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第九章 渡す、という重さ

原稿用紙を持ち歩くと、紙が空気を吸って少しずつ変わっていく。鞄の中の湿度、手の汗、駅前の排気、茶町の焙りの匂い――そういうものが薄く染みて、白が白のままではいられなくなる。

幹夫(みきお)は朝から、机の上の原稿用紙を何度も見ていた。見て、閉じて、また見て、閉じる。開けば、折り目が見える。父の折り目が一つ。自分の折り目がいくつか。先生の鉛筆の小さな文字。折り目は、読む人の手の癖みたいで、癖が残るということは、触れられたということだ。

“今度、持ってく”と送ったのは昨夜だった。短い文で済ませたはずなのに、朝になると、その短さの分だけ重く感じる。持っていく、という言葉には、運ぶだけじゃなくて、渡すが混ざる。渡すには、相手の手が必要だ。相手の手がそこにある、と想像した瞬間から、こちらの手は逃げられなくなる。

台所では祖母が湯を沸かしていた。やかんが鳴く前の気配が、薄い湯気になる。湯気は形を作らないのに、家の中の空気を「いつも」に戻す。祖母は幹夫を見ずに言った。

「今日は暑いで、紙、くちゃくちゃにすんなよ」

紙、と言った。祖母は“作文”とも“原稿用紙”とも言わない。紙、と言う。紙、という呼び方は便利で、便利だから生活の中に入る。生活の中に入ると、特別なものも特別じゃなくなる。特別じゃなくなると、少しだけ持てる。

幹夫は「うん」と返して、原稿用紙を透明のクリアファイルに挟んだ。ファイルの硬さが、紙の柔らかさを守る。守られると、紙は急に“渡せる形”になる。渡せる形になることが、怖い。

居間のテレビの音が小さくなった。父が音量を一段下げたのだと分かる。父はいつも、誰かが家を出る前に音を下げる。音を下げることが、言葉の代わりの合図になる。

父は新聞を折り、箸を置いたまま言った。

「……出るのか」

行き先を聞かない。聞かないのは、分かっているからか、分からないままでいたいからか。幹夫はリュックの肩紐を握り直してから言った。

「……静岡」

“母さん”とは言わなかった。言えば、空気が硬くなる気がしたからだ。硬くなるのが怖いのではない。硬くなったあとに、次の言葉が要るのが怖い。

父はそれ以上聞かなかった。聞かない代わりに、テーブルの端に置いてあった湯飲みを、少しだけ自分のほうへ寄せた。寄せる動作は短い。短い動作は、余計なことを言わない。

幹夫は玄関で靴を履きながら、背中越しに聞いた。

「……戻ったら、茶、飲め」

父の声だった。祖母の「茶ぁ飲みな」と違って、父の「茶」は少し硬い。硬いのに、その硬さが今日は頼もしく聞こえた。頼もしいのは、段取りがあるからだ。戻ったら茶。終わりの形があると、人は出ていける。

しずてつの電車に乗ると、車内の匂いがすぐに「街」になった。濡れた傘のビニール、冷房の風、誰かの柔軟剤、しずてつストアの袋から漏れる惣菜の匂い。生活の匂いが重なると、自分の匂いが分からなくなる。分からなくなると、少しだけ楽になる。

新静岡で降り、セノバの裏を抜ける。歩道の影が、午後の角度で伸び始めている。午後五時の影ほど長くないのに、伸びる準備をしている影は落ち着かない。落ち着かないのに、歩く速度だけは勝手に一定になる。

茶町のほうへは行かなかった。茶町へ行くと、匂いが増える。匂いが増えると、原稿用紙の白がさらに吸ってしまう。今日は、これ以上吸わせたくなかった。吸わせたくない、という守り方が自分にもあることが、少し驚きだった。

