第二十一章 緑色の嘘
- 山崎行政書士事務所
- 5月6日
- 読了時間: 17分
高瀬瑛子が社長に就任して七日目の朝、アステリオン本社には久しぶりに晴れ間が差していた。
雨は上がり、受付前の報道陣はさらに減っていた。社員食堂では、誰かが「少し落ち着いてきた」と話していた。エレベーターの中では、新製品の提案資料や採用面接の予定が話題に戻り始めていた。
会社は、平時に近づいていた。
だからこそ、怜子は気を緩められなかった。
午前七時三十分。
高瀬は、就任初日から続けている通り、社長室ではなく二十八階の文書保管室に来た。
机の上には、山崎行政書士事務所が整えた平時移行・未了風化防止点検表が開かれている。その横に、佐伯が作成した新しい資料が置かれていた。
就任後一週間レビュー
高瀬は椅子に座る前に、壁を見た。
傷跡を、隠さず、飾らず、見に来る。
それから、資料の一ページ目を開いた。
画面には、色分けされたダッシュボードが表示された。
緑。黄色。赤。
緑が多い。
一見すると、良い兆候だった。
住民向け定期更新、継続中。A市監査未了事項、解消率五十三パーセント。公開済み対象者の主担当・副担当設定、完了。AI高リスク機能、停止継続。外部サービス棚卸し、一次評価完了。支援窓口、稼働中。重要未了事項台帳、登録済み。取締役会未了報告、実施済み。
高瀬は、しばらくダッシュボードを見ていた。
そして言った。
「緑が多すぎます」
会議室が静かになった。
宮内暫定CFOが、少し驚いたように顔を上げる。
「進捗としては、良いことでは」
高瀬は首を横に振った。
「良いことかもしれません。でも、一週間で緑が多すぎる。何をもって緑にしたのかを確認します」
山崎がオンラインで入っていた。
彼は、静かに言った。
「まず、緑の定義を見ましょう」
佐伯がダッシュボードの設定を開く。
緑:予定通り進行または完了。黄色:遅延懸念あり。赤:期限超過または重大懸念あり。
高瀬は聞いた。
「完了の根拠は?」
佐伯の手が止まった。
「項目によって、添付されています」
「添付されていないものは?」
佐伯がフィルターをかけた。
緑のうち、完了根拠未添付。
七件。
文書保管室の空気が変わった。
壁には、すでに貼られている。
完了根拠なき完了禁止。
高瀬は、壁を見なかった。ただ、画面を見た。
「一件ずつ確認しましょう」
最初の項目は、A市関連だった。
地域包括支援センター向けFAQ作成:完了
高瀬は聞いた。
「根拠は?」
瀬尾が資料を開いた。
「FAQ案は作成済みです。A市へ送付しました」
「A市確認は?」
「未了です」
「地域包括支援センターでの試読は?」
「まだです」
「では、完了ではありません」
瀬尾は顔を伏せた。
「はい。作成完了で、確認未了です」
山崎が言った。
「ステータスを分けましょう。作成完了、A市確認中、現場試読未了。総合ステータスは黄色です」
佐伯が修正する。
緑から黄色へ。
一つ目の緑が消えた。
高瀬は責めなかった。
ただ言った。
「緑を減らすことを恐れないでください。緑の嘘のほうが危険です」
怜子は、その言葉をメモした。
緑の嘘。
新しい壁の言葉になる予感がした。
二件目。
外部サービス棚卸し一次評価:完了
遠野が説明した。
「一次評価は完了しています。高リスク候補二十三件を抽出しました」
高瀬が聞く。
「二十三件以外は安全確認済みですか」
遠野は少し黙った。
「いいえ。一次評価で高リスクではないと分類しただけです」
「分類基準は?」
「個人情報、顧客秘密、認証情報、ログの有無を見ています」
山崎が画面を見ながら言った。
「“不明”はどう扱いましたか」
遠野の部下が答えた。
「未回答の部署については、いったん中リスクにしています」
「中リスクの件数は?」
「六十一件です」
高瀬は言った。
「では、“一次評価完了”はよいとしても、“棚卸し完了”ではありません。ダッシュボードの表示が誤解を生みます」
佐伯が修正した。
外部サービス棚卸し:一次分類完了。中リスク六十一件、追加確認中。
ステータスは緑から黄色へ。
遠野は、小さく息を吐いた。
「緑にしたかったんだと思います」
高瀬は遠野を見た。
「誰が?」
遠野は、自分の資料を見た。
「私たちが、です。進んでいると示したかった」
山崎が言った。
「進んでいることと、終わっていることは違います。進んでいるなら、進行中の緑ではなく、進行中の黄色でもよいです」
