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第二十四章 安倍川の向こうで、夏は止まっていた

潮の膜は、洗ってもすぐには落ちない。手を洗って、顔を洗って、シャツを替えても、ふとした瞬間に指先が「まだいる」と言ってくる。駿河湾の匂いは外側に貼りつく匂いで、茶町の匂いみたいに内側へ沈んでくれない。沈んでくれないから、剥がすのに時間がかかる。

朝、幹夫(みきお)は洗面所で、爪の端をもう一度だけ確かめた。白くなった塩の跡はない。ないのに、指の腹のどこかがまだざらっとしている気がする。気がする、というのは厄介だ。確かじゃないから、確かめたくなる。

台所から、祖母のやかんが鳴く前の気配がした。湯気が立つ前に、茶の匂いだけが先に沈んでくる。沈む匂いは、胸の奥の段差をなだらかにする。なだらかになると、昨日の海の青も少しだけ薄くなる。

「幹夫、今日は暑いで。川でも行く気か」

祖母は湯飲みを畳に置きながら、天気の話みたいに言った。川、という単語が口から出たのが、少しだけ不思議だった。祖母は「海」とは言わない。海は遠い。川は生活の延長だ。生活の延長にあるものは、言いやすい。

幹夫は湯飲みを両手で包んで、短く返した。

「……安倍川、行こうかな」

言った瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなる。狭くなるのに、固まらない。固まらない狭さは、行くと決めた狭さだった。

居間でテレビをつけていた父が、音量を一段だけ下げた。振り向かずに言う。

「……昼までに戻れ」

段取りの声。段取りの声は、否定じゃない。否定じゃないのに、勝手に安心する。安心するのは、帰ってくる場所が決まるからだ。

「……うん」

幹夫はそう返して、机の引き出しを開けた。小さなUSBを指先で摘まむ。冷たい。冷たいものは、いまここを確かにする。確かにすると、余計な想像が少しだけ減る。

ポケットに入れて、チャックを閉める。布越しに角が当たる。硬い角は、逃げ道を減らす。減った逃げ道のぶん、足が前へ出る。

安倍川へ向かう道は、国一ほど急がない。急がない道には、生活の匂いが溜まっている。畑の土、洗濯物の柔軟剤、どこかの味噌汁の湯気。その中に、川の匂いがだんだん混ざってくる。水と草と、白い石が熱を持った匂い。

堤防が見えるころ、空はまだ高く、眩しさだけが先に夏を名乗っていた。蝉はまだ全力ではない。鳴く前の、ためらいみたいな声だけが、ところどころの木陰から落ちてくる。

河原に降りると、白い石が一斉に光った。昼の白は嘘がない。嘘がないぶん、影が来るのが早い気がする。石の間に、乾いた草が挟まっている。草は茶葉ほど硬くない。指で触ると、すぐ折れる。折れるものがあると、逆に折れないものが目立つ。

川は、海よりも低い音を出していた。波の音じゃない。押して戻って、また押して――という繰り返しの音じゃなく、ただ流れていく音。流れていく音は、反響を求めない。求めないぶん、こちらも反響を期待しなくなる。

幹夫は堤防の斜面に腰を下ろした。背中に当たる草がちくちくする。ちくちくは小さい痛みで、小さい痛みは今ここを逃がさない。

目の前に広がる河原の向こう側。野球の練習をしている子どもたちがいて、掛け声が風に運ばれてくる。「ナイス!」「いけ!」声は軽くて、軽いまま飛ぶ。軽い声は沈まない。沈まないのは、返ってくる相手がいるからだ。

幹夫はその声を聞きながら、ふと“向こう側”を見た。川の向こうの土手。あの夏、花火の帰りに、人の波が押し合っていた場所の近く。今日は誰も押し合っていない。でも石の白さと、草の匂いと、少し遠い焼きそばみたいな匂いの残り方が、あの夜に似ている気がした。

安倍川の向こうで、夏は止まっていた。止まっているのは時間じゃない。匂いと、石の白と、喉の奥の薄い膜だけが、置き去りになっている。

幹夫はポケットのUSBを取り出して、掌の上で転がした。冷たさはもう少し弱い。体温が移って、物が“自分のもの”になっていく感じがする。自分のものになると、手放すときの怖さが増える。

スマホを開いて、録音データを再生する。今度はイヤホンを使った。使うと、声が自分だけのものになる気がして怖かったのに、河原の風の中では、少しだけ違う気がした。外の音が大きいぶん、耳の中の声は小さくなる。小さい声は、壊れにくい。

「夏は、匂いが先に帰り道を作る」

自分の声が、耳の中で鳴る。鳴り方が、海で聴いたときとは違った。海では、一文ごとに水面へ落ちていく感じがした。ここでは、声が石の間を流れていく感じがした。沈むというより、運ばれる。運ばれて、どこかで薄くなる。薄くなるのに、消える前に誰かの足元を濡らす。

