にはこう書かれていた。

情報管理関連通報 三件いずれも所管部門確認の結果、重大な問題なし。

それだけだった。

Project Orpheusも、ミュトスも、ミナセも、名前はない。

片瀬社外取締役がオンラインで接続された。

彼女は報告資料を見て、表情を硬くした。

「私は、この報告を受けた記憶があります」

怜子は聞いた。

「内容について質問しましたか」

片瀬は少し考えた。

「“情報管理関連通報”とは何か、と聞いたはずです。事務局からは、個別案件は軽微で、所管部門確認済みと説明されました」

「資料には、個別の概要はありません」

「ええ。なかったと思います」

片瀬の声には、自責があった。

「私は、そこで深掘りしなかった」

山崎が静かに言った。

『監査委員会に上がる情報が集計だけだった場合、社外取締役が具体的リスクを把握するのは難しいです。ただし、集計の背後に何があるかを問う仕組みも必要です』

片瀬はうなずいた。

「内部通報の件数だけを見て、機能していると思っていました」

怜子は、その言葉を記録した。

監査委員会報告において、情報管理関連通報は件数および重大問題なしとの集計として報告され、個別概要は記載されていなかった。片瀬社外取締役より、件数報告のみでは具体的リスク把握が困難である旨の発言。

件数報告。

また、数字だ。

通報三件。重大問題なし。終了。

その数字の中に、三つの警告が埋まっていた。

午前十時三十六分。

リスク管理委員会議事録を確認した。

議事録には、内部通報の項目があった。

内部通報状況について、事務局より報告。情報管理関連の相談が複数あったが、いずれも所管部門確認済みであり、重大リスクなし。委員会として了承。

怜子は、その行を見つめた。

委員会として了承。

誰が本当に了承したのか。何を了承したのか。情報管理関連の相談が複数あったことか。所管部門確認済みであることか。重大リスクなしという結論か。それとも、議論せずに次の議題へ進むことか。