高瀬は頷いた。
「黄色を悪い色にしないでください」
怜子は、それも書いた。
黄色を悪い色にしない。
三件目。
公開済み対象者副担当設定:完了
瀬尾が説明した。
「主担当・副担当は全員設定済みです。教育も完了しています」
高瀬は聞いた。
「本人または家族への説明は?」
「主担当が変わる場合には説明します。副担当設定だけなら内部管理です」
「副担当が連絡する可能性があるなら、本人向けにどう説明するのですか」
瀬尾は、資料を開いた。
「担当者変更時の本人向け申し送り説明文を作成中です」
「完成していない?」
「はい。本日中です」
高瀬は、静かに言った。
「では、体制設定は完了。ただし、本人向け説明手順は未了。総合ステータスは黄色です」
瀬尾は頷いた。
「修正します」
その項目も黄色になった。
怜子は、日下部澄江の娘の言葉を思い出した。
母に同じ説明をさせないでください。
副担当を内部で決めるだけでは足りない。
本人にとって、誰が何を知っていて、次に誰から連絡が来るのか。そこまで見えて初めて、支援はつながる。
四件目。
重要未了事項台帳:運用開始済み
これは緑のままに見えた。
法務部、情報システム、個人情報管理、経営企画、広報、財務。各部門で登録が始まっている。
しかし、山崎が一つの列を指した。
「“次回確認日”が空欄のものがあります」
佐伯がフィルターをかける。
空欄、十二件。
怜子は思わず目を閉じた。
また空欄。
高瀬は、すぐに言った。
「運用開始は緑。ただし、空欄十二件は赤です」
宮内が聞いた。
「一つの項目に緑と赤が混在するのですか」
山崎が答えた。
「はい。全体を一色にすると、赤が消えます。親項目と子項目を分けましょう」
佐伯がダッシュボードを修正する。
重要未了事項台帳。親項目、運用開始済み。子項目、次回確認日空欄十二件。赤。
高瀬は言った。
「大きな緑の中に小さな赤を隠さないでください」
怜子は、壁に貼る紙を一枚取った。
大きな緑で、小さな赤を隠さない。
佐伯が見て、小さく頷いた。
「貼りますね」
壁にまた一枚増えた。
午前八時四十分。
就任後一週間レビューのダッシュボードは、最初の印象から大きく変わった。
緑は減った。黄色が増えた。赤も増えた。
宮内が言った。
「外へ出すには、見栄えが悪くなりましたね」
高瀬は答えた。
「見栄えではなく、見えることが目的です」
山崎が補足した。
「公表版では、色の意味を説明しましょう。黄色は失敗ではなく、確認中。赤は隠すものではなく、優先対応。そうしないと、社内も社外も緑を求めるようになります」
怜子は、ダッシュボードの凡例を書き換えた。
緑:根拠資料を確認した完了または予定通り進行。黄色:進行中、確認中、または追加確認が必要。赤:期限超過、担当者未設定、根拠不足、重大懸念。
その下に入れた。
黄色・赤の存在自体を問題視しない。放置を問題視する。
高瀬は、それを見て言った。
「これでいきましょう」
午前九時十五分。
平時移行の最初の株主向け進捗資料にも、同じダッシュボードを使うかが議論になった。
宮内は慎重だった。
「黄色と赤が多いダッシュボードをそのまま出すと、投資家に不安を与えます」
村尾社外取締役は、オンラインで言った。
「しかし、全部緑に見せれば、後で不信を買います」
山崎が言った。
「投資家向けには、色だけでなく、意味と推移を示すのがよいです。初回は黄色・赤が多くて当然。次回以降、放置が減っているか、期限が入っているか、根拠資料が増えているかを見る設計にしましょう」
宮内は少し考えた。
「完了率ではなく、管理率を見る?」
山崎が頷いた。
「はい。未了管理率、期限設定率、根拠資料添付率、期限超過対応率。完了率だけをKPIにすると、緑の嘘が増えます」
怜子は、その言葉をすぐに書いた。
完了率だけをKPIにしない。
高瀬が言った。
「最初の株主向け進捗資料に入れます」
宮内も頷いた。
「財務としても、そのほうが説明しやすいです。完了率だけだと、現場が無理に完了にします」
数字になった倫理。
それは、またここに戻ってきた。
午前十時。
住民向け定期更新。
この日の更新には、就任後一週間レビューの内容は入れない。住民にとって必要な情報に絞る。
公開済み対象者への個別支援継続。担当者固定・副担当整備。地域包括支援センター向けFAQ作成中。次回説明会の予定。支援窓口の利用方法。次回更新時刻。
飯倉が文案を読み上げた。