幹夫は再生を止めて、川の音だけを聞いた。川は答えを返さない。返さないのに、流れていく。流れていくものは、いつか遠くの海に届く。届くのに、途中にたくさんの場所がある。途中の場所があると思うと、沈む声も、沈まない声も、一気に決めなくていい気がした。

スマホの画面で、母のトーク画面を開く。文字を打つ場所が、いつもより白く見える。白い場所は、書けと言ってくる場所だ。書けと言ってくる白は、作文の余白と違って、こちらの息に合わせてくれない。

幹夫は、音声メッセージのボタンを長押しした。赤い丸が点いて、時間が動く。動く時間は逃げ道を減らす。逃げ道が減ると、言葉が固まる。

「……母さん」

言えた。前回、清水で止まったところまで、今度は越えられた。越えられたのに、その先の言葉がすぐには出ない。出ない間に、川の音がマイクに入っていく。川の音は、言葉を急かさない。急かさないのに、黙っていることも許してくれない。ただ録れていく。録れていくものは、あとから残る。

幹夫は息を吸って、吐きながら言った。

「……いま、安倍川」

それだけ。それだけで十分かどうかは分からない。でも、十分じゃなくても送れることがある。言葉が倒れない程度の短さなら、送ってもいい気がした。

指を離す。送信される。送信されたことが、画面の小さな表示で分かる。分かった瞬間、胸の奥がきゅっと縮んで、それから少しだけほどけた。

ほどけたのは、返事が来たからじゃない。声が沈まなかったからだ。沈む場所を選ばずに、流れに乗せたからだ。

しばらくして、母から返事が来た。

「安倍川…懐かしい。石、白いでしょ。 声、川の音入ってるね」

“入ってるね”という言い方が、やわらかかった。やわらかい言葉は、こちらの余白を押さえつけない。幹夫は画面を見て、短く打った。

「うん」

送信して、スマホを伏せた。川の風が頬に当たり、塩の膜ではなく、乾いた草の匂いが鼻の奥へ入った。内側へ沈む匂いじゃないけれど、外側に貼りつく匂いでもない。途中の匂い。途中の匂いは、どちらにも偏らない。

川辺を歩いていると、石の上に小さな影が走った。トンボだ。夏が本気を出す前の、軽い影。軽い影は、止まっている時間の上も平気で渡っていく。

幹夫は河原の端の草むらにしゃがんで、石を一つ拾った。白い。手のひらに乗ると、意外と重い。重いのに、重さが心地いい。重いものは、持っていることが分かる。分かると、落とさないように手が丁寧になる。

川の向こうを見た。向こう側で、子どもたちの声がまた上がる。声は風に乗って、薄くなる。薄くなるのに、消えない。消えないのは、誰かがその声に反応して、次の声を返すからだ。

返ってくる声があると、声は沈まない。沈まない声は、壁じゃなくて、人が作る。清水で見た子どもの呼び合いが、ここでも繰り返されている。

幹夫は石を元の場所に戻した。戻すと、石はまた河原の一部になって、重さを主張しなくなる。主張しなくなる重さのほうが、本当の重さかもしれない、とふと思った。

帰り道、堤防を上がると、空が少しだけ傾いていた。午後四時に近い影が、草の先から伸び始める。静岡の午後四時の影は、光より生活に近い顔をして、帰る人の足を早くする。影に押されるように、幹夫は歩いた。

家に着くころ、祖母のやかんが鳴った。湯気が立ち、茶の匂いが部屋に広がる。茶の匂いは内側へ沈む匂いで、潮の膜を少しずつ剥がしていく。

「茶ぁ飲め。冷めんうちに」

祖母の声。幹夫は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、さっき送った短い音声の残り方に似ていた。送った瞬間には何も変わらないのに、湯気の中で、あとからじわっと効いてくる。

納屋のほうから麻ひもの擦れる音がした。父が茶袋の口を縛っている。幹夫は入口で一度止まり、息を整えるふりをした。ふりでもいい。ふりがあると、口が動く。

「……父ちゃん」

父は振り向かずに「ん」と返した。短い返事。短い返事は、続きを待つ返事だ。

幹夫は言った。

「……川、行ってきた」

父の手が一瞬止まった。止まって、また動く。止まった時間は短い。短いのに、わざと作った間に見える。

父は茶袋の角を押し、ずれないか確かめる。確かめる動作が返事の代わりになる。

「……暑かっただろ」

それだけ。でもその言葉は、河原の石の重さみたいに、余計な形をしないまま胸に落ちた。

「……うん」

幹夫は短く返した。沈まない「うん」だった。

その夜、机の上の原稿用紙の端に、幹夫は一行だけ書いた。

「止まっている夏は、向こう側にあるのではなく、こちらが立ち止まった場所に残る」

書いて、消しゴムは取らなかった。整っているかどうかは分からない。でも今日は、整っていないまま置いていい気がした。置いてみないと分からないことがある。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、駿河湾に沈ませた声とは別に――安倍川の流れに乗せて、短いまま渡せる声があることを、その日の午後四時の影の中で、指先だけがそっと覚えていた。

 
 
 

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