待ち合わせは、堀の近くのベンチ。駿府城の堀の水面は、空の白を落としていて、落ちた白がゆっくり揺れる。揺れる白は眩しすぎない。眩しすぎない白は、見ていられる。

幹夫はベンチの端に座り、クリアファイルの角を膝の上で確かめた。角は硬い。硬い角は、逃げ道を減らす。逃げ道が減ると、待っている時間がはっきりする。

母は、時間ぴったりでは来なかった。五分ほど遅れて現れた。遅れたことを謝るように、歩幅が少し小さい。小さい歩幅は、急ぎたいのに急げない人の歩き方だ。

母は幹夫を見つけると、手提げ袋を両手で抱え直した。いつもの癖。落としたくないものの抱え方。幹夫はその癖を見た瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなった。狭くなるのに、逃げなかった。逃げないでいられたのは、膝の上の硬いファイルが支えていたからかもしれない。

「……幹夫」

母が名前を呼ぶ。堀の水面の揺れの上を、声が薄く渡ってくる。幹夫は一拍遅れて、短く返した。

「うん」

その返事は沈まなかった。沈まなかったことが、今日の最初の“進んだ”だった。

母は隣に座らず、少しだけ距離を残してベンチの端に腰を下ろした。距離は、まだ必要だった。必要な距離を置ける人の優しさに、幹夫は少しだけ息がしやすくなった。

「……持ってきた?」

母が言った。“それ”と言わない。作文、とも言わない。言わないのに、指先はもうファイルに触れている。触れているから、答えはひとつしかない。

幹夫はクリアファイルを膝から持ち上げ、母のほうへ少しだけ差し出した。差し出す動作は、渡す動作の手前で止まる。渡す、と決める直前の止まり。止まったまま、幹夫は母の手を見た。母の手は、すぐには出てこなかった。出てこないのは拒否じゃない。受け取る準備をしているだけだ。

母が両手を出し、ファイルを受け取った。ファイルの端が、母の指に当たる。硬い。硬いものを受け取ると、人は少しだけ姿勢を変える。姿勢が変わると、空気も変わる。

母はファイルから原稿用紙をゆっくり引き出した。紙が擦れる音が小さく鳴る。さらさら、という音。その音は教室の音と似ていて、幹夫の喉の奥が一瞬だけ乾いた。

母は読み始めた。声に出さない。でも口元が、言葉の形をわずかに追う。追う口元は、読むというより、触れているみたいだった。幹夫は母の目の動きだけを見た。上から下へ、左から右へ。升目の線に沿って、視線が静かに歩く。

途中、母の指が紙の右上の折り目に触れた。折り目の場所で指が止まる。止まった指は、折り目をなぞらない。なぞらないのに、そこに“誰かの痕”があると分かってしまう。

母は顔を上げずに、ぽつりと言った。

「……折り目、増えたね」

問いじゃない。責めでもない。ただ、気づいたことの報告。

幹夫は一拍置いてから答えた。

「……父ちゃん、見た」

母の指が、折り目のところでほんの少しだけ力を抜いた。抜いた力は、驚きか、安堵か、どちらか分からない。分からないままでも、緩んだことだけは確かだった。

母はまた読み進めた。火薬の匂い。煙がほどける方向。帰り道の混み方。読み終えたところで、母は紙をすぐに戻さなかった。戻さずに、膝の上に置いたまま、堀の水面を見た。見ているのに見えていない目をしている。思い出す目。確認する目。

「……これ、さ」

母が言って、言葉を切った。切ったところに風が入る。堀の水面が少し揺れる。揺れると、言葉は続きやすくなるときがある。

母は続けた。

「匂いって、ずるいね。 見えないのに、いきなり連れていかれる」

連れていかれる、という言い方が、幹夫の胸の奥に落ちた。落ちたのに痛くない。痛くない落ち方は、受け取れる落ち方だ。

幹夫は「うん」と言いかけて、言わなかった。代わりに、母の膝の上の紙を見た。紙は白いのに、折り目と鉛筆の灰色と、誰かの指が触れた順番だけが見える。順番は、言葉より正直だ。