山崎が言った。

『“了承”という言葉も危険です』

佐伯が顔を上げた。

「どういう意味ですか」

『了承は、便利ですが曖昧です。確認したのか、同意したのか、報告を受けただけなのか、追加対応不要と判断したのか。議事録では、そこを分けたほうがよいです』

怜子はうなずいた。

また一つ、再発防止項目が増える。

議事録における“了承”の具体化。

報告を受けた。審議した。追加対応を指示した。対応不要と判断した。判断保留とした。未了事項として管理した。

これらは違う。

違う言葉を一つに丸めたとき、責任も丸まる。

午前十一時四分。

分類不能ファイルを開く時が来た。

黒い薄いファイル。

怜子は、表紙を開いた。

中には、正式な通報として処理されなかったメモが入っていた。

匿名メモ。手書きの付箋。内部通報窓口への下書き。コンプライアンス室内のメモ。「正式通報ではなく相談扱い」と書かれた紙。

一枚目。

Project Orpheusの検証会議で、「法務に上げると止まる」との発言あり。正式通報にするか迷ったが、部署が特定されるため相談のみ。

二枚目。

ミュトスが役員案件を低優先度にする件、運用課内で不安あり。ただし、DX推進室に逆らう形になるため、正式化せず。

三枚目。

ミナセ外部サービス利用について、法務照会したいと話した社員が、上長から「余計な宿題を作るな」と注意されたとの相談。本人は通報化を希望せず。

四枚目。

エウリュディケ買収時の残課題について、旧資料を探している社員がいた。詳細不明。成瀬元管理部長の名前が出た。

怜子は、四枚目で手を止めた。

成瀬の名前。

内部にも、彼の声の痕跡が残っていた。

だが、分類不能。

正式通報ではない。相談のみ。本人希望なし。詳細不明。処理終了。

声はあった。だが、制度に乗らなかった。

制度に乗らない声は、会社の耳に届かない。

山崎が言った。

『分類不能ファイルは、内部通報制度の外側にある不安の記録ですね』

怜子は答えた。

「正式通報ではないから、報告されていない」

『はい。ただ、正式通報にしなかった理由も重要です。部署特定への恐れ、上長からの注意、余計な宿題という文化。制度の入口で声が止まっています』

須堂が言った。

「通報者保護だけでなく、相談段階の保護も必要ですね」

片瀬が低い声で言った。

「“正式通報ではない”を理由に、リスクを見ない仕組みだった」

怜子は、分類不能ファイルの束を見た。

会社は、正式な声だけを聞こうとしていた。

だが、危険は正式な形式で届くとは限らない。むしろ最初は、ためらい、相談、雑談、付箋、下書きとして現れる。

その段階で拾えなければ、正式な通報になる前に消える。

午前十一時四十九分。

再発防止リストに、新しい章が追加された。

内部通報・相談制度の再設計

一、情報管理、個人情報、サイバーセキュリティ、AI利用、委託先管理に関する通報は、所管部門単独で終了判断しない。二、通報対象または関連部門への確認だけで「問題なし」としない。三、通報内容を改善要望・問い合わせとして処理する場合でも、重大リスク該当性を独立部門が確認する。四、相談段階の情報も、通報者保護に配慮しつつ、リスク兆候として集計・分析する。五、監査委員会には件数だけでなく、匿名化した概要、終了理由、未了事項を報告する。六、「了承」の意味を議事録で明確にする。七、通報者が部署特定を恐れて正式化しない場合の保護ルートを設ける。八、法務・CISO・個人情報管理責任者への直接エスカレーションルートを整備する。九、余計な宿題を作るな、という文化を是正対象とする。

佐伯が最後の項目を読んで言った。

「九番、強いです」

怜子は答えた。

「強く書きます」

山崎が言った。

『方針文として残すならよいと思います。規程本文では表現を調整しましょう』

「山崎さんなら、どう書きますか」

『“リスク指摘や追加確認依頼を理由とする不利益取扱い、評価上の不利益、業務妨害扱いを禁止する”でしょうか』

怜子は、すぐに書き加えた。

山崎行政書士事務所のPRは、ここでもさりげなく効いていた。

山崎は、怒りを規程文に変換する。感情を、運用できる条項に落とす。それは、危機の中でしか見えない専門性だった。

午後零時二十六分。

昼になった。

対策本部には、コンビニの弁当が届いた。誰も食欲はなかったが、山崎が言った。

『食べてください。判断力も記録品質も落ちます』

飯倉が、力なく笑った。

「山崎さん、ついに健康管理まで」

『行政手続より前に、人間の手続です』

その一言で、佐伯が少し笑った。

怜子も、無理に弁当を開いた。

冷たいご飯を食べながら、彼女は分類不能ファイルを見ていた。

声は、消されたのではない。

声は、正式ではないものとして横に置かれた。相談として処理された。改善要望として丸められた。件数として集計された。重大問題なしとして報告された。了承された。

消すとは、必ずしも破ることではない。分類を変えることも、声を消す方法なのだ。

午後一時十四分。

内部通報関連の補足開示を出すかどうかが議論された。

飯倉は、慎重だった。

「補足開示を連発しすぎると、会社が毎時間新しい不備を出しているように見えます」

怜子は答えた。

「実際、新しい不備が見つかっています」

「ただ、内部通報の詳細は通報者保護もあります。公表範囲は慎重に」

須堂が言った。

「個別通報の内容を出すのは危険です。まずは、外部調査委員会の調査範囲に内部通報制度の運用を追加したこと、通報者保護に配慮して調査すること、再発防止の検討対象にすることを公表するのが妥当でしょう」

