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第二十二章 風はまだ、茶畑の奥で

昼の放送が終わった次の日、幹夫(みきお)は教室の匂いがいつもより薄く感じた。黒板の粉も、消しゴムのゴムも、誰かの柔軟剤も、いつも通りそこにあるのに――それらが一枚、膜を張ったみたいに遠い。遠いのは、匂いのせいじゃない。自分の声が一度、学校の中へ散ってしまったせいだ。

散ったものは、集められない。集められないのに、ところどころで残っているのが分かる。廊下ですれ違った下級生が、友だちに小さな声で言っていた。

「昨日の放送さ、あの…“匂いが先に”ってやつ」

“匂いが先に”の言葉が、自分の言葉のはずなのに、誰かの口の中で別の色をしていた。色が変わると、戻ってこない。戻ってこないことが怖いのか、戻ってこないまま誰かのものになってしまうのが怖いのか、幹夫はまだ区別がつかなかった。

教室で俊が、椅子に座ったまま言った。

「なんかさ、あれ、昼飯の匂い変わるよな」

冗談みたいに言って、俊はすぐ唐揚げを口に入れた。笑いの形にしてくれる軽さが、助かった。助かるのに、胸の奥は少しだけ熱い。熱いのは嬉しさじゃなく、触れられたところがまだ落ち着かないからだ。

幹夫は「うん」と言って、弁当箱の蓋の端を押さえた。押さえると、蓋のプラスチックが指に冷たく当たる。冷たいものは、今ここを確かにする。確かにすると、余計な想像が減る。

放課後、帰り道の空はまだ明るかった。終わりを言い切らない明るさ。それでも影だけが先に伸びている。静岡の午後四時の影は、光より生活に近い顔をして、足だけを早くする。

しずてつの踏切が鳴る前の一拍が来た。止まれる時間。止まれるから考えてしまう時間。でも今日は、その一拍が短く感じた。短いのではなく、身構えるのが遅れた。遅れたのに、転ばない。転ばない遅れがあることを、幹夫は最近、少しずつ知っている。

家に着くと、祖母の鍋の匂いが先に迎えた。だしの匂い。湯気が立つ前の匂い。内側へ沈む匂いに触れると、学校の中のざわめきが少しだけ剥がれる。剥がれても、完全には落ちない。完全には落ちないものがあることを、幹夫は火薬の匂いで知っている。

「おかえり」

祖母の声。幹夫は「ただいま」と返して、鞄を置いた。置いた鞄の底が畳に触れて、小さく鳴る。小さい音は、家の中で長く残る。

納屋のほうから、麻ひもの擦れる音がした。父が茶袋の口を縛っている音。土と機械油と茶の青さが混ざった匂いが、夕方の影の中で少し濃い。

幹夫は、納屋の入口まで行って――入らずに、そのまま裏へ回った。茶畑の方へ。

畑の道は、夕方になると急に静かになる。静かになるのに、葉の擦れる音だけは増える。増える音は、風が吹いている音ではなく、風が“吹く準備”をしている音に似ていた。

風はまだ、茶畑の奥で。そういう感じがした。まだ表には出てこない。でも奥のほうで、葉の裏をひっくり返して、音になりかけている。

幹夫は畝と畝の間に立ち止まって、指先で茶葉に触れた。葉は意外と固い。固いのに、触ると少しだけしなる。しなる感じが、声の出方に似ている。硬いと割れそうで、柔らかいと沈みそうで、その間のところにしか乗れないものがある。

遠くの空に、薄い雲がかかっていた。富士の形は見えそうで、見えない。見えないのに、いると分かる。見上げるには幼すぎたころの首の痛みが、一瞬だけ思い出されて、幹夫は視線を下げた。下げると、茶葉がある。茶葉は逃げない。逃げないものを見ると、心が少しだけ落ち着く。

畝の奥から、父の気配がした。気配が近づく。足音は一定で、一定の音は余計な言葉を薄くする。

父は幹夫を見つけても、すぐには声をかけなかった。声をかけないまま、茶の枝を一本だけ持ち上げて、葉の色を確かめる。確かめる指先は丁寧すぎない丁寧さで、生活の中の動きだった。

やがて父が、前を見たまま言った。

「……放送、だら」

確認の形をしているのに、知っている形だった。知っている、は見ているに似ている。見ていると、胸の奥が少しだけ狭くなる。

幹夫は一拍置いて答えた。

「……うん」

父は「そうか」とも言わず、畝の土を靴の先で軽くならした。土が落ち着く。落ち着いた音はしないのに、落ち着いた気配はある。落ち着くというのは、重さが定まることだ。

父はそれから、ぽつりと言った。

「……声、戻ってくるか」

戻ってくる。体育館の反響。放送室のガラスの向こう。戻ってくる音は、沈む音とは違う。沈まない場所を探す音。

幹夫は、喉の奥の乾きを一度だけ飲み込んで、短く言った。

「……戻ってきた」

父の手が、茶の枝の上で一瞬止まった。止まったのに、落ちない。止まり方が短いほど、その止まり方は目立つ。

父は枝を戻して、畝の向こうを見た。見ているのは茶畑のはずなのに、見ているふりの中に、別のものが混ざっている気がした。父の言葉はいつも少ない。少ないまま、たまにこうして“中身”だけが漏れる。

「……水、飲め」

それだけ。段取りの言葉。でも今日の水は、喉のためだけじゃなく、声のための水にも聞こえた。

幹夫は頷いた。頷いたことが、自分でも分かる程度の小さな動き。小さいのに、今日はそれで十分だった。

家に戻ると、祖母が台所で湯を沸かしていた。やかんの鳴く前の気配。湯気が立つ前の揺れ。踏切の一拍と似ているのに、ここでは怖くない。続きが分かるからだ。

「幹夫、茶ぁ飲め」

祖母の声。幹夫は湯飲みを両手で包む。熱が掌に移る。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、今日父が言った「戻ってくるか」の残り方に似ていた。言われた瞬間には何も変わらないのに、あとからじわっと効いてくる。

夜、スマホが震えた。母からだった。

「放送、聞けなかったけど、想像してた。 幹夫の声、沈まないで、ちゃんと戻ってくるやつだって」

“想像してた”という言葉が、優しい形をしているのに、胸に少し痛い。想像は、当たらなくても当たってしまうからだ。当たってしまうと、こちらの中身が見えた気がして、恥ずかしい。

幹夫は返信欄を開き、短く打った。

「戻ってきた。茶畑のほうから」

送信してから、自分でも少し驚いた。茶畑のほうから、なんて言い方を、なぜ選んだのか分からない。分からないのに、嘘じゃない感じがした。声は学校のスピーカーから出たのに、戻ってくる場所は、いつも同じとは限らない。戻ってくる場所が変わるということが、少しだけ救いだった。

机に向かって、幹夫は原稿用紙の端に、短い一行を書いた。

「風はまだ、茶畑の奥で、声になる前の音を抱えている」

書き終えて、消しゴムは取らなかった。整っているかどうかは分からない。でも今日は、整っていないままでも置いていい気がした。置いてみないと分からないことがある。

窓の外で、虫が鳴いた。蝉ではない、小さな声。夏が本気を出す前の声。その声は、途切れてもまた鳴ける鳴き方をしていた。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、声が外へ出たあとに戻ってくる道はひとつじゃない――沈む場所ばかりじゃなく、茶畑の奥みたいに、まだ言葉にならない音が待っている場所もあるのだと、その夜、湯気の向こうで指先だけがそっと覚えていた。

 
 
 

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