地域包括支援センター向けFAQは作成済みで、A市および現場確認中です。
高瀬は止めた。
「“作成済み”を最初に置くと、終わったように見えます」
飯倉は、すぐに修正した。
地域包括支援センター向けFAQは、現在、A市および現場確認中です。確認後、必要な修正を行ってから運用します。
西森からも承認が来た。
『この表現でよいです』
午前十時ちょうど、更新は出た。
その十分後、A市の保健師から連絡が来た。
『FAQ案に、古い相談窓口番号が一箇所残っています』
文書保管室の空気が止まった。
飯倉が顔色を変える。
「確認前でよかった」
山崎が言った。
「だから完了ではなかったのです」
その一言は、責めるものではなかった。
ただ、事実だった。
FAQは黄色で正しかった。
もし緑のまま外へ出していたら、古い番号が住民へ届いていた。
怜子は、就任後一週間レビューの欄に追記した。
黄色判断により、古い窓口番号の外部展開を防止。
黄色は悪い色ではない。
黄色は、確認の余地を残す色だ。
午前十一時二十分。
営業部から、また相談が来た。
外部サービス簡易申請の第一号が、差し戻されたという。
理由は、資料に病院名が含まれていたため。
営業担当は不満だった。
「病院名は公表済み導入事例です。なぜ外部デザインツールに入れてはいけないのですか」
怜子が契約を確認すると、その病院は導入事例として社名掲載を許可しているが、第三者ツールへの資料アップロードまでは明示されていなかった。
営業担当は言った。
「それは細かすぎませんか」
山崎が、静かに聞いた。
「その病院に、外部ツールへ資料を入れると説明できますか」
営業担当は黙った。
山崎は続けた。
「説明できるなら、許諾範囲を確認して進める道があります。説明しにくいなら、社内環境で作る道があります。どちらかです」
営業担当は、少し考えて言った。
「社内環境で作ります。広報デザインチームに相談します」
飯倉が引き受けた。
怜子は、申請記録に入力した。
公表済み情報であっても、第三者ツール投入が許諾範囲に含まれるか確認。説明可能性を判断基準に追加。
高瀬は、その記録を見て言った。
「“相手に説明できるか”は、良い基準ですね」
山崎が言った。
「はい。法令や契約だけでなく、説明可能性は実務で効きます」
また一つ、制度が現場で補強された。
午後零時四十分。
高瀬は昼食を取りながら、山崎に聞いた。
「山崎さん。平時の敵は何だと思いますか」
山崎は少し考えた。
「善意の省略です」
怜子は、その言葉を聞いて顔を上げた。
山崎は続けた。
「悪意ある隠蔽もあります。しかし平時では、多くが善意の省略です。時間がないから省く。重要ではなさそうだから省く。前も大丈夫だったから省く。相手を信頼しているから省く。現場を助けたいから省く。そうして、省略が積み重なります」
高瀬は、ゆっくり頷いた。
「今回の緑も、善意の省略ですね」
「はい。早く進んでいると示したい。現場を安心させたい。株主に見せたい。A市に努力を伝えたい。どれも理解できます。でも、根拠のない緑は省略です」
怜子は、壁の空きスペースを探した。
もうほとんどない。
それでも、紙を一枚貼った。
平時の敵は、善意の省略。
高瀬は、それを見て言った。
「これは、今日の中心です」
午後二時。
取締役会で、就任後一週間レビューが報告された。
最初のダッシュボードと修正版の両方が提示された。
最初の緑多数の画面。次に、根拠確認後の黄色・赤が増えた画面。
朝倉が言った。
「こちらのほうが信用できます」
村尾も頷いた。
「投資家には、完了率ではなく管理率を説明しましょう」
三枝が言った。
「住民対応でも同じです。確認中であることを隠さない」
片瀬が言った。
「医療現場でも、未確認を確認済みにすることが一番危険です」
高瀬は、取締役会に向かって言った。
「今後、取締役会へ提出する再発防止ダッシュボードでは、緑の数を成果としません。根拠資料、期限設定、赤・黄色への対応速度を見ます」
山崎が補足した。
「色の監査も必要です。緑判定のサンプル監査を入れましょう」
怜子は、少し驚いた。
「緑の監査」
山崎は頷いた。
「赤は目立つので見られます。緑は見逃されます。だから緑も監査します」
高瀬は即答した。
「入れてください」
佐伯が、監査項目に追加した。
緑判定サンプル監査。完了根拠、次回確認要否、相手方確認有無を点検。
壁にまた貼る言葉ができた。
緑も監査する。
