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第二十三章 駿河湾に沈む声

放送が終わってから、声がどこへ行ったのか分からなくなる瞬間が増えた。体育館の声は天井に当たって戻ってくる。放送室の声はガラスの向こうへ抜けて、校舎のどこかで誰かの昼の匂いに混ざる。でも、校舎の外へ出た声は――戻ってくる先が見えない。

昼休み、廊下ですれ違った一年が「匂いが先に…」と口の中で言いかけて、友だちに笑われていた。笑い声は軽く、軽いまま風に散った。幹夫(みきお)の文章も、そうやって散ったのだと思った。散ることは怖い。けれど散らない言葉は、たぶん息が詰まる。

その日の放課後、担任が小さな封筒を幹夫に渡した。中には、USBのような小さなものが入っていた。

「昨日の放送、録ってもらったんだ。放送委員がね。自分で聴くと恥ずかしいけど、記録って大事だから」

記録。紙の記録、写真の記録、朱肉の記録。今度は声の記録だ。声の記録は、紙より軽い顔をしているのに、見えない分だけ怖い。

家に帰って机の引き出しに入れる、という段取りが頭の中で組まれた。組まれたのに、足は家と反対へ向かった。気づいたら、しずてつの駅の方へ歩いていた。

自分がどこへ行きたいのか、幹夫は説明できなかった。説明できないままでも、足だけは知っていることがある。潮の匂いがする方向。清水の風の方向。

新静岡から電車に乗ると、車内の冷房の匂いに生活の匂いが重なった。惣菜の袋、柔軟剤、濡れたハンカチ。匂いが混ざると、胸の奥の段差が少しだけ目立たなくなる。目立たなくなると、考えが少し遅くなる。

JRに乗り換えて、短い時間だけ東へ行く。窓の外に、山影と、町と、灰色の道路。その先に、青いものが見え始める。

駿河湾は、見るより先に匂いで来た。潮の膜の匂い。外側に貼りつく匂い。茶町の匂いが内側に沈む匂いなら、これは皮膚の上に薄く座る匂いだった。

清水の駅を降りると、空が少し広い。広いのに、音が多い。トラックの低い音、信号の電子音、遠くの汽笛みたいな響き。音が多いのに、海の方へ近づくほど、声だけが小さくなっていく気がした。

港へ出ると、風が真正面から来た。真正面の風は、言葉を押し返す。押し返されると、人は黙る。黙ると、海の音だけが残る。波の音は一定じゃない。一定じゃないから、余計な言葉を薄くしてくれない。その代わり、波は波で「ここにいる」を繰り返す。

幹夫は防波堤の端の方に座った。コンクリートが手のひらにざらつく。ざらつきは現実だ。現実は、いまここを逃がさない。

湾の水面は、昼の光を小さく跳ね返していた。跳ね返る光は目に痛い。痛いのに見てしまう。見てしまうのは、光が「沈む」を教えるからだ。光は水の中へ落ちていって、形を失って、でも確かにそこにあったことだけは残す。

幹夫はポケットからスマホを出した。録音した声が入っている小さなものを、指先で確かめる。USBは冷たく、冷たいまま「これは物です」と言っている。声が入っているのに、物みたいに黙っている。

スマホの画面を開いて、録音データを再生する。イヤホンは使わなかった。使うと、声が自分だけのものになってしまう気がした。

自分の声が、小さく鳴った。

「夏は、匂いが先に帰り道を作る」

聞こえた瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなる。狭くなるのに、固まらない。固まらない狭さは、もう何度も知っている。

声は続いて、火薬の匂いに触れ、煙がほどける方向に触れ、渋滞の匂いに触れていった。文章の中では、声は沈まない。沈まないように並べたつもりだった。でも海の前で聴くと、声は一文ごとに水面へ落ちていく感じがした。

落ちた声は、戻ってこない。体育館みたいに反響しない。放送室みたいにガラスが返してくれない。ただ、水の上に薄く広がって、どこかへ消える。

それが“駿河湾に沈む声”なのだと、幹夫は思った。沈むのは悪いことじゃない。沈んだら終わり、ではない。けれど沈んだ声は、拾いに行けない。拾いに行けないものを、自分は最近たくさん増やしている。

幹夫は再生を止めた。止めた瞬間、港の音が戻ってくる。遠くで誰かが笑い、誰かが呼び、車が曲がり、カモメが短く鳴く。声は沈むのに、街の音は沈まない。沈まない音があるのは、受け取るものがそこにあるからだ。