山崎が補足した。

『行政やA市には、より詳細な範囲で共有が必要かもしれません。ただし、通報者が特定されないよう、概要化とマスキングを徹底してください』

片瀬が言った。

「監査委員会としても、内部通報運用の検証を公表対象に含めるべきです。件数報告だけで済ませた責任があります」

椎名は、黙って聞いていた。

そして言った。

「出そう」

飯倉が確認する。

「社長、また厳しい見出しになります」

「わかっている」

「内部から警告があったのに無視した、と書かれます」

椎名は、目を伏せた。

「その可能性を調査するのだから、そう書かれるだろう」

怜子は、椎名を見た。

彼は、以前より言葉を選ばなくなっていた。正確には、逃げるための言葉を選ばなくなっていた。

それが成長なのか、疲労なのかはわからない。だが、今はそれでよかった。

午後一時五十八分。

補足開示案が作られた。

見出し。

内部通報・相談制度の運用に関する追加調査について

本文。

当社は、本件に関連して、過去に社内で情報管理、社内AIシステム、委託先管理、データ利活用等に関する通報または相談が行われていた可能性を確認しました。現時点では、個別通報の内容、事実関係、対応の適否について調査中です。通報者保護の観点から、個別案件の詳細は公表しません。ただし、当社として、通報または相談が適切に評価・エスカレーションされていたか、関連部門への確認のみで終了していなかったか、監査委員会および取締役会に十分な情報が報告されていたかを、外部調査委員会の調査対象に追加します。

怜子は、最後に一文を加えた。

リスクを指摘する声を、業務の停滞や余計な宿題として扱う文化がなかったかについても、検証します。

飯倉が読み、うなずいた。

「この一文は強い。でも、必要です」

山崎が言った。

『“文化”という言葉を公表文で使うなら、再発防止にも具体策を示してください。文化だけでは抽象的です』

怜子は追記した。

具体的には、相談段階の情報の扱い、所管部門単独での終了判断の制限、監査委員会への匿名化概要報告、法務・CISO・個人情報管理責任者への直接エスカレーションルートを整備します。

山崎が言った。

『よいと思います』

午後二時三十六分。

補足開示は、社外取締役会合で承認された。

椎名は判断に加わらない部分があったが、コメントを求められた。

「通報制度は、会社が自分の耳を持つための制度です。その耳をふさいでいた可能性があるなら、そこも公表する必要があります」

朝倉が言った。

「その認識を議事録に残しましょう」

佐伯が入力した。

椎名社長より、内部通報制度は会社が自らのリスクを聴くための制度であり、その機能不全の可能性を公表・調査する必要がある旨の発言。

山崎が言った。

『“聴く”は耳偏のほうですね』

佐伯が少し笑った。

「そこまで」

『ここは大事です。聞こえるだけではなく、注意して聴くという意味なら』

怜子は、佐伯にうなずいた。

「耳偏で」

議事録に、聴くと入った。

小さな文字の違い。

だが、今の会社には、その違いが必要だった。

午後三時。

補足開示が出された。

すぐに見出しが流れた。

アステリオン、内部通報制度も調査へ AI・委託先管理に過去相談か“余計な宿題”文化を検証 情報流出問題で追加公表監査委への報告は件数中心 社外取締役の監督も焦点

飯倉は、画面を見て言った。

「“余計な宿題”が見出しになりました」

怜子は答えた。

「なると思っていました」

「出してよかったと思いますか」

怜子は、少し考えた。

「わかりません」

飯倉が驚いたように見た。

怜子は続けた。

「よかったかどうかは、まだわかりません。ただ、出さなければまた宿題を消すことになった」

飯倉は、静かにうなずいた。

午後三時四十二分。

内部通報窓口に、新しい通報が入った。

事件後、通報件数は急増していた。しかし、その一件は、件名からして異様だった。

私は裏切り者ではありません

怜子は、須堂、山崎、片瀬の確認を経て、個人情報を伏せた形で概要を確認した。

本文。

六十四日前のアラートについて、最初に内部通報した者です。その後も匿名で情報を送りました。攻撃者に情報を渡したのは私ではありません。ただ、会社の中で声を上げても消されると思い、内部通報と同時に、複数の証拠を個人で保全しました。その一部が、攻撃者の公開内容と似ていることは理解しています。私は疑われると思います。でも、私は会社を壊したかったのではありません。隠されるのを止めたかっただけです。