母が小さく笑った。笑い声は大きくない。でも沈まない。沈まない笑い声は、清水の風の中で支えていた声に似ている。

「……幹夫、こういうの、書けたんだね」

“書けた”という動詞が、母の口から出ると、紙が一段だけ重くなる。書けた、は過去の完了のはずなのに、これからも続く気配を持つ。続く気配があると、いまの一行が終わりにならない。

幹夫はそこで、ようやく短く言えた。

「……書けた」

同じ言葉を返すだけなのに、胸の奥が少しだけほどけた。ほどけたのは、答えが出たからじゃない。答えを持たなくても、言葉が往復したからだ。

母は原稿用紙をファイルに戻し、今度は幹夫に返そうとして手を止めた。止めたまま、少しだけ迷う顔をした。

「……これ、預かってもいい?」

預かる、という言葉は、返す前提の言葉だ。奪うではない。もらうでもない。預かるは、間に“時間”を置く言葉だ。時間を置くと、言葉は落ち着くことがある。

幹夫はすぐ頷けなかった。頷けば、紙が母の家の空気を吸う。吸った紙は、戻ってきたとき、別の紙になっているかもしれない。別の紙になるのが怖い。でも、別の紙になることが必要なときもある。

幹夫は小さく頷いた。

「……うん」

母はそれだけで安心したみたいに、ファイルを手提げ袋に入れた。袋の中で紙が一度だけ擦れて、音が小さく鳴った。その鳴り方は、約束みたいに残った。

帰り道、二人は堀沿いを少しだけ歩いた。「少しだけ」で済む距離が、今日はちょうどよかった。長い距離は、言葉を要求する。要求される言葉の中には、まだ答えがない。

堀の向こうに、しずてつの線路の方角がある。見えないのに、ベルの鳴る気配だけが分かる。分かるというのは、そこに暮らしてきた身体の癖だ。

母がぽつりと言った。

「茶町、通ると、息が落ち着くよね」

幹夫は「うん」と言った。今度の「うん」は沈まなかった。沈まないうんが、会話の続きになることを、幹夫は少しだけ知り始めていた。

別れ際、母は立ち止まり、手提げ袋の持ち手を握り直した。指の関節が白くなる。白くなるのは、落としたくないからだ。幹夫は一歩だけ近づき、持ち手に添える代わりに、袋の横にある空気をそっと押さえるみたいに手を止めた。触れない距離の支え方。触れない支え方もある、と最近気づいた。

母は小さく言った。

「……ありがとう。預かるね」

幹夫は頷いて、「うん」と返した。返した声は小さかったけれど、風にさらわれなかった。

家に戻ると、祖母のやかんが鳴る直前の気配がした。湯気が立つ前の揺れ。その“前”の静けさが、今日も踏切の一拍に似ているのに、怖くない。続きが分かるからだ。

父は居間でテレビをつけたまま、音量を小さくしていた。幹夫が玄関で靴を脱ぐ音を聞いて、振り向かずに言った。

「……渡したか」

渡した、と言う。“会ったか”でも“話したか”でもない。父の中では、紙がいちばん確かな段取りだったのかもしれない。

幹夫は一拍置いて答えた。

「……渡した。預けた」

父の手がリモコンの上で止まった。止まって、音量をもう一段だけ下げた。言葉じゃない返事。父の返事。

「……そうか」

それだけ。でもその「そうか」は、今日一日分の重さを、机の上にそっと置くみたいな言い方だった。

祖母が台所から言った。

「茶ぁ飲め。冷めんうちに」

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、堀の水面の揺れみたいに、静かに広がっていった。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど“渡す”という動作が、紙の重さだけじゃなく、自分の時間まで相手に預けてしまう動作だということを、その日の湯気の中で、ようやく指先が理解していた。

 
 
 

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