幹夫は、母のトーク画面を開いた。“話したい”が先に浮かぶ。何を話したいかは整っていない。整っていないまま送ると、言葉が倒れる。倒れた言葉は拾うときに余計な形になる。余計な形になりたくなくて、指が止まる。

音声メッセージのボタンを長押しして、録り始めた。赤い丸が点いて、時間が動く。動く時間は、逃げ道を減らす。

「……母さん」

言えたのはそれだけだった。その次が出ない。出ないのに、赤い丸は動いている。動いているものは、こちらの沈黙を許さない。

幹夫は指を離した。送信される前に、録音は止まった。送られない声が、スマホの中に一瞬だけ残って、それから消えた。

消えた声は、どこへ行くのだろう。駿河湾に沈むのだろうか。沈んでしまうなら、いっそ沈ませないために言葉を選べばいいのに――選べない。選べないとき、声は沈むしかない。

幹夫はスマホをポケットにしまい、海を見た。波の線が、防波堤に当たって折れる。折れて、白くなる。白くなって、すぐ消える。消えるのに、次の波が来る。次の波は、さっきの波とは違う形で来る。違う形で来ても、波であることだけは同じ。

それを見ているうちに、幹夫の胸の奥の狭さが、少しだけほどけた。ほどけたのは答えが出たからじゃない。沈むものがある、と認めただけだ。沈むことを認めると、沈まないものを無理に探さなくて済む。

港の反対側から、子どもの声が聞こえた。

「おーい!」

呼び声は水の上を走って、戻ってきた。戻ってきたのは反響じゃない。呼ばれた相手が「なにー!」と返したからだ。返ってくる声があると、声は沈まない。沈まない声は、壁じゃなくて、人が作る。

幹夫はそのやりとりを見ずに、ただ聞いた。聞くだけで、胸の中の段差が少し低くなる。

帰り道、駅へ向かう風は相変わらず潮の膜を連れていた。外側に貼りつく匂いは、落とすのに時間がかかる。時間がかかる匂いは、あとからじわっと効いてくる。

電車の窓から見える湾は、さっきより暗い青になっていた。青が濃くなると、声が沈む場所みたいに見える。でも沈む場所があるということは、浮く場所もあるということだ。浮く場所は、どこかで誰かが受け取る場所だ。

家に着くと、祖母のやかんが鳴く前の気配がした。湯気が立つ前の揺れ。茶の匂いが先に沈む。沈む匂いは内側の匂いで、潮の膜を少しずつ剥がしていく。

「おかえり」

祖母の声。幹夫は「ただいま」と返して、手を洗った。指先の塩の感じが少しずつ落ちる。落ちると、今日が“今日の中”に戻る。

納屋のほうから、麻ひもの擦れる音。父が茶袋の口を縛っている。幹夫は入口で一度止まって、息を整えるふりをした。ふりでもいい。ふりがあると、口が動く。

「……父ちゃん」

父は振り向かずに「ん」と返した。短い返事。短い返事は、続きを待つ返事だ。

幹夫は言った。

「……清水、行ってきた」

父の手が一瞬止まった。止まったのに落ちない。止まり方が短いほど、その止まり方は目立つ。

父は茶袋の角を押し、ずれないか確かめる。確かめる動作が返事の代わりになる。

「……潮、つくぞ」

それだけ。褒め言葉でも、叱りでもない。でもそれは、父が今日置けるいちばん壊れにくい言葉だった。壊れにくい言葉は、受け取れる。

「……うん」

幹夫は短く返して、台所へ向かった。湯飲みを両手で包む。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、港で消えた声の残り方に少し似ていた。消えた瞬間には何も変わらないのに、夜になって、湯気の中で、ようやく胸の奥へ効いてくる。

その夜、幹夫は原稿用紙の端に短い一行を書いた。

「沈む声は、海に捨てるんじゃなくて、置いてくるのだと思った」

書いて、消しゴムは取らなかった。整っているかどうかは分からない。でも今日は、整っていないまま置いていい気がした。置いてみないと分からないことがある。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、駿河湾に沈む声にも“沈む役目”がある――受け取られない声があるからこそ、受け取られる声の温度が分かるのだと、その夜の茶の香りの向こうで、指先だけがそっと覚えていた。

 
 
 

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