研修室が静まり返った。

内部通報者。預言者か。内部者か。漏えい者か。保全者か。裏切り者か。

すべてが重なっている。

遠野が言った。

「この人は、攻撃者に渡していないと言っている」

須堂が言った。

「主張です。事実確認が必要です」

山崎も言った。

『この方を守る必要があります。同時に、資料持ち出しや保全方法に問題がなかったかも確認する必要があります。通報者保護と情報管理調査を分けましょう』

怜子はうなずいた。

「通報者を犯人扱いしない。ただし、事実確認はする」

片瀬が画面越しに言った。

「この人の声を消してはいけません」

怜子は、通報文を見つめた。

私は裏切り者ではありません。

その一文は、痛かった。

会社の中で声を上げる人間は、しばしば裏切り者のように扱われる。面倒を起こす人。空気を読まない人。事業を止める人。余計な宿題を作る人。

だが、その人がいなければ、会社はもっと深く沈む。

午後四時十八分。

通報者との安全な連絡手段が設定された。

外部調査委員会を介し、本人の特定情報は限定される。会社側では、怜子、須堂、片瀬が必要最小限の範囲で関与する。山崎は、通報者情報には触れず、手続整理と資料分類のみ支援する。

山崎は言った。

『私は通報者情報にはアクセスしません。そのほうがよいです』

怜子は聞いた。

「なぜですか」

『私の役割に不要だからです。不要な個人情報を持たないことも、管理です』

怜子は、深くうなずいた。

山崎のPRは、ここにもあった。

個人情報を扱う専門家は、何でも見たがる人ではない。むしろ、見なくてよいものを見ない人だ。

それは、信頼できる外部専門家の条件だった。

午後五時三分。

通報者から、追加情報が届いた。

私が保全した資料は、以下です。・ミュトスの六十四日前アラート判定履歴・Project Orpheus関連のアクセスログ・内部通報二〇二五—〇三二の受付番号・ミナセ外部サービス利用に関するチャット・“騒ぎにするな”という発言を含む会議メモ これらは会社の端末から個人の外部メールへ送っていません。会社内の保全フォルダにコピーしました。ただ、そのフォルダは後日消えました。消される前に、画面を撮影しました。写真は私物スマートフォンにあります。これが規程違反であることは理解しています。

私物スマートフォン。

研修室の空気が重くなった。

情報持ち出しだ。しかし、証拠保全でもある。

山崎が言った。

『これは非常に慎重に扱うべきです。規程違反の可能性と、公益性・証拠保全の意図を分ける必要があります』

須堂が続けた。

「外部調査委員会に委ねましょう。会社が先に懲戒判断をするのは危険です。報復と見られます」

片瀬が強く言った。

「この人を守りましょう。少なくとも、調査が終わるまで不利益扱いをしてはいけない」

怜子は、通報者の文章を見ていた。

会社の保全フォルダにコピーした。そのフォルダは消えた。だから写真を撮った。

もしそれが事実なら、会社の中で証拠を守る正規の道が失われていた。

通報者は、正しい道がないから、危険な道を選んだ。

それは、通報者だけの問題ではない。

会社の問題だ。

午後五時四十六分。

再発防止リストに、さらに項目が追加された。

緊急証拠保全ルートの整備

一、従業員が重大リスクを認識した場合、私物端末や外部メールに頼らず、独立部門が管理する証拠保全窓口へ提出できる。二、提出資料は削除・改変されないよう、法務、CISO、監査委員会が共同で保全する。三、通報者が証拠保全を求めた場合、通報対象部門に通知せず、独立ルートで確認する。四、証拠提出者に対する不利益取扱いを禁止する。五、証拠保全と情報持ち出し規程の関係を明文化する。

山崎が言った。

『ここは行政書士の範囲を超える法的論点も多いです。須堂先生と制度設計してください。ただ、規程・手続書・受付様式の整備は支援できます』

怜子は言った。

「お願いします」

『はい。こういう制度は、紙にして初めて現場が使えます』

また、文書だ。

だが今度の文書は、声を消すためではなく、声を安全に届けるためのものになる。

午後六時二十八分。

攻撃者からメールが届いた。

件名。

The prophet

本文。

You found your prophet.Will you punish them?