午後三時三十分。
最初の緑監査の対象は、支援費用処理だった。
個別支援申請三件:処理完了
宮内が説明した。
「三件とも支払い処理済みです」
高瀬が聞いた。
「支払い後の継続対応は?」
宮内が資料を確認する。
「一件は、交通費支援。継続対応不要です」
瀬尾が首を横に振った。
「その方は、家族同席説明のための交通費です。説明会後に追加質問が出る可能性があります。継続対応不要ではありません」
宮内は、すぐに表を見直した。
「支払い処理完了で、支援対応完了ではない」
山崎が言った。
「その通りです。費用処理と支援完了を分けましょう」
宮内は、ステータスを修正した。
支払い処理、完了。支援対応、継続中。
緑の中に、黄色があった。
高瀬は言った。
「お金で終わりにしない、ですね」
宮内は、壁を見て頷いた。
「はい」
午後五時。
住民向け一枚版の紙資料について、また小さな問題が見つかった。
一部の配布先で、古い版が置かれたままになっていた。
発行日が小さく、現場で新旧が見分けづらかったという。
飯倉は、悔しそうだった。
「発行日は入れていました」
山崎が確認する。
「入っています。ただ、右下で小さいです。高齢者向け資料なら、版数と発行日を上部に大きく入れたほうがよいです」
保健師からも同じ指摘が来た。
『現場では、紙が混ざります。新しいものだけ置く運用も必要です』
高瀬は言った。
「古い紙を回収する手順を入れてください」
飯倉が頷く。
「紙版資料の配布・差替え手順を作ります」
山崎が言った。
「版管理表に、回収確認欄を追加しましょう」
また、紙の運用。
デジタルの危機が、紙の差替えで試されている。
怜子は思った。
実装は、本当に泥仕事だ。
午後六時三十分。
運用改善窓口には、百件を超える意見が届いていた。
その中に、一つ目立つものがあった。
未了事項台帳に登録すると、上司から「それは未了ではなく通常タスクだ」と言われました。どこから未了事項なのか、基準がほしいです。
山崎が言った。
「これは重要です。未了と通常タスクの境界が曖昧だと、部署ごとに解釈が分かれます」
怜子は聞いた。
「基準を作れますか」
「作れます。ただし、完全な線引きはできません。判断例を作りましょう」
未了事項登録基準案。
登録対象。
外部への説明が必要なもの。取締役会・監査委員会報告に関わるもの。個人情報・要配慮情報に関わるもの。委託先・外部サービス・AI利用に関わるリスク。期限を過ぎた確認事項。後日整理、暫定、保留、概ね完了とされたもの。通報・相談から生じた確認事項。監査で指摘されたもの。担当者変更時に引き継ぐべきもの。
通常タスク。
日常的な作業で、期限・担当・リスクが通常管理されているもの。ただし、期限超過、判断保留、外部影響、個人情報影響が出た場合は未了事項へ昇格。
高瀬は言った。
「“昇格”という言葉がいいですね。未了事項に登録することは、罰ではなく、管理レベルを上げることだと伝わります」
山崎が頷いた。
「その説明を入れましょう」
佐伯が入力した。
未了事項登録は、失敗認定ではなく、管理レベルを上げる手続である。
壁に貼る紙がまた増えた。
午後八時。
高瀬は、その日の最後の確認会議で言った。
「今日は、緑の嘘を見つけました」
文書保管室にいた全員が静かに聞いていた。
「悪意ではありません。早く進んだように見せたい。安心したい。現場を責められたくない。株主に良い数字を見せたい。そういう気持ちから、緑は増えます」
彼女は、壁を見た。
「でも、緑の嘘は、赤より危険です。赤は見えます。黄色も見えます。緑は安心させます」
山崎が言った。
「ですので、緑も監査します」
高瀬は頷いた。
「はい。緑も監査します」
宮内が言った。
「完了率だけをKPIにしない。これは財務にも入れます」
遠野が言った。
「技術にも。対応済みアラートのサンプル監査を入れます」
瀬尾が言った。
「被害者支援にも。支払い完了と支援完了を分けます」
飯倉が言った。
「広報にも。公表済みと説明済みを分けます」
怜子が言った。
「法務にも。契約締結済みと運用確認済みを分けます」
佐伯が、議事録に一つずつ入力する。
高瀬は最後に言った。
「平時の最初の敵は、善意の省略でした。明日も、未了から見ます」
午後九時三十分。
攻撃者からメールが届いた。
件名。
Green
本文。
The dashboard lies before people do.