預言者を見つけた。あなたたちは罰するのか。

怜子は、その文を見た。

攻撃者は、通報者の存在を知っている。なぜ知っているのか。

通報者が攻撃者と接触しているのか。内部に別の漏えい者がいるのか。攻撃者が社内メールを見ているのか。ミュトスや共有領域を通じて情報を得ているのか。

確認できない。

遠野は、すぐに技術調査を始めた。

須堂は、通報者保護の強化を指示した。片瀬は、監査委員会として独立保護を宣言した。山崎は、通報者情報を含まない手続マトリクスだけを更新した。

怜子は、攻撃者のメールを保存した。

そして、議事録に書いた。

攻撃者より、内部通報者の存在を示唆するメールを受信。通報者保護を最優先とし、攻撃者の示唆に基づく犯人視を行わない。技術調査および外部調査委員会に共有。

山崎が言った。

『よいです。“犯人視を行わない”は重要です』

怜子は、静かにうなずいた。

午後七時十五分。

通報者に対する会社からの最初の返信文が作られた。

怜子が草案を書き、須堂が法的観点を確認し、山崎が文面の構造だけを整えた。

ご連絡ありがとうございます。あなたが提供した情報については、外部調査委員会および監査委員会と連携し、通報者保護に配慮して取り扱います。現時点で、あなたを攻撃者または漏えい者と断定することはありません。一方で、資料の保全方法や私物端末での撮影については、事実確認が必要です。その確認は、あなたを処罰するためではなく、何が起きたかを正確に把握し、今後、従業員が安全に証拠を提出できる制度を整えるために行います。不利益取扱いを受けた、またはそのおそれがある場合は、下記の独立窓口へ連絡してください。

山崎が言った。

『最初の文に、“あなたの安全と保護を優先します”を入れたほうがよいです』

須堂もうなずいた。

怜子は入れた。

まず、あなたの安全と保護を優先します。

その一文が、通報者にどう届くかはわからない。

だが、会社が最初に言うべきことだった。

午後七時四十六分。

返信が送られた。

十分後、通報者から短い返事が来た。

初めて、そう言われました。

怜子は、その一文を見て動けなくなった。

初めて。

会社は、声を上げた人に何を言ってきたのか。

問題なし。仕様です。所管部門確認済み。正式通報ですか。部署が特定されます。改善要望として処理します。終了します。余計な宿題を作るな。

そして今、初めて、保護を優先すると言った。

遅すぎる。

だが、言った。

午後八時二十二分。

内部通報制度の再設計チームが立ち上がった。

法務。監査委員会。CISO。個人情報管理責任者。人事。外部弁護士。山崎行政書士事務所。外部調査委員会とは別の、再発防止実務チーム。

山崎は、最初に役割表を出した。

内部通報・証拠保全制度再設計 役割分担表

また表だ。

しかし、誰も笑わなかった。

列には、こうある。

制度設計項目。責任部署。法的確認者。手続文書作成者。通報者保護確認者。運用開始予定。研修対象。未了事項。

山崎が言った。

『この表で大事なのは、最後の列です』

佐伯が言った。

「未了事項」

『はい。制度設計も未了を消してはいけません』

怜子は、壁に貼られた言葉を見た。

未了を未了のままにしない。

それは、今や対策本部の合言葉になっていた。

午後九時三分。

A市から連絡が入った。

内部通報制度の補足開示を受け、住民から「社内で前から危険がわかっていたのか」という問い合わせが増えているという。

西森は言った。

『住民から見れば、内部で警告があったなら、なぜ止められなかったのかという話になります』

怜子は答えた。

「はい。説明が必要です」

『次回の住民向け更新に、内部通報制度の調査を入れますか』

「入れます。ただし、通報者保護のため個別内容は出せません」

山崎が言った。

『住民向けには、内部通報という制度説明から始めたほうがよいです。“会社の中で危険を知らせる制度があり、その運用に問題がなかったかを調べています”という形です』

西森がうなずいた。

『わかりやすいです』

山崎は続けた。

『住民にとって重要なのは、誰が通報したかではなく、危険を知らせる声がなぜ対応につながらなかったのかです。その点を説明しましょう』

怜子は、その言葉を住民向け更新案に入れた。

重要なのは、誰が声を上げたかではなく、上がった声がなぜ十分な対応につながらなかったのかです。

午後九時四十八分。

通報者から、証拠写真の一部が外部調査委員会へ提出された。

会社側には、概要だけが共有された。

写真には、六十四日前のアラート画面が写っていた。

ミュトスの初期判定は、中優先度

その下に、赤い付箋が貼られていた。

手書き。

役員案件。上げるな。

怜子は、その概要を見て、喉の奥が詰まった。

「上げるな」

どこまで、この会社は声を下げてきたのか。

山崎が言った。

『この付箋の筆跡、貼付者、撮影状況は調査中ですね』

須堂が答えた。

「はい。断定しません」

怜子はうなずいた。

だが、言葉自体の重さは変わらない。

上げるな。

それは、通報制度の対極にある言葉だった。

午後十時二十分。

怜子は、臨時取締役会で内部通報と証拠保全制度の暫定措置を提案した。

一、既存の内部通報案件のうち、情報管理、個人情報、AI、委託先管理、M&Aに関するものを外部調査委員会へ匿名化して提出。二、通報者への不利益取扱い禁止を全社通知。三、通報対象部門への単独照会による終了判断を一時停止。四、監査委員会直通の緊急リスク通報窓口を設置。五、証拠保全専用フォルダを監査委員会・法務・CISO共同管理で設置。六、通報・相談・改善要望の分類基準を見直し。七、過去の「終了」案件を再点検。

朝倉が言った。

「承認します」

片瀬が言った。

「特に三と四は、直ちに実施してください」

村尾が言った。

「監査委員会への報告形式も変えましょう。件数だけでは足りない」

三枝が言った。

「通報者を守ることは、会社を守ることです。その順番を間違えないように」

椎名は、静かにうなずいた。

「全社通知を、私の名前で出します」

怜子は、椎名を見た。

「文案を作ります」

椎名は首を横に振った。

「最初の一文は、自分で書く」

彼はノートPCを開き、打ち始めた。

リスクを知らせる声を、会社はこれまで十分に聴けていなかった可能性があります。

椎名は手を止めた。

「耳偏でいいか」

怜子は、少しだけ笑った。

「はい」

椎名は続けた。

通報や相談をした人を、裏切り者として扱ってはなりません。事実確認は必要です。しかし、声を上げたこと自体を責めることは、会社が自分の耳をふさぐことです。今後、通報者への不利益取扱いを禁止し、重大リスクを安全に届ける制度を整えます。

怜子は、その文を読んだ。

完璧ではない。遅い。それでも、これまでのアステリオンにはなかった言葉だった。

午後十一時五分。

全社通知が出された。

社内チャットは、しばらく沈黙した。

そして、一つずつ反応が出始めた。

これをもっと早く出してほしかった。
通報した人が守られるなら、自分も話したいことがあります。
“上げるな”と言われた経験があります。
通報ではないですが、相談したいことがあります。
山崎事務所の整理表をベースに、部署でも未了事項を出します。
余計な宿題ではなく、必要な宿題として扱ってほしい。

怜子は、その反応を見た。

声が戻り始めている。

それは会社にとって、救いであると同時に恐怖でもある。

声が戻れば、また不都合な事実が出る。隠れていた未了が出る。誰かの判断が問われる。部署の責任が明らかになる。役員の記憶が試される。

だが、それでも声を聴かなければ、会社はまた神話を作る。

午後十一時四十七分。

攻撃者からメールが届いた。

件名。

Voices

本文。

More voices will come.Can you survive them?