人が嘘をつく前に、ダッシュボードが嘘をつく。
怜子は、その文を読んだ。
また、腹が立つほど正しい。
ダッシュボードは、人が作る。だが、一度色がつくと、人は色を信じる。
緑。黄色。赤。
色は、判断を速くする。同時に、思考を省略させる。
怜子はメールを保存した。
議事録に書く。
攻撃者よりダッシュボード表示に関する示唆メールを受信。対応は攻撃者の評価ではなく、緑判定サンプル監査、未了事項管理基準、平時移行点検表に基づき進める。
それから、壁に新しい紙を貼った。
緑を信じる前に、根拠を見る。
山崎が、画面越しに言った。
「よいですね」
怜子は笑った。
「使える文ですか」
「使える文です」
最高評価だった。
午後十時四十五分。
日下部澄江の娘から、A市経由でメッセージが届いた。
今日の更新で、FAQが確認中と書いてありました。前なら「できました」と書かれていたかもしれません。確認中と書いてくれるほうが、私は安心します。
怜子は、その文を高瀬に共有した。
高瀬は、しばらく黙った。
「黄色は安心にもなる」
「はい」
「明日の社内メッセージに入れましょう。確認中と書くことは、遅れの言い訳ではなく、相手への誠実さになる場合がある」
山崎が言った。
「よいです。ただし、確認中を放置しないこともセットで」
高瀬は頷いた。
「もちろんです」
午前零時。
平時移行一週間目のレビューが終わった。
緑は減った。黄色は増えた。赤も見えた。A市向けFAQの古い番号が見つかった。支援費用処理と支援継続が分けられた。紙資料の版管理が修正された。未了事項登録基準が作られた。緑判定サンプル監査が始まった。
見栄えは悪くなった。
しかし、会社は少しだけ正確になった。
怜子は、就任後一週間レビューの最終版を保存した。
ファイル名。
就任後一週間レビュー_緑判定見直し_平時移行点検
佐伯が確認する。
「保存ログ、資料番号、次回確認日、取締役会報告予定、A市共有版、全部入りました」
「完了根拠は?」
「添付済みです」
怜子は、少し笑った。
「いいですね」
午前零時二十六分。
高瀬は退社前に、壁の前で立ち止まった。
「今日の言葉は、これですね」
彼女は紙に書いた。
黄色は、誠実さの色にもなる。
怜子は、その言葉を見た。
緑だけを目指す会社は、また神話を作る。赤を隠す会社は、また沈黙する。黄色を許せる会社は、確認を続けられる。
壁に紙が貼られた。
もう本当に余白は少ない。
山崎が言った。
「そろそろ壁の整理も必要ですね」
高瀬は答えた。
「消すのですか?」
「いいえ。体系化します」
怜子が言った。
「壁の言葉を、規程、台帳、研修、監査項目に対応させる」
山崎は頷いた。
「はい。壁の棚卸しです」
高瀬は少し笑った。
「壁まで棚卸しするのですね」
山崎は真面目に答えた。
「壁も、放置すると神話になります」
文書保管室に、静かな笑いが広がった。
午前一時。
文書保管室の灯りを消す前に、怜子はダッシュボードの修正版をもう一度見た。
緑。黄色。赤。
以前なら、赤を減らすことに心を奪われていた。黄色を緑に変えることを進捗だと思っていた。
今は違う。
赤を見つけること。黄色を黄色のまま扱うこと。緑に根拠を求めること。
それが、平時の仕事だ。
危機は、会社に叫ぶ。平時は、会社に囁く。
「もう大丈夫」「これくらいでいい」「後日でいい」「緑にしておこう」「細かすぎる」「前も問題なかった」
その囁きが、次の神話を作る。
怜子は、壁の最後に貼られた紙を見た。
平時の敵は、善意の省略。
本当にその通りだ。
彼女は灯りを消した。
廊下に出ると、社内は静かだった。
平時の静けさだ。
だが、その静けさの中で、明日の午前十時の住民向け更新予定、A市のFAQ確認期限、未了事項の赤、緑判定監査、支援窓口の継続対応が、確かに残っている。
それらが残っている限り、まだ忘れてはいない。
怜子は、スマートフォンに明日の最初の予定を確認した。
午前七時三十分 未了確認
それを見て、少しだけ安心した。
翌朝も、会社は未了から始まる。





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