もっと声が来る。あなたたちは、それに耐えられるか。

怜子は、その文を読んだ。

耐えられるか。

わからない。

本当に、わからない。

声を聴けば、会社は傷つく。声を無視すれば、会社は腐る。

どちらを選ぶかではない。傷つきながら聴くしかない。

怜子は、メールを保存した。

そして議事録に書いた。

攻撃者から、内部の声に関する示唆メールを受信。今後の対応は、通報者保護、証拠保全、未了事項管理に基づき進める。攻撃者の示唆を理由に通報者を犯人視しない。

山崎が言った。

『よいです。繰り返しになりますが、繰り返す価値があります』

怜子はうなずいた。

午前零時十六分。

文書保管室の壁に、新しい言葉が追加された。

声を上げた人を、裏切り者にしない。

佐伯が、紙を貼りながら言った。

「壁が増えてきましたね」

怜子は答えた。

「会社の新しい規程集みたいね」

山崎が言った。

『最終的には、きちんと規程にしましょう。壁の言葉は忘れられやすいです』

飯倉が笑った。

「山崎さんらしい」

『壁に貼っただけでは、運用されません』

その通りだった。

言葉は、制度にしなければ風化する。制度は、運用しなければ形骸化する。運用は、記録しなければ忘れられる。

そして記録は、誰かが読み続けなければ、また記録庫の亡霊になる。

午前零時四十五分。

怜子は、分類不能ファイルを閉じた。

もう、分類不能ではない。

それは、声のファイルだった。

正式通報にならなかった声。相談で止まった声。改善要望にされた声。部署特定を恐れた声。余計な宿題と呼ばれた声。

怜子は、表紙に新しいラベルを貼った。

未了の声

佐伯が見ていた。

「いいんですか、名前を変えて」

「原本は変えない。これは保全袋の管理ラベル」

山崎が言った。

『管理ラベルとしてならよいと思います。ただし、旧ラベルも記録してください』

「もちろんです」

怜子は記録した。

旧ラベル:分類不能。管理上の新ラベル:未了の声。

午前一時二分。

椎名が文書保管室に来た。

壁の言葉を見て、立ち止まった。

名前を数字に戻さない。未了を未了のままにしない。宿題化を恐れない。声を上げた人を、裏切り者にしない。

椎名は、最後の一文をしばらく見ていた。

「この会社は、声を裏切り者にしてきたのかもしれないな」

怜子は答えた。

「はい」

椎名は、反論しなかった。

「私は、それを知らなかったと言えるだろうか」

怜子は、少し考えた。

「知らなかったことも、調査対象です」

椎名は、苦い笑みを浮かべた。

「厳しいな」

「はい」

「でも、必要だ」

「はい」

椎名は、壁の言葉に向かって小さく頭を下げた。

誰に対しての礼なのか、怜子にはわからなかった。

成瀬か。柏木か。匿名通報者か。日下部澄江か。A市の住民か。会社の中で声を飲み込んだ無数の人々か。

あるいは、自分が聴かなかった声そのものに対してか。

午前一時三十六分。

山崎が、最後に言った。

『次は、声を制度に戻す章ですね』

怜子は、電話に向かって言った。

「また章ですか」

『比喩です』

「次は何を見るべきでしょう」

山崎は少し考えた。

『監査です。声が上がり、記録が残り、制度があっても、それを定期的に見に行く仕組みがなければ、また眠ります』

「内部監査」

『はい。内部監査、委託先監査、AI監査、取締役会へのフォローアップ監査。御社は、監査権を契約に書いていました。でも、使っていませんでした』

怜子は、第一章の契約書を思い出した。

監査権。再委託制限。報告義務。安全管理措置。

書いてあった。

使っていなかった。

「次は、監査ですね」

『はい。契約に書かれた権利を、実際に行使する章です』

怜子は、深く息を吸った。

声は戻り始めた。次は、その声を確かめに行かなければならない。

委託先へ。再委託先へ。AIの中へ。取締役会の宿題へ。そして、会社自身の奥へ。

午前二時。

文書保管室の灯りは、まだ消えなかった。

未了の声は、ようやく分類された。

だが、分類しただけでは終わらない。

声を聴いた会社は、次に歩かなければならない。

契約という結界の外へ。台帳という地図を持って。山崎が作った表を片手に。遠野のログを背に。佐伯の議事録を携え。怜子は、まだ眠らない会社の中で、次の扉を見ていた。

扉のラベルには、こう書かれていた。

監査計画 未実施

声は言っていた。

見に来い、と。

 
